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「子どもの作法」ってのもあるよね~第4回子どもの権利条約ハンドブック読書会~

こんにちは。ざまたかです。年度末ってどうしてこんなにいろいろやることがあるの?ってくらい、調査の回答やら出張やら提出書類やらに追われています。養護教諭の仕事の半分は今や特別支援で半分は書類仕事なのではないかと思うほどです(泣)

さて、先日「子どもの力を伸ばす 子供の権利条約ハンドブック」ゆるゆる読書会の第4回を開催しました。」

テーマは子ども期を豊かに過ごし、大きくなる権利(前文、6条)
でした。相変わらず進行がドタバタで、せっかくのほんわかエピソードである本文をすっ飛ばす形となってしまったのですが、いつものごとくいろいろなおしゃべりをしました。
学校では様々なことが起こっているけど、当事者である子どもの気持ちはどのくらい聴いてもらっているのだろうか?
そもそも学校、手が足りてなくない?
小学校低学年をあんなに長時間座らせてるってすごくない?
外国籍の子たち、ちゃんと支援してもらってる?
学校に行けてない子たちの学びはどうしたらいいんだろう?
そのうちに、今回のテーマからは少し離れてしまったのですが、「意見表明権」の話になり、
「意見を聞くけど聞きっぱなしだよね」とか「最近行政が子どもの意見を積極的に集めているけど、どういうふうに形になるんだろう」という意見が出たのですが、著者の木附先生から「あれ(行政が子どもの意見を聞いたりするの)は意見表明権とは違うんですよ」
というお話が。本当の意見表明権は、もっと日常の場面での子どもの小さなつぶやきを大人がきちんと受け止めることなんだそうです。
おお!目からウロコだけど、なんだか腑に落ちた!
偉い人に聞いてもらうためのプレゼン的なものとか、
「〇〇作文」とか、
立派に、上手に、形式にのっとって表現されたものって、
なんだか子どもの意見なのだけど子どもの意見じゃないような気がしていて(ああ、都立の自己PRカードとかもだ)
ちょっと気持ちが悪いような違和感があったのです。
「聞いてもらうんだから形式を整えて」
「聞いてもらうんだから失礼のないように」
「聞いてもらうんだからちょっといいこと言って」
みたいな、悪いことじゃないんだけど本質からずれていってしまうような、
モヤモヤする感じ。
多分それを感じるのは長年HIPPOで子ども達のホームステイ体験を聞いてきたからだと思うのです。ホームステイから帰ってきたばかりの子の話を、私たちは寄ってたかって聴きます。うまく話せない子もいるし、泣いてしまう子もいます。子どもらしい言葉を大人が刈り取ってしまわないように、まとまらなくてあまり気にせず、楽しいね、ありがとうね、また話してね、と繰り返し話を聞いていくうちに、彼らが出会った人々が聴き手にとっても親しい友人のように思えるくらいになってきます。小さい子たちはそれを聴いて「自分も大きくなったら行ってみたい」と思ったりするのです。一方で学校の海外派遣の報告などは、無駄なく、上手にまとまっているけどそこまで思い入れられないというか、通りいっぺんだなあと感じます。「時間内に」「上手に」話すことを求められて、それに応えている感じなのですよね。スピーチとすれば、よほどレベルが高いのですが、なんというのか響かない。
そう、子どもらしい、ちっぽけな、素朴な、バカみたいな気持ちや驚きは、そこには反映されていないから。なんていうのかな、子どもには子どもの作法があって、それは決して劣っているものでも欠けているものでもないのですよね。

テーマである「子ども期を豊かに過ごし、大きくなる権利」については、
公園で遊べない問題とか、
放課後の時間にぼんやりできないこととか、
ヤングケアラーや児童虐待や貧困の問題
いろいろ話してみたいことがそういえばありました。今回参加できなかった方からは主催されている子ども関係のNPOのテーマなので残念!という声もいただいています。また取り上げてみるかもしれません。

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