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コーチ物語 クライアント41「夢、その奥にあるもの」 第一幕 夢やぶれて その2

 この日の夜、私はなかなか眠ることができなかった。あの桜島という老人に言われた一言、
「ひょっとしたら博士は、まだ人生を諦めてはおらんのではないだろうか」
 これが頭の中をグルグルと巡っていた。
 いや、私はもういい、あんな人生は二度と送りたくない。だから東京まで出てきて、もう何も考えなくていい生活へと身を落としたのだ。この生活では、仕事のストレスは一切ない。家族に対して背負うべき重たいものもない。全てを手放すことができている。これ以上快適な生活はない。
 快適、そう思ったときにふとこんな考えが頭をよぎった。
「今の生活、本当に快適なのだろうか」
 持つお金はほとんどない。空き缶拾いなどをやって、ほんのわずかな日銭を稼いでいる。食べるものを確保するのも大変だ。コンビニやレストランのゴミ箱をあさり、なんとか口にできるものを確保する。
 住む場所も、ダンボールを組み合わせた家。冬の時期は寒すぎて縮こまって寝るくらいしかできない。夏の暑い時期は逆に、この部屋の中にいては熱中症になってしまう。だから屋外で眠れる安全な場所を探し回る。
 毎日その日を生きていくのがやっと。けれど、私には仲間がいる。その仲間からの情報があり、お互いに助け合うことで今の生活が成り立っている。
 仕事をしていた時は、会社の連中は皆ライバルだった。営業の数字をいかにして上げるのか、その秘策が見つかれば他の連中にいかにバレないようにするかで必死だった。
 だが私は、一人の部下を信じてしまった。彼の、山渕の裏切りで私はこのまま会社にいることをあきらめてしまったのだ。
 山渕は営業部の期待の星だった。以前、我が社の営業部に凄腕の若手がいたらしいが、その彼に刺激をされて山渕は大型案件を次々と決めていった。
 私は課長という立場で山渕を更に育て、我が社に大きな利益をもたらす人材として、特に目をかけていた。が、これがまさかあんなことになるとは。
 このことは思い出したくない。くの字になって、毛布をかぶって忘れようとしたその時である。
「おい、博士、起きてるか?」
 入り口にかけてあるバスタオルののれんをかき分け、トクさんが入ってきた。こういうのは日常茶飯事だ。
「トクさん、なんか用か?」
「お前さんよ、昼間老人と話をしてたろ?」
「あぁ、確か桜島とか言った、なんか変わったジイさんだったな」
「あのあとよ、おたけさんから聞いたんだけど。あの人、結構すごい人らしいわ。そこそこ金持ちで、やたら面倒見のいい人らしい。おたけさんの組織にも、いくらか寄付をしているらしいぞ」
「なんだ、あのジイさん、金持ちの道楽で声をかけてきたのか」
「オレもよ、最初はそう思ったんだよ。でもよ、どうやら違うらしい。あの人、オレたちみたいなホームレスに声をかけて、この生活から抜けさせてくれるようなこともやってるらしいぞ」
「やっぱり金持ちの道楽じゃねぇか。どうせ、こんな仕事があるからやってみないかと誘ってるんだろう。しかも、その仕事はどこかの飲食とか介護職とか、なかなか人が就かないようなものばかり紹介しているに違いない。それでもって、紹介料で儲けているんだろう」
 私は勝手に、あの桜島のジイさんの裏の顔をつくって語っていた。だが、トクさんは私の言葉を否定するかのように話を続けた。
「それがさぁ、あのおたけさんがすごく尊敬する人らしいぞ。なんでもその人をやる気にさせて、自分から動き出すように指導してくれるそうだ。もちろんお金は一切取らないし、今まで何人もの人があの人のおかげで社会復帰できているらしいぞ」
「じゃぁ、どうしてトクさんには声をかけなかったんだ? 私じゃなく他の人にも声をかければいいようなものを」
「さぁなぁ。でも、オレにそんな声をかけられても、オレはもうこの生活を辞める気はしねぇよ。もう身よりもねぇし、オレはオレなりにこの生活を満喫してるからなぁ」
「それなら私だって同じですよ。もう元の生活に戻ろうなんて思いません。今の生活に満足しています」
「博士、お前さん、本当に今の生活に満足しているのか?」
「えっ!?」
 トクさんのその言葉は、私の心にズシリと響いた。今の生活に満足しているのか、表面上はそう思おうとしている。けれど不安はある。いつ食べられなくなるのかわからない。いつ病気になるのかわからない。いつ路上でのたれ死ぬかわからない。本当に自分の人生、このままでいいのだろうか。そんな不安は常に抱えている。
「も、もちろん満足してるよ」
 私はトクさんの問いかけに、言葉の上では反論した。が、心の奥では否定できない自分がいることに気づいていた。
「いやな、この前みんなと話したんだ。博士は本当はこのままじゃいけねぇんじゃねぇかと思って。まだ若いんだから、今からでもやり直せる。オレらはもう年齢もそれなりにいってるし。もうこの先は長くねぇ。でも博士、お前さんは違う。まだ今からならやり直せるんじゃねぇのか?」
 いつになくトクさんは真面目に私に語ってくれる。いつもは酒を飲んで、みんなで馬鹿騒ぎをして、たまにはエッチな話をして。そんなキャラなのに、こんなトクさんは初めて見る。
「ほ、放っといてくれないか。私は私の思うように生きてみたいんだ」
 そのセリフを言った瞬間、私の頭の中では昔のことが走馬灯のように走っていたことに気づいた。部下に指示をして、バリバリに働いていた頃の自分。娘が小さい頃、パパーと言いながら私に駆け寄ってくれていた頃の自分。仕事も家庭もうまくいっていた、あの頃の自分の光景がどんどん蘇ってきた。
 自分が思うように生きるとは、どんな状態のことを言うのだろう。今、本当に自分が思うように生きていると言えるのだろうか?
「博士、悪いけどお前さんはどこか昔の生活に未練があるようにしか見えねぇんだよな。今、本当に生きたいように生きているなんて、オレの目にはそう見えねぇんだよ」
「じゃぁ、どうしろと?」
「おたけさんから聞いたところによると、あの老人としっかり会話をすればいいらしい。あの老人の連絡先はおたけさんが知っているらしいから。明日にでもおたけさんのところを頼ってみな」
 そう言って私の目をジッと見るトクさん。私は今まで毛布をかぶってトクさんと話をしていたが、ここで正座をしてあらためてトクさんと向き合った。トクさんが本当に私のことを心配して、そう言ってくれるのが伝わってくる。
「わかった、明日おたけさんのところに行ってみる。でも、私は今すぐにこの生活を離れようなんて思ってないですから。もう昔には戻りたくない」
「なにも昔に戻れなんて言ってねぇよ。新しい自分をつくりゃいいんだよ」
 新しい自分をつくる。そんなこと、考えもしなかった。けれど、それが正解なのかもしれない。今の不安な生活を抜け出し、新しい自分で自分の人生を勝負してみる。その可能性の扉が開いたように思えた。
「トクさん、心配してくれてありがとう」
 トクさんの両手を握り、私は心からの感謝の言葉を伝えた。

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