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伝わる言葉で伝えてよ

 こんにちは。ざまたかです。梅雨明けとともに本格的に暑くなりましたね。寒いのよりは暑いのが好きなのですが、いきなり来られるとぐったりします。毎年夏は海に行っていたのですが、ここ2年はさすがに行けていなくて、かなり寂しいです。そして今、オリンピックで海外からきているみなさん、体調を崩されないかちょっと心配です。医療機関も戦々恐々だろうな、、、。基本的にスポーツに興味がないのでオリンピックもどこで開催されようとロクに観ないのですが、今回のオリンピック、もう何が何だかという感じで気持ち的にすっきりとしません。開催する以上は楽しみたい気もします。でも、その裏で犠牲になったことがたくさんありすぎてそれが「感動」みたいな一言でチャラにしたくないし、このモヤモヤ感は忘れずにいたいです。「世の中で今起こっていること」(例えばスポーツ・体育会重視・文化系軽視みたいなこと)は学校でも起こっているのだと思っています。

 国や自治体の「偉い人」の使う言葉って独特だなあと思っていたのですが、ある時ふと「あ、こういう言い回し、校長が使う!」と気が付いたのです。何と説明したらよいのか、あえて難しい言い回しをして重厚感を出す感じというか。これも一つの演出なのだろうなと思うと同時に、あ、これ目くらましに使われてない?という感想も持ったのです。話の上手な校長で、「なるほど~」っていつも聞いていたのですが、その納得感の何割かはこの演出によるものかもと。気が付けば、教育行政の偉い人の話も、だいたい同じような言い回しを使っていて、研修等で話を聞くのが辛いことがあります。まあこちらが歳をとってきて若いころのような新鮮な気持ちで聞けていないせいも大きいのですが。(教員の研修についてはまた別に書きたいと思います。)なんというのか、言葉数が多く、素敵なPP資料も作られてるけど「キモ」は多分3行くらいだよね?と感じることとか、もっともらしい言葉が羅列されているけど、端的に言ってどういうこと?というのが伝わりにくいこととかがよくあるのです。私は授業をしないせいもありますが、新学習指導要領の「主体的・対話的で深い学び」って、いまだに肚に落ちないし、「特別な教科道徳」の評価の仕方とか、何度聞いても釈然としないです。まあ、その程度には自分がポンコツってことなんですけど。

 自分の身近な問題に引き寄せると、そもそも会議での発言とか、なにかのプレゼンの時に使う言葉が、昔に比べてしゃちほこばったった言い回しになってきている気がして、私など「お利口な言い回しができないのでできるだけ発言したくない、、、」と思うクチです。逆に言えば「その言い回しさえ身につければ内容は薄くても重厚感が出てそれなりにおさまる」みたいなことになっているようにも思います。大人で言ったらビジネスマナーみたいなこともそれを後押ししてるだろうし、子ども達にはプレゼンやスピーチの授業がありますものね。若い世代は本当に上手だなあと尊敬もします。それを身につけること自体は悪いことではないのです。でも、そこに頼りすぎるのは違うだろうと思うのです。中身だよね、って。

 言葉は人を形づくる。それは図らずもHIPPOの交流プログラムでインドネシアに行ったときに文字通り感じたことです。インドネシア語なんて、自己紹介がやっとくらいだし、英語もそんなに話せるわけでもない私は、「ペットのワンちゃんが部屋の中で粗相をしちゃったよ!」ってホストファミリーに言葉で伝えることが難しくて、いい大人なのにジェスチャーでなんとか伝えたのですが、もうそのことがおかしくておかしくて。教員とか母親らしく振舞う自分の要素として言葉って大きかったなあと思ったのです。小さな子供みたいな言葉しか持たずに暮らす世界のなんと身軽で優しいことよ!正しさすらもそこには必要なくて「伝わるかどうか」だけだったりするんですよ。あー、この話もいつか別に書きたいです。

 伝わる言葉で伝えたい。伝えてほしい。よけいな鎧とか、あまりいらなくないですか?ついでにいうと、学習指導要領とかのやたら長くなる言い回しもやめませんか?このあたりは「抜け落ちがあってはいけない」とばかりにあれもこれもと盛り込みたがる「教育依存」にも通じているのでしょう。攻め込まれないために(誰に?)完璧でなくてはいけないとの思い込みのために(そもそも完璧な教育なんてあるの?)社会の即戦力を育てるために(そもそも無理な相談じゃない?)社会問題を解決する力を育てるために(大人が解決しなよ)もっともらしい言葉で教育は語られるけど、そろそろ引き算して、シンプルな言葉で考えてもいい頃合いなのではないかな。

 もしも伝わる言葉で、やさしい言葉でつながれる人たちと出会えたならば、その人たちと仕事をしていきたいと思うのです。


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