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コーチ物語 クライアント29「桜、散る」その2

 羽賀さんに連れて来られたのは、街中にある喫茶店。そういえばこうやって街に出るのも久しぶりだな。いつもは通学で付近を通りはするけれど、こんな裏通りまでは来ないからな。
「ここの二階だよ」
 そう言って羽賀さんは軽快に階段を上がっていく。僕もその後ろからついていく。初めて登る大人の階段、そんな感じがした。
カラン・コロン・カラン
 羽賀さんが扉を開けると、軽快なカウベルの音が鳴り響く。と同時に聞こえる女性のいらっしゃいませの声。少し遅れて低い男性の声でいらっしゃいませが。さらに扉の向こうから甘いクッキーの香りとコーヒー独特の苦味のある香りが僕を包み込んだ。
「こんにちは」
「あ、羽賀さん」
 とてもかわいらしいお姉さんが羽賀さんの名前を呼ぶ。どうやら羽賀さん、ここの常連さんみたいだな。
「今日は友だちを連れてきました」
 僕のことを友達と紹介してくれる羽賀さん。これは意外だった。だってさっき知り合ったばかりなのに。けれど、何だか嬉しい。
「まだ若いよね」
「は、はい。この前高校を卒業したばかりです」
 お姉さんの言葉にちょっと緊張して応える僕。思えばこういった女性と話なんてしたことがなかった。同級生の女の子でさえ話すのに緊張するのに。
「ま、こっちに座って」
 そう言って案内されたのはカウンター席。そこでこのお店のマスターとも対
峙することに。
「羽賀さんとはどういったお知り合いで?」
 マスターの質問には羽賀さんが答えてくれた。
「実はさっき、道を歩いていたらお互いにぶつかっちゃって。ボクもイサオくんも、空をぼーっと眺めていたんですよ。ま、そんな仲です」
 そんな仲って、それでわかってくれるのかな? ところが驚いたことにマスターはニコニコしながらそうなんですね、と言ってくれた。
「今日はいい天気ですよね。空を眺めたくなるのもわかるな」
「マイさんもそう思うでしょ。だからボクもイサオくんもそういったところで気があったのかなって思って。で、今日はその記念にカフェ・シェリーにお誘いしたってわけです」
「あは、羽賀さんらしいな。イサオくんっていうんだ。私、マイっていいます。羽賀さん、ちょっと変な人でしょ?」
「あ、えぇ。あ、そんなことありません」
 思わず言い直したけれど、確かにマイさんの言うとおり羽賀さんはちょっと変な人。だけど嫌いじゃない。いや、むしろどことなく惹かれている自分がいる。
「男にナンパされるなんて初めてでしょ」
 羽賀さんは茶目っ気たっぷりにそういう。そう言われれば、こういった誘われ方なんて初めてだ。というか、女性に誘われたこともないけれど。
「ははは、まぁ羽賀さんって人にとても興味を持っているからね。注文はいつものでいいかな?」
「はい、お願いします。イサオくんはコーヒーは飲めるよね?」
「あ、はい」
「ここのコーヒーには魔法がかかっているから。面白い体験ができると思うよ」
「魔法、ですか?」
「そう、魔法。どんな魔法かは飲んでからのお楽しみにしておこう。ところでイサオくん、これからの進路はどう考えているのかな?」
「これから、ですか。まぁ浪人してまた大学を受験しようとは思っていますけど。でも、なんか今ひとつ自分のこととして捉えられないんですよね」
「捉えられない、というと?」
「はい、そもそも今回落ちた大学って、自分がどうしても行きたいところでもなかったし。とりあえず行けそうな大学を選んで受験してみた、というところではあったんです。といっても、ちょっとだけ難しいかなと思ったところにはチャレンジしてみたんですけど」
「そうか、チャレンジはしたんだね。それはすごいじゃないか。安易に大学を選んではいない、ということだからね」
 羽賀さんにそう言われると、なんかちょっとだけ嬉しい気持ちになれた。
「そっか、大学を落ちちゃったか。それはおめでとう」
 今度はマスターが意外な言葉を僕にかけてきた。大学を落ちたのにおめでとうって、どういうことなんだ?
「あはは、不謹慎な言葉だったかもしれないけれど。でも今のは私の本当の気持ちなんだよ」
「どうしておめでとうなんですか?」
「ちょっと考えてみてごらん。もし今回大学に受かっていたら。イサオくんはこの先どんな生活をしていたと思う?」
 そう言われて考えてみた。今まで大学に受かった時の生活なんて考えてもみなかったから。
「そうですね……まぁ、大学で友だちを作って、どこかのサークルにでも入って。それなりに大学生活を楽しんでいたかもしれません。もちろん勉強もそれなりにやっては行くと思いますが」
「それなり、か。じゃぁ、将来どんな職業に就いていただろうね?」
「将来の職業ですか? うぅん、特にこれといったものは考えていなかったですけど……」
「だからおめでとう、なんだよ」
 マスターの言うことはますますわからない。
「マスター、それじゃイサオくんなんのことだかわからないでしょ。ちゃんと説明してあげなきゃ」
 マイさんが助け舟を出してくれた。けれど、その助け舟も意外な方向へと進んでいくことに。
「イサオくん、自分の人生ってゆっくりと考えたことがなかったんじゃない?」
「あ、はい。とりあえず大学に行ってから考えようかと。そう思っていました。進路も数学が得意だから、とりあえず理系に行っておけばいいかと思って決めましたし」
「とりあえず、か。今回大学を落ちたことで、その気持はどう変わっていくだろうね?」
「どう変わっていくかって……それはまだわからないです。ほんのちょっと前にそれがわかったばかりだし……」
 マイさんの言葉で余計に混乱してきた。僕はこの先どうなっていくんだろう? そしてどこに向かっていけばいいのだろう?
「その答えを教えてくれるのがこの魔法のコーヒー、シェリー・ブレンドだよ。さぁ召し上がれ」
 そう言ってマスターはカウンター越しにコーヒーカップを僕に渡してくれた。そういえば魔法のコーヒーって言っていたよな。それ、どういう意味なんだろう。そしてさっきの答えを教えてくれるってどういうことなんだろう?
「イサオくん、このコーヒーを飲んだ時に感じたことをあとでそのまま教えてくれるかな?」
 羽賀さんの言葉にこっくりと頷いて、僕はコーヒーカップを手にした。

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