見出し画像

短編小説#1 真夜中のエデン

指定ワード:七つの大罪(傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰)

 ほんのり湿った空気が嫌になる夜に、私は初めて夫を裏切った。
 少しの迷いもなかったかといえば嘘になる。彼はいつでも博識で美しかったから、私はいつでも汚れているような気がしていた。無垢な少年のようにも見えるその横顔をずっと見ていたかったけれど、妬みに近い憧れの衝動に堪えきれるほど私は大人になれていなかった。貞淑の皮を被った私はただの娼婦のそれで、情欲に溺れる男を難なく受け入れた。こんな姿を見て彼はどう思うんだろうか、怒りに震えてくれるのか、それとも呆れるだろうか。貪り喰らうような激情をぶつけた後の男はぶっきらぼうな態度で離れていってしまうもので、その温度差は都合がいいようで寂しくもある。男が去っても動かせない冷えた体を無理やり起こして、チープな内装の部屋に一人。真夜中に取り残されたようだなんて、大層なことを思ったりもした。
 重い腰を上げてホテルを出ると生温い風が出迎えて、家路につく足取りも重い。一歩一歩踏みしめながら、私は彼と会った頃の会話を思い出していた。彼と出会って私は孤独も何もないような生活を送っていたのだ。
「七つの大罪って知ってますか?」と、お見合いの席で突然言われたときには随分面食らったものだった。
「キリスト教の?」
「はい、人間の罪で一番重い、死に至る罪です」
「キリスト教を信仰されているんですか?」
「いえ」
 歯切れの悪い返事に少し苛立ちながらも、彼の言葉を待っているとゆっくりと確かめるように話はじめた。
「僕は、神や仏なんてこの世にいないと思っている。あるのは人間とその他の生き物だけだと」
 彼は丁寧に口元を拭い、ナプキンを傍らにそっと置いた。
「僕は、人間とその他の生き物を区別するためのものがこの大罪だと思っているんですよ。七つの美徳を遵守し生きていくべきだと」
「七つの美徳?」
「ええ、謙遜、慈悲、忍耐、勤勉、救恤、節制、純潔。理想的な話ではありますけどね」
 そう言って黙り込んでしまった彼が、私では到底埋められなさそうな大きな孤独を抱えているようで。美しい彼の美しい理念が汚されることがないようにずっと大切に守ってきた。いつからおかしくなったんだろう、いつから間違ってしまったんだろう。天使のような彼の前で私はこんなにも人で、浅ましさを自己犠牲で覆い隠すこともいつしかできなくなった。そばにいたいのに、綺麗すぎる水に魚は住めなかった。
「それを守れない人は、人ではないと?」
「そうですね、人の形をしたけだもの、でしょうか」
 軽蔑してほしい、侮蔑の目を見たい、欲深さを隠さないけだものの私を愛さないでほしい。
 重い玄関扉を開けて貞淑を装う私に向ける優しい彼の目は、私にとって罰なのだと、真夜中を一人歩く私はこんなにも孤独だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?