コーチ物語 クライアント35「人が生きる道」11.勤労歓喜 後編
とりあえず、紗弓の携帯電話を借りて羽賀さんへ電話を入れた。今の私の気持ち、そしてこれからのことを相談したいという旨を伝えたところ
「私も濱田さんにぜひお話したいことがあるんです。これから時間ありませんか?」
との返事。早速羽賀さんの事務所へ出かけることにした。
羽賀さんの事務所までは自転車で移動。そういえば羽賀さん、自転車を趣味にしているって言っていたな。なんでも昔はマウンテンバイクのレースにも出ていたって聞いている。今もトレーニングは欠かさないらしい。
私も何か趣味を持てるといいんだけど。今は工場の仕事を考えるので手一杯だし。生活もままならないのに、趣味なんて持つことは許されないよな。
そんなことを考えながら、羽賀さんの事務所に到着。早速ドアをノックすると「どうぞ」という声。
「失礼します」
事務所に入ったとき、私は目を疑った。そこにはとても綺麗な女性の姿が。年齢は四十代といったところだろうが。清楚でどこかのマダムを思わせる方だ。
「こんにちは、はじめまして。あなたが濱田さんね」
「えっ、あ、あの……」
私が戸惑っていると、奥の方から羽賀さんの声が。
「あ、濱田さんすいません。ちょっとお茶を淹れていたもので。こちら、前にお話したGrowCreativeBrainの横山社長です」
「はじめまして、横山です」
驚いた。私は横山まことさんという人物は男性とばかり思っていたから。まさか、こんなに綺麗で清楚な女性だったとは。
「濱田さん、あなたのことは奥様から聞いています。そして、工場で行った改善実績も、羽賀さんのご協力のおかげで情報を頂いています。とてもすばらしい功績を残されていますね」
「えっ、あ、いやぁ、そ、そんなことはないですよ。大したことはしていませんし」
そうやって言われると悪い気はしない。だが、なぜ私がこんなに過大評価されているのかがわからない。
「濱田さん、ボクも濱田さんの功績は素晴らしいと思っています。その力をぜひ多くの人に役立ててもらいたい。心からそう思っています」
信頼を寄せている羽賀さんからも同じような言葉が。
「やめてください。今はそれよりも、私が背負った罪の責任を償うことのほうが先ですし」
「そのことも羽賀さんからはお聞きしています。ですから、その手助けもできないかと思っているんです」
「手助けって、どういうことですか?」
「ぜひ、私と一緒に事業をやっていただけないでしょうか? 濱田さんの力があれば、多くの知的所有権、特許が得られると思っています。それを社会に役立つように広げることができれば、多くの人が助かる。濱田さんもそれに見合った収入を得ることは可能です」
収入が得られる。その言葉に私は反応した。だが、すぐにその言葉を自分の中で否定する。
『違う、そんなんじゃない。私にはそんな力はない。今は罪を償うことを優先に考えないと』
この心の中の言葉と同時に、こんな言葉も聞こえてくる。
『今のままじゃ、家族も幸せにできないんだぞ。もっと自分に自信を持て。そして一歩踏み出すんだ』
マンガやアニメで見る、心のなかの天使と悪魔。今まさに私の中でその二つが戦っている。けれど、どちらが天使でどちらが悪魔なのだろうか。
「濱田さん、悩んでおられるようなのでお茶で一服しませんか。本当なら舞衣さんに絶品のお茶を淹れてもらいたかったんだけど。今お花の配達中でいないっていうから。粗茶ですがどうぞ」
羽賀さんから差し出されたお茶。それを飲んで心を落ち着ける。と同時に、羽賀さんがこんな話をし始めた。
「濱田さん、労働に対しての最大の報酬ってなんだか知っていますか?」
「労働に対しての最大の報酬? まぁ、それってお金だと思いますが」
「そう思われがちですが、実は違うんです。労働に対する最大の報酬は、労働で支払われるんです」
「それって変じゃないですか? そんなの、ただ雇い主にこき使われているだけに思えますが」
「実はそうじゃないんです。濱田さんが出した工場の改善提案、これが皆に喜んでもらえた時に、どんな気持ちになりますか?」
「そりゃ、うれしいです。自分がやったことが認められたんだって」
「だったら、次はどうしようと思いますか?」
「どうしようって、また次のいい提案ができないか、ネタを探します。今もその状態ですから」
「今のその状態はどんな気持ちですか?」
「えぇ、嬉しいし仕事も楽しいし。もっとこんな仕事をしてみたいと思います」
自分で言って気づいた。なるほど、仕事に対しての報酬は仕事で与えられる。まさに今の私の状態じゃないか。
「濱田さん、お気づきになりましたね。自分がやりたい仕事をどんどん与えられること。これこそ仕事に対しての最大の報酬だと思いませんか?」
「そして、それが人の役に立つことであれば、さらにうれしくなる。濱田さん、そんな仕事を私と一緒にやりませんか?」
羽賀さんの言葉に続いて、横山さんがそう言葉を続ける。確かにそんな仕事をしてみたい。もっと多くの人に役に立つ、そんな仕事を。
「でも、工場の方は……」
「それなら大丈夫です。社長と工場長にはすでにお話をしています。お二人とも、濱田さんの能力がさらに発揮されて、それが自分たちにも役に立つ物だったらうれしいって。それに、横山さんも濱田さんの生み出したものを試験的に使ってもらうところとして、今の工場を使ってくれるそうです」
横山さんの方を見る。ニコリと笑って私の気持ちを受け止めてくれた。そんな気がする。
「濱田さん、こんな言葉があります。『勤労歓喜』。働くことで得られるもの、それは働く喜びである。ぜひ、濱田さんには真の働きをやってもらいたい。ボクはそう思っています」
「真の働き、ですか」
「はい。真の働きをすれば、金銭的報酬も、社会的地位も、そして肉体的な健康もすべて得ることができます。一生打ち込める仕事、これをぜひやってみませんか?」
羽賀さんの言葉にはワクワク感を感じる。うん、やってみたい。私の気持ちは徐々に傾き始めていた。
「私も、濱田さんに期待しています。その上で、濱田さんとはライセンス契約を結ばせていただければと思っています」
「ライセンス契約?」
「はい。濱田さんがつくり出したものでライセンス料をいただき、その報酬からこの割合で濱田さんにお支払いする、というものです。ただし、条件があります」
「条件、とは?」
「濱田さんが考えたものの試作費、特許申請料、その他必要経費は私どもの会社が持たせていただきます。その代わり、濱田さんにはお給料はありません。先ほど提示したライセンス料のみとなります」
この言葉にはショックを受けた。ということは、当面私にはお金が入らないことになる。それじゃ生活ができない。
「ちょ、ちょっと考えさせてください……」
この提示にはさすがに戸惑いを覚えた。ライセンス料が入るまでは無収入となる。裏を返せば、私が何も生み出さなければ何も得るものがない。
いきなりこのプレッシャーに、私は耐えることができるのだろうか?
「さすがに給料がもらえないという言葉には驚かれたでしょう。横山社長も、最初は濱田さんに相当額をお渡ししようというご提案をするつもりでした。しかし、ボクが今のことを提案したんです」
「は、羽賀さんが? ど、どうして?」
「濱田さんには、本当の実力で報酬を得て欲しかったんです。自分の実力に見合う報酬を。そして、本当の意味での成功をつかんで欲しい。ボクはそう思っています」
「……返事は今すぐじゃなくてもいいですか? 帰って一度妻と相談してみます……」
私はそう言うのが精一杯だった。