第二言語でする切迫した会話
スペインから友人が来た。彼は美術の仕事をしていて、定期的に日本に来るので、タイミングが合えばご飯を食べたりする。今回は自分の本屋にも遊びに来てくれた。本を買ったあとは「東中野のおすすめの店に行きたい」と言うので、商店街の中華料理屋に行った。ここは何を食べても安くて美味しい。海老入り薄卵焼きと海老と豆腐のあんかけ、このふたつがお気に入りで毎回注文している。友人は愛想がよくなく、口数も少ないが、お酒を飲むと饒舌になる。この日もひとりで中瓶を何本も開けながらいろんな話をしてくれた。
僕は芸術を語るようなタイプではないけれど、相手が一生懸命話すのを聞くのは楽しかった。彼が「Art People」という言葉を使うとき、たいてい、その先に続くのは身近なコミュニティに向ける同族嫌悪のような感情だった。それは自分にも心当たりがある。最近、僕もコミュニティに対する疲労を感じていて、その存在意義はどこにあるのだろうか、と迷っていた。同質性を高めていくことが、お互いを監視することにしか作用しないのであれば、それは辛いことだなと思うことも増えた。そんなふうに愚痴ると、彼も声を荒げて話し始めた。「コミュニティはいつも行くスーパー、隣に住む人、半径5メートル以内の友人たち。たとえ顔も知らなくても、互いに影響を受けあう人たちで、監視して足を引っ張り合う集団ではないはずだ」と。社会やシステムを変える方法だって、たくさんあるはずなのに、同質性の高いコミュニティにいると、方法がひとつしかないように感じてしまい、そこに乗れないと疎外感を感じることもある。自分なりの方法を模索しないと続かないのかもしれない。そんなことを話すと、彼がウィトゲンシュタインの言葉を教えてくれた。「もしも革命が始まるのなら、それは自分の中から始まり、自分なりの方法を見つけて、手の届く範囲にいる人に触れることを諦めない人から始まる」ナイスなパンチライン。今ききたい言葉をくれてありがとう。お互いが第二言語で、切迫した気持ちを伝えようとした熱い夜だった。
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