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コーチ物語 クライアント31「命あるもの、だから」その7

 そうして数日が過ぎて、私にとってはこの夏忘れられない最大の出来事が起こることになる。この出来事は本当は望んでいたことだけれど、でも心の奥では避けたいところだった。その出来事とは……。
「由香、飼い主見つかったわよ」
 山下さんの施設から帰ってきて、私はお母さんからその言葉を耳にした。一瞬喜んだ顔。でもその後すぐに私は複雑な気持ちが湧いてきた。
「そっか、もう子犬ちゃんと会えなくなるのか……」
 新しい飼い主に慣れてもらうために。里親となった家庭に馴染んでもらうために。私は子犬ちゃんとはお別れしなければならない。
 あの愛くるしい表情。ペロペロとなめてくるしぐさ。まだ子犬のあどけない表情から、徐々に大人びていくその途中で。私は子犬ちゃんと別れることになる。
「由香、どうしたの? うれしくないの?」
「う、うん。うれしいよ。うれしいけど、でも……」
 涙がじわりと出てきた。動物を飼うって、そして動物と別れるってこんなに悲しくて苦しいものなんだ。
 私の場合、まだ子犬ちゃんは生きている。会いに行こうと思えば、新しい飼い主の許可がとれれば会いにいける。そうでなくても、遠くからそっと見守ることもできる。
 けれど、お母さんのように動物の死に立ち会った人は、もっと辛くて苦しい思いをしたんだろうな。だからもう二度と、こんな思いをしたくない。そう思っているんだな。
 私はお母さんの苦しみの、ほんの一部でしかないけれど、その気持がわかった気がした。と同時に、お母さんに対しての見方が変わった。
「お母さん、ごめんなさい。私、今わかった。お母さんが昔どんなに苦しんだのか。動物を飼うって、最後の最期まで面倒を見るってことになるんだね。そんな日が来るなんて思いもしないけど。でも、でも……」
 思いが声にならない。子犬ちゃんと別れるだけでこんなにつらいのに、子犬ちゃんが死ぬなんてことを考えただけでも、とめどなく涙が溢れてくる。
「由香、動物を飼う責任って、本当に大きなものなんだってことがわかってくれたかな。動物はものじゃない。生きているものだから。そして、どうしても私たちよりも寿命が短くて先に死んじゃうことがほとんどでしょ。お母さんはもう、あんな悲しい思いをしたくないって。そう思っていたの」
 今ならその気持がよくわかる。私はお母さんの胸でしばらく涙を流した。
 ようやく気持ちが落ち着いて。お母さんはこんなことを私に言ってくれた。
「由香、あの子犬ちゃんは大丈夫。お母さんが見つけた飼い主さん、今までに何匹も犬を飼ってきた人なの。もちろん、お母さんが体験したつらい思いも何度もしてきた人。でも、その度に犬を飼いたいって思ってくれる人」
 それを聞いて安心した。子犬ちゃん、そこなら幸せな一生を送れそうだし、きっと可愛がってくれるはず。
「じゃぁ、早速その人のところに子犬ちゃんを届けに行こうか」
「うん」
 さっきよりは気持ちが軽くなった。私はお母さんと一緒に羽賀さんの事務所に出かけることに。羽賀さんにはすでにお母さんのほうから連絡をしてくれているとのこと。
 お母さんの運転する車で向かう途中、私は何度か子犬ちゃんをもらってくれる人のことを尋ねた。しかしお母さんは肝心なところをぼかして笑うだけ。何か隠している。そんな気がしてならないんだけど。
「由香ちゃん、子犬ちゃんの里親が見つかってよかったね」
 羽賀さんの事務所につくと、開口一番その言葉をもらった。
「でも、ちょっとさびしい思いはあるんですけど」
 羽賀さんには本音が言える。とても不思議な存在だな。
「じゃぁ、荷物はこれで全部かな。ドッグフードも余りがあるから入れておいたよ」
「ありがとうございます」
「由香ちゃん、子犬ちゃんを連れて行く前に一つだけ聞いてもいいかな?」
「はい、何でしょうか?」
「今回、わずか数週間だったけど、子犬ちゃんを通じて何を学んだかな?」
「学んだこと……」
 子犬ちゃんを通じて、私が学んだこと。真っ先に浮かんだのはこれ。
「はい、命の大切さです。犬でもネコでも、ちゃんと命があるんだってこと。それを今まで私はわかっていたようでわかっていませんでした。命には最後は終りがある。それを考えずに今まで生きてきた気がします」
「そうか、命の大切さか。それは山下さんが多くの人にわかってほしいと思っていることと同じだね」
「はい。山下さんのところでも、ただ単に犬の世話をすればいいっていうんじゃないってことを学びました。きちんとしつけをしたり、世話をしてあげないと動物って人にはなじまないし、人の役にも立てないんですね」
「うん、そうだね。だから動物はただ可愛がって飼うだけじゃダメ。飼い主が面倒を見るというのは、餌をやったり散歩をするだけじゃなく、どう生きるのかを動物たちに教えることでもあるってボクは思うんだよね」
 羽賀さんの言うとおりだ。思えば私たち人間も同じだな。ただ生きるだけなら、何をしてもいい。けれど、社会という中に生きている以上、そこに見合うような知識やマナーをきちんと学んで、守っていかないと。
「じゃぁそろそろ行こうか」
「はい」
 羽賀さんたちにお礼を言って、私は飼い主となる人の元へと向かった。そこは街から少し外れた山に近いところ。といっても、私たちが住んでいる街中からはそんなに遠くない。自転車で来ようと思えば来れる範囲かな。
「ここよ」
 着いたのはちょっと古い田舎の家。車の音でワンワンと吠える犬の姿を見ることができた。吠える、といっても威嚇の吠え方ではない。むしろ私たちを歓迎するような吠え方だ。
 その犬の声を聞いたからか。家の中からおばあちゃんが出てきた。
「ようこそ、いらっしゃい」
 その笑顔は私たちと子犬ちゃんを歓迎してくれるものだとすぐにわかった。私は子犬ちゃんを抱きしめ、そのおばあちゃんのところへと向かった。
「おうおう、この子かい。よしよし、なかなか可愛くて利口そうな犬だね」
 おばあちゃんは子犬ちゃんを撫でながらそう言う。すると子犬ちゃん、最初は臭いを嗅ぎながら警戒していたけれど、すぐにおばあちゃんの手を舐め始めた。
「よしよし、どうやら気に入ってくれたみたいだね」
 私は子犬ちゃんをおばあちゃんに受け渡す。おばあちゃん、慣れた手つきで子犬ちゃんを抱っこし、顔を近づける。すると子犬ちゃん、今度はおばあちゃんの顔をペロペロと舐め始めた。
「子犬ちゃん、もう慣れたみたいね」
 お母さんも安心したみたい。
 そうしていると、一台の車がこの家に近づいてきた。そして、その車から降りてきた人を見て、私はびっくりした。
「えっ、ど、どうして?」
 車から降りてきた人。その人はなんと……
「石垣先生!?」
 私は見開いた目を閉じることを忘れてしまった。

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