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ASEAN検定シリーズ ベトナム検定公式テキストのまとめ 前編


始めに

どうも!たんたどです。初めましての方は初めまして。早速ですが、自己紹介は以下です。

留意点を中心にお読みください。

留意点

◆公式テキストから私なりに重要と感じられた所をまとめた記事となり、重要としたところは太字です。Wikipediaのように詳細に述べたいところはリンクを埋め込んでおります。注意していただきたいのは、必ずしも検定に出ると保証されているまたは出やすい部分ではない、ということです。
◆テキストに記述がない所を、独自に調べてもいます。
◆テキストは第12章までありますが、この記事については前編ですので6章のコラムまでです。
◆「筆者」は、私ではなく編者の方々のことです。
◆まとめた部分の口調は、こことは異なります。
◆ベトナムについての世界史、日本史要素があります。
◆宣伝のつもりはありませんが、ヘッダーと参考文献でも示している公式テキストをもとにしておりますので、それを見ながら閲覧されるとより理解が深まるのではないかと存じます。
◆記事としてはそこそこ長いですが、紹介する人物の生没年が殆ど書かれていない、埋め込んだリンクに少々偏りが見られるなど、私の中での記事の質の低下は否めません。このような点を許容していただければと思います。
◆ベトナム語の発声には繊細な発音が必要なので、ふりがな通りに読んでもベトナムの方には通じにくいか、全く通じないか、盛大な誤解を招いて人間関係に変化があるかのいずれかのパターンを引くと思います。
◆この記事を読むのに参考になると考えられる、参考文献・ウェブサイトを抜いたおよその文字数は55000文字です。

では、参ります。

第1章-観光地と世界遺産-

1.1 ハノイ旧市街

◆ベトナムの首都であるHà Nộiハノイの土産物店では、36の通りからなる旧市街36通りの家並みが描かれた絵画が売られている。
◆絵の中の旧市街36通りの家は、瓦屋根で奥に細長い。間取りは狭いものの、中庭から採光できた。18世紀以降に居住した華人家族の名残で、壁に漢字が刻まれている家もある。各通りの名前にはhàngハーン(商品)がついている。ハーンの後にはその店が販売している商品の名前がつく。
◆図1に示すSông Hồngソンホンは旧市街の東に流れている。紅河とも書き、中国の雲南省から流れるこの赤茶色の大河は全長1149km(テキストでは10149km)である。図2に示すのは、空港からハノイ市内に入るときはこの川にかかる橋を渡る必要があるということである。テキストではハノイ市内で川にかかる橋は3本とのことだが、私には赤の矢印で示したように、倍の6本がかかっているように見える。最古のLong Biênロンビエン1902年にフランスが完成させた。他にわかっているのはThăng LongタンロンChương Dương チュン・ズォンである。前者はソ連とベトナムが建設した。当初は中国の援助だったが、中越戦争でこの国が撤退してしまった。後者はベトナムが自力で建てた。

図1.旧市街36通りの東を流れる紅河
図2.空港からハノイまでの橋

◆旧市街を西に抜けると旧ハノイ城址が見える。Thăng Longタンロン遺跡と呼ばれ、2010/08/01にユネスコ世界遺産に登録された。端門と北門があり、北門には弾痕があるが、これは1882年のフランス植民地化によるものである。
◆北門の反対側には軍事史博物館と国旗掲揚台がある。前者の1930年代から始まる革命期と数々の戦争時代の常設展示はいかにこの国が長い戦争をしたかを物語っている。|đường mòn Hồ Chí Minh《ホーチミン・ルート》の再現コーナーやĐiện Biên Phủディエンビエンフーの戦いで物資輸送に使われた自転車の展示もある。
インドシナ戦争で勝利した軍事指導者のVõ Nguyên Giápヴォー・グエン・ザップ大将は2010/08/25に100歳の誕生日を迎えた。大将の公邸は端門近くにある。

1.2 ホアンキエム湖

Hoàn Kiếm《ホアンキエム》湖は図3のようにハノイ市街地のほぼ中心に位置する湖である。「還剣湖かんけんこ」という漢字表記で、したとなる。この漢字名の由来は後述する。

図3.ホアンキエム湖の位置

◆北に浮かぶ小島には図4のように朱橋で岸と繋がれた玉山廟(玉山祠)があり、30000đồngドン(2024/10/27時点で約180円)支払って入口に入ると、すぐ左に図5の体長2.1m(テキストでは全長1.5m)の大亀の剥製がある。この亀は数百年を生き抜いた。ホアンキエム湖と大亀は密接な関係にある。

図4.玉山廟
図5.大亀の剥製

◆15世紀頃の話で、当時のベトナムは中国の明朝に支配されていたが、図6に示すThanh Hóaタインホアで蜂起した英雄が図7のLê Lợiレ・ロイ(黎利れいり、1385/09/10(昌符しょうふ9/08/06)~1433年9月5日(順天じゅんてん6/08/22))である。レ・ロイはある日、剣の刃を見つけた。錆びた刃を研ぐと、そこには没年の元号でもある順天(天に従うの意)が刻まれていた。更に彼は畑の菩提樹の中から刀の柄を見つけ、2つを繋いで宝剣とした。戦うときはいつも持ち歩き、ついに明軍を打ち破った。

図6.タインホア省の位置
図7.タインホア省人民委員会本部前のレ・ロイ像

◆皇帝となったレ・ロイはLê Thái Tổレ・ターイ・トー(黎太祖)と改名し、1.1で述べたタンロンで帝位に就いた。レ・ターイ・トーがある日、Lục Thuỷルック・トゥイ湖(緑水湖、現ホアンキエム湖)と呼ばれていた小さな湖を訪れ、舟遊びをしていると、突如黄金色の亀が現れた。宝剣を抜き振り上げると、剣は彼の手から亀の方へ飛んでゆき、亀は刃を咥え水中へと消えた。このことから還剣湖、この項1.2の冒頭で述べた理由となった。ホアンキエム湖は「Hồ Gươmホー・グゥーム」とも呼ばれる。
◆1.1で述べたソンホン河の内側に位置するため、「河内」はハノイの漢字表記である。ハノイには無数の湖沼があり、ホアンキエム湖もその1つで、かつてはソンホン河が水源と言われてきたが、常に水位が一定していることから現在はどの河川からもつながっていないという人が多い。
◆現在大亀、つまりシャンハイハナスッポンは絶滅の危機に瀕している。以下はそれについての記事である。現在絶滅を待つだけなのか、繁殖できているのかは不明。

1.3 ホー・チ・ミン廟

ベトナム社会主義共和国の建国の父として知られるHồ Chí Minhホー・チ・ミン(胡志明、1890/05/19(成泰2/03/29)~1969/09/02)はベトナムでは親しみを込めてBác Hồバーク・ホー(ホーおじさん)と呼ばれる。
◆ベトナム人の名前はファーストネームで呼ぶのが慣わし。だがホーおじさんは神聖で特別な存在とされているので、決してミンおじさんとは呼ばれない。
◆ホーおじさんが祀られて眠る場所が図8に示す四角いホー・チ・ミン廟である。これはライトアップされたもので、テキストに載っているものと非常によく似たアングルである。

図8.ライトアップされたホー・チ・ミン廟

◆ホー・チ・ミン廟は現地人にとっては「ホーおじさんと対面できる場所」である。毎週平均15000人が訪れるこの廟には厳重な警備が敷かれている。人々は長い行列を作ってガラスケースに横たわる永久保存処置を施されたホーおじさんと1分に満たない対面をする。
◆ホーおじさんは1969/09/02になくなったとされている。前述の永久保存処置(防腐処理技術)は、彼の死に備えて1967年に共産党がそれらを学ばせる目的で医師団をソ連に派遣していた。スターリンの遺体保存経験があるこの国は協力を惜しまず、ホーおじさんの死亡直後にレーニン廟研究所所長ら医師団がやってきて、秘密裏に技術指導をした。
◆この廟が常に空調機で冷やされ、10月~11月にかけて閉鎖されるのは、遺体を一定の状態に保ち、保存剤を入れ替えているからである。1991/12/26のソ連解体によってこうした協力関係の継続が危機に瀕したが、現在のロシア政府も技術支援をしている。
◆ソ連の支援によって1970年に始まった設計は2年の歳月を費やし、1973/09/02(建国記念日)~75/09/02(テキストでは8月)にかけて建設された。3.7で述べるベトナム戦争中にすべてが行われた。そのため、廟は戦争の爆撃や大きな地震の衝撃にも耐えられるよう設計された。建設場所にはBa Đìnhバディン広場というホーおじさんが独立宣言を行った土地が選ばれた。
◆この廟は国を挙げての行事の際に党の指導者たちが一斉に並ぶひな壇としても使われるため、8.4で述べる人民軍から特別選抜されたホー・チ・ミン廟警護隊が駐屯しており、廟の入口に直立不動で向き合っている。常に軍服を着ていて、歩行時は歩幅を広げて歩く。
◆国旗は早朝6時に掲揚され、降納は21時である。下記動画は国旗掲揚の儀式である。

1.4 ハイフォン

◆首都ハノイから車や列車で2時間あまりのところにある、Hải Phòng《ハイフォン》はハノイやホーチミンに次ぐ、人口が2022年時点で208万人を超える港湾都市である。貿易の北の拠点であり、郊外には日本の工業団地もある。90年代には大量の日本製品が陸揚げされ、新鮮味を求めていたハノイ市民に人気であった。
◆フランス植民地時代には極東最大の海軍基地として使われたが、1955/05/13にフランス軍部隊がハイフォン港から完全撤退し、これによって植民地支配が終わることとなった。この日はハイフォン解放記念日となっている。
◆戦争被害の痕跡は、市の中心部に植民地時代の建造物、例としてはハイフォン駅、大聖堂、博物館などが残っている。
◆この港町に華やかな雰囲気を醸し出すのが図8(1) のhoa phượng火炎樹である。毎年5月頃に咲き始めるので、夏に卒業式があるこの国では友との別れ、希望の旅立ちの思い出になる花でもある。ベトナム戦争後、市民らはこの木を市の花に定め、復興の願いを託して植樹した。今は火炎樹のハイフォンと呼ばれるほど見事である。

図8(1).火炎樹

◆食事の支度時になると市場は賑わい、その代表がChợ Ga駅市場である。海産物を中心に、様々な食料が並ぶ。ハイフォンは屋台もたくさんあり、昼や晩になると歩道に色々な屋台が並び、図9に示すこの地名物の麺料理「Bánh đa cuaバインダークア」(テキストではバインダクオ)も食べられる。茶色や白の麺に小蟹をペーストにしたスープをかける汁麺で、さつま揚げや野菜をしっかりと摂れる。

図9.バインダークア

◆郊外の海水浴場Đồ Sơnドソーンでは毎年陰暦8月9日に開かれる、図10の闘牛祭りで有名である。2頭の水牛が角を突き合わせ、先に囲いの外に逃げた方が負けである。迫力は満点で、勝敗は賭けの対象にもなっているのでその熱気は凄まじい。

図10.闘牛祭り

◆水牛はドソーンの海の守り神として地域住民に敬われている。試合終了後、出場した牛が生きたまま奉納される。この後に解体され、高値で販売される。これは2013/09/12に無形文化遺産に登録された。

1.5 ハロン湾

◆「海の桂林けいりん」とも呼ばれる世界遺産の景勝地Hạ Longハロンは、図11に示すQuảng Ninhクアンニンにある。中国国境近くの海域1553km²の湾から大小約2000(テキストでは3000)の奇岩群が顔を出し、洞窟も多く見られる。この一帯は太古、中国南西部から続く石灰岩台地の一部であったが、この大地が沈降し、風雨や海水によって長い時間をかけて自然に侵食され、数万年前に今の図12に示すカルスト地形ができた。

図11.クアンニン省
図12.奇岩群

◆この地域では紀元前3000年頃の集落遺跡や石器及び土器、アクセサリーが出土しており、中でも磨製石器が特徴的である。この後期新石器文化はハロン文化と呼ばれ、またハロン湾の島で14~15世紀の陶磁器が発掘されていることから、李朝時代のこの地には国際的な貿易港が存在したことがわかっている。
◆この項の冒頭で世界遺産と記述した通り、ハロン湾は1994/12/17に世界自然遺産に登録された。2000/12/19に登録範囲が広がり、今は443km²の核心地域コアゾーン内の775の奇岩が登録されている。
◆ハロンは「龍が降り立った(hạ=下、rồngロン=龍)」という意味で、奇岩群に関する伝説には図13に示すように2つある。

図13.奇岩群と龍の伝説

◆龍が最初に降り立った場所と言われている図14のLong Tiengロンティエン寺は、1941年に建てられた。

図14.ロンティエン寺

◆ハロン湾岸の乗船場には観光客待ちの大小たくさんの船が多数停泊している。船は奇岩群の間を抜けながら、鍾乳洞や水上市場、養魚場に寄る。
◆奇岩群の中には、図15に示す2羽のニワトリが向かい合っているように見える「闘鶏岩」など、動物の名前がつけられた岩が多数ある。

図15.闘鶏岩

◆図16に示すThien cungティエンクン鍾乳洞は「天宮」の意味を持つ。道がちゃんと整備されている鍾乳洞内はカラフルにライトアップされ、人気を博す。

図16.ティエンクン鍾乳洞

◆ハロン湾には図17の水上の家船えぶねで生活する人々がおり、養殖業を生業としている。普通の街にある商業施設があり、日用品や食料を運ぶ船、ゴミ回収船が巡回する。冠婚葬祭も執り行われる。

図17.ハロン湾の水上の家船

1.6 フエ

Huếフエベトナムの京都と喩えられることがある。気品が似ており、歴史は京都のほうが古い。図18に示すフエの建造物群は1993/12/11に世界遺産に登録された。

図18.フエの建造物群

◆長く続いた阮氏チンの抗争が終わった時から、フエの栄華が始まった。図19に示す阮氏の生き残りであるNguyễn Phúc Ánhグエンフックアイン(阮福暎、1762/02/08(景興けいこう23/01/15)~1820/02/03(嘉隆かりゅう19/12/19))は、1802年に阮朝を築き没年の元号と同じGia Longザーロン(嘉隆)帝として即位し、ベトナムのラストエンペラーの、図20の13代目Bảo Đạiバオダイが退位するまでフエはベトナムの首都であった。

図19.阮福映
図20.バオダイ帝

◆しかし、1883年と1884年のフエ(ユエ)条約によって阮朝がフランスの保護下に置かれたり、ベトナム戦争のときは戦場になったり、ベトナムの壮絶な歴史に揉まれた街でもある。ここの遺跡は旧市街に王宮が、皇帝たちの廟が郊外にある。
Khải Ðịnhカイディン(啓定)帝廟には図21に示す装飾が施されている。外側は当時の最先端素材のコンクリート、内側は陶器やガラスを砕いたもので作られている。

図21.カイディン帝廟内の装飾

◆図22に示すTự Đứcトゥドゥック(嗣徳)帝廟は自然と調和した、落ち着いたものとなっている。全ての建物の名前には謙遜を意味する「謙」という字が用いられ、トゥドゥック帝のポリシーが感じられる石碑のメッセージも見られる。

図22.カイディン帝廟

◆フエの世界遺産の中でも有名なのが図23に示す王宮で、入口となる王宮門は鳳凰をモチーフにしている。門をくぐれば奥には太和殿たいわでん、その前には貴族たちの階級を記した石碑が並ぶ。他には皇族のみ舞踏の鑑賞が許可されたという図24の閲是堂えつぜどうやザーロン帝の母親が居住していた図25の延寿宮えんじゅぐうが現存し、これらの遺構にはフランスが影響している。

図23.王宮
図24.閲是堂
図25.延寿宮

◆図26に示す、フエ王宮の入り口にある1807年に建てられた国旗掲揚台は階段で登れる四角い台座が3層構造、17.5mの高さになる。ポール部分は約30mある。

図26.国旗掲揚台

1.7 ホイアン

◆図27の赤いピンの、1999/12/04にユネスコの世界遺産に登録されたHội Anホイアン(会安)市は、世界中から観光客が集まる。

図27.ホイアンの位置

◆メインストリートは3つあり、西から東へ流れる図28のThu Bồnトゥボンに並行して、北から図29に示すようにTrần Phúチャンフー通り、Nguyễn Thái Học《グエン・タイ・ホック》通り、Bạch Đằngバクダン通りがある。チャンフーグエン・タイ・ホックはベトナムの革命家の名前で、バクダンは川の名前である。ベトナムでは川沿いの通りは大体がバクダン通りと名付けられていることがある。

図28.トゥボン川
図29.3つのメインストリート

◆これら3つの通りには図30の木造建築が並んでおり、築300年を超える歴史的建造物もある。京都の鰻の寝床によく似た構造である。

図30.メインストリートの木造建築

◆ホイアンの観光で有名なのは図31に示す日本橋(来遠橋らいえんばし)である。図32に示すように20000ドン札にも描かれている。この橋は中華の雰囲気が感じられる飾りのついた屋根があり、橋の西側、東側にはそれぞれ図33と34に示す猿と犬の石像が置かれている。

図31.日本橋(来遠橋)
図32.20000ドン札の裏側に書かれた日本橋
図33.橋の西側の猿の像
図34.橋の東側の犬の像

◆ホイアンの日本人町は日本の鎖国政策以降、日本人が減ったことから衰退した。図35に示す阮朝6代の皇帝Nguyễn Phúc Chuグエン・フック・チュー(阮福淍)は日本人を想い、この橋を「遠くからやってくる友人たち」という意味を込め来遠橋と命名した。

図35.グエン・フック・チュー

◆日本人にとっての見どころは他にもあり、市の北に図36に示すように谷弥次郎兵衛という人物の墓がある。この人物は鎖国政策によって日本に帰ることとなったが、ホイアンの恋人が恋しくホイアンに戻ろうとして倒れた。この旨が図37の墓の石碑に刻まれている。また、貿易陶磁博物館には発掘された図38の肥前磁器が展示されている。

図36.谷弥次郎兵衛の墓の位置
図37.正面から見た墓
図38.発掘された陶磁器

◆図39に示すホイアンの汁なし麺であるCao lầuカオラウ(高樓)は伊勢うどんから発想を得たと言われている。これを作るには水が重要であり、市街地の路地にあるBaleバレという地元では有名な井戸の水が最適とされている。

図39.カオラウ

1.8 ミーソン聖域

◆図40に位置、図42に写真を示すMỹ Sơnミーソン(美山)聖域は図41に示すQuảng Namクアンナムの聖山Mahaparvataマハーパルヴァータ(サンスクリット語で偉大な山の意)の南麗に広がる。

図40.ミーソン遺跡の位置
図41.クアンナム省
図42.ミーソン遺跡

◆この遺跡は1999年に世界文化遺産に登録された。範囲は山に囲まれた3.1km²である。ベトナム語で「美しい山」を意味するミーソンはChampaチャンパ王国の地であった。4世紀後半にBhadravarman Iバドラヴァルマン1世(范胡達)ヒンドゥー教シヴァ神を祀った木造の祠堂しどうを建てたが火事でなくなり、7世紀にレンガで再建された。以後、歴代の王が多くの宗教施設を建て、今では7世紀~13世紀末に建てられた約70のレンガ建造物が現存している。
◆ミーソン遺跡には主祠堂、副祠堂、宝物庫などがあり、周壁には祠堂入口に続く楼門がある。主祠堂は日の出の東の方角を向き、儀式空間でもあった内部にはシヴァ神のシンボルでもあるliṅgaリンガ(男根)がYoniヨニ(女陰)の上に安置されている。
◆ホイアンから車で1時間の遺跡には赤茶色の建物がいくつもあり、自然に崩壊したものだけでなく、ベトナム戦争の爪痕が残っているものもある。
◆前述のチャンパ王国はChamチャムの国家である。17世紀に途絶え始めるまで近隣諸国と戦争をした。この国はインドの影響でヒンドゥー教を主に信仰し、土着信仰も大切にしながら独特の文化を作り上げ、中部の各所にミーソン遺跡のようなレンガの建物を建立した。
◆1.7のホイアン、都城チャキュウ、この項のミーソンはいずれもまとまったところにあり、周辺には複数のチャンパ遺跡が残っていることから、ここがチャンパ王国の中心地だったと考えることができる。
◆ミーソン遺跡の建造物は接着剤を用いず、レンガの面同士のすり合わせで接着させている。密着性が高く、水を弾く。建物の屋根はレンガを少しずつずらしながら上へ積んでゆく図43のり出し構造で作られており、ずらす幅を小さくすれば高さと内部空間の広さが出る。一方中部インドネシア、カンボジア、インドなどの影響を受けた彫刻は建物ができた後に施工された。
◆この遺跡はベトナム戦時中は解放軍の基地として使われた。現在も遺跡では調査、研究、修復が行われており、日本の国際協力機構の協力による展示館や彫刻展示室がある。

図43.迫り出し構造

1.9 フォンニャー洞窟

ベトナム最大の洞窟であるPhong Nhaフォンニャ洞窟Phong Nha-Kẻ Bàngフォンニャ=ケバン国立公園の北東部に図44に示すように位置する。世界遺産としては新しいもので、2003/07/03に登録された。道路整備やホテルの建設が進められている。

図44.フォンニャ=ケバン国立公園とフォンニャ洞窟

◆この洞窟までは、図45の中部Quảng Bìnhクアンビン省のĐồng Hớiドンホイから図46に示すように、北西に約50kmである。隣国ラオスとの国境はすぐ側にあり(図44の左下の線が国境線)、石灰岩の山々が広がっている。Sonソンの船着き場では船頭たちが観光客を待ち構え、洞窟までは船で20分ほどである。

図45.中部クアンビン省
図46.ドンホイから洞窟のある国立公園までの距離

◆川の両岸には見事な自然の景観があり、邪魔がない。やがて洞窟に近いある山肌に目をやると3.3のHo Chi Minh trailホーチミン・ルートの看板がある。この洞窟はベトナム戦争中に武器貯蔵庫や野戦病院の役割も果たしたという証拠である。
◆現地では幅20m、高さ10mほどの図47に示す洞窟入口があり、ここで下船して休憩を取った後、船は地底川へと進む。砂浜のある船着き場で下船して上陸し、中に入ると図48の数億年の年月をかけて形成された鍾乳洞、石柱が見られる。19世紀末にフランス人の宣教師、Léopold Michel Cadièreがチャンパ時代の祭壇と壁に刻まれた7文字を発見した。テキストに書いてある7文字が何かは特定できなかった。

図47.フォンニャ洞窟入口
図48.鍾乳洞

◆この大きな洞窟の全貌は未だ不明で、フォンニャ洞窟だけでも8000m、洞窟と地底川全体を含めると60km~80km、地下水源は14kmとなっている。
◆フォンニャ洞窟は漢字で表記すると風牙となるが、由来については諸説あり、1つは洞窟から強く吹き付ける風が威嚇する獣に似ているという説がある。この洞窟の見頃は乾季(4~8月)である。

1.10 ホーチミン市

◆ベトナム経済の中心地で、ハノイを超える900万人以上の人口を抱える都市が図49に示すHồ Chí Minhホーチミンである。旧南ベトナムの首都で、旧称はSài Gònサイゴンである。

図49.ホーチミン市

◆6.3のドイモイ導入以降、ビルの建設ラッシュが続き、おびただしい量のバイクが行き交うこの都市は、かつてはその美しい町並みから「東洋のパリ」、「極東の真珠」と評された。
◆市街地はサイゴン川西岸を中心に広がる。図50の矢印で示した、ホーチミンの文字に隠れている川がサイゴン川である。行政区全体では隣国のカンボジアの国境の手前から南シナ海まで、南北およそ100km以上と広範囲に及ぶ。年間平均気温は28℃、年中暑く、季節は5~11月の雨季と12~4月の乾季に分かれる。図51と52にそれらを示す。

図50.ホーチミン市とサイゴン川
図51.ホーチミン市の雨季と乾季
図52.ホーチミン市の最低気温と最高気温

◆現在のホーチミン市という名前は、言うまでもなく1.3で取り上げたホー・チ・ミンに由来するものである。1975/04/30Fall of Saigonサイゴン陥落後、統一国家成立に伴い改名されたが、そのときに多く使われていたサイゴンという名称は図53のサイゴン駅のように今でも多く使われている。次項のチョロン地区と区別するために市の中心部をサイゴンと呼ぶこともある。

図53.サイゴン駅

◆もともとこの地にはKhmerクメール民族が住んでいた。徐々にベトナム人が移動、定住し、社会の基盤を築いた。19世紀にはフランスの植民地となった。1.1で述べた1954/05/07のディエンビエンフーの戦いでフランスは大敗したが、ジュネーヴ協定でベトナムは南北に分断され、ここからベトナム戦争終結後の再統一まで、図54に示す南ベトナムの首都はこの地に置かれた。

図54.南北ベトナム

◆植民地時代のサイゴンはフランス、アメリカに大きく影響を受けており、この時代に市場経済の洗礼を受けた。それによりドイモイ政策の後に増加した外国との商取引にもホーチミン市は柔軟に適応できた都市と言われる。日本の大阪とはビジネスパートナー都市の友好提携を結んでいる。
◆図55に示すサイゴン大教会、図56の中央郵便局などが有名である。

図55.サイゴン大教会
図56.サイゴン中央郵便局

◆市内最大規模の図57に示すBến Thànhベンタイン市場は生鮮品から日用品まで様々な店が並び、この市場から延びるThánh Tônレタントン通りには19世紀に建てられた市人民委員会庁舎、歴史を感じられる伝統ホテル、屋台などが並び多彩である。サイゴン川沿いに建つのは、旧インドシナ銀行でどっしりした石造りの図58に示すベトナム国家銀行で、マジェスティックホテルからは川辺の景色を楽しめる。

図57.ベンタイン市場
図58.ベトナム国家銀行

1.11 チョロン

◆図59に示すChợ Lớn《チョロン》は中国人が作った街で、大きな市場という意味である。その始まりは18世紀末に遡る。現在のĐồng Naiドンナイの省都、Biên Hòa《ビエンホア》に定着した中国人は、西山テイソンの乱から避難し、現在のこの地に移って村を作った。

図59.チョロンの市場

◆チョロンは中国語では堤岸と書き、その中国語の方言である広東語ではタイゴンと呼ぶ。日本人にはフランス語読みのショロンとして知られた。
◆ホーチミン市の第5、6、10、11区に当たるとテキストには書かれているが、5区と6区にまたがる区という情報も見られた。現在中国人の移民の子孫であるホア族(華族)は正確な人数は不明なものの、ベトナム全体で75万人いて、その多くがチョロンに住む。テキストは2010/12/25発行である。
◆図60に示す第5区の郵便局が、もともと市場があった場所である。その西のBình Tâyビンタイ市場は中国人の商人のQuach Damクァックダム(郭琰かくたん)が出資し、1928年9月に建てられた。

図60.ホーチミン市の第5区

◆この辺りが古くからの中心地であることは、歴史ある中国人の会館という出身地ごとに作られた相互扶助組織、かつ事務所兼宗教施設が集中していることからもわかる。書籍で確認したのは以下の4つで、
1.広東省広州府出身者「広府人」の「Hội quán Tuệ Thành穂城會館(穂城会館)
2.広東省・潮州府の「潮州人」の「Nghĩa An Hội Quán義安会館
3.「明郷人(読み不明、早期にベトナム国籍を取った中国からの移民の子孫)」の「Minh Hương Gia Thạnh Hội Quán明郷嘉誠会館」(テキストでは明郷嘉盛)
4.「Nghĩa Nhuận Hội Quán義潤會館(義潤会館)
1つ目は航海の女神の天后、2つ目と3つ目は義を重んじる武神ぶしんの「関帝」を祀っていて、歴史文化遺産に指定された会館も多い。4つの会館の画像を図61~64に示す。

図61.穂城会館
図62.義安会館
図63.明郷嘉誠会館
図64.義潤会館

◆19~20世紀にかけこの地では広府人が人口の多くを占めた。各家庭でいろいろな中国語の方言が使われ、広東語が共通語となった。またベトナム共和国(南ベトナム)の時代にはここの学校ではベトナム語の他に中国語も教えられていたため、複数の言語を話せる住民が多い。
◆1.1で名前を出した1979/02/17~3/16の中越戦争の時代には、ホア族の持つ中国との関係は国から冷たい評価を受けたものの、1986年のドイモイ実施以降は外国との取引の窓口にチョロンが重要な役割を持ち、中国語の教育・文化にも評価がされた。
◆チョロンで中華料理を食べるのには、入るのにハードルが高い大きなレストランよりも屋台が利用しやすい。Hủ Tiếu粉麺(ファンミン)が有名で、白いビーフンとラーメンのような黄色の麺が入っている。スープが美味しい。

1.12 ニャチャン

◆図65に示すKhánh Hòaカインホアの省都Nha Trangニャチャン開発の歴史が古いベトナム屈指のマリンリゾートである。ニャチャンが誇る砂浜を図66に示す。

図65.カインホア省
図66.ニャチャンの砂浜

◆図66はロングビーチと呼ばれ、まっすぐ7kmに渡る。図67の矢印に示す砂浜と並行するTrần Phúチャンフー通りにはたくさんのホテルやレストランなどが並び、観光客で賑わう。

図67.チャンフー通り

◆ニャチャン沖合には19の島があり、図68に示すムン島モッ島周辺のレジャーの他、サンゴ礁やエメラルドグリーンの海が魅力である。

図68.ムン島とモッ島

◆チャンパ王国の時代から漁港として栄えてきたこのリゾート地には、海以外にもたくさん見どころがある。図69に示す町から2kmのクーラオ山にそびえるBà Ponagarポー・ナガール遺跡は、チャンパ王国の寺院遺跡である。8~12世紀に建造された高さ23mの塔にはシヴァ神の女神像が安置されている。特定はできなかったが、ロングビーチの南に位置するバオダイ帝の別荘は歴史的建造物となっている。ホテルとなっているので滞在できる。

図69.ポー・ナガール遺跡

◆中南部の海岸線にはニャチャンの他にもビーチリゾートが続々と作られており、中でもPhan ThiếtファンティエットMũi Néムイネー地区はホーチミン市から車で3時間あまりという他のリゾート地にはない距離的な手軽さという魅力がある。観光施設が集中しているのはムイネー村で、岬に向かう一本道沿いには手つかずの砂浜が広がる。近くには図70のようにベトナムでは珍しい砂丘もある。

図70.ムイネーの砂丘

1.13 サパ

◆ベトナム北部、図71に示すLào CaiラオカイSa Paサパは19世紀末にフランス軍の避暑地として開発された歴史があり、国の内外から人気がある。
◆省都はラオカイ市で、下に示す通り中国との国境に位置する。サパはここから西南方向に車で50分、標高100~1600mの高低差のある道をジグザグに登り、実際には35kmほど行った山中にある。ラオカイとサパの位置関係を図72に示す。

図71.ラオカイ省
図72.ラオカイとサパ

◆サパはサパという名が付く前から少数民族の暮らす山で、最も多く居住するHmongモン、その他にはTàyタイーXá Phóサホー、ザイ族などが住む。サパにはホテルがたくさん建っているが、図73のように中心地から少し離れると棚田や渓谷など、地方の面影が残る。

図73.サパの風景

◆サパの人口は約7万人で、郡部とサパ市に区分される。サパではベトナムで多数派のキン族は、少数派である。ここではモン族が最も多く、市長もモン族であるが、写真は未取得である。
◆サパ市場には、毎日たくさんの人々が日用品や食料品を買いにやって来る。サパのモン族は黒モン族という黒に近い藍染をした衣装を着た民族である。下記リンクのプレビューにそれを示す。黒モン族の女性は帽子を被っており、ザオ族の女性はサパでは図74のように赤い布を頭に巻き、眉を剃っている。

図74.赤い布を頭に巻くザオ族

◆前述の通り周辺は棚田で、稲が実る頃には黄金の波が出現する。収穫は家族総出の作業である。また、近郊農業でバラやカーネーションの栽培のほか、サパ峠付近で刺し身にすると美味しいマスの養殖がなされている。
◆サパは標高が高く、5年に1度雪が積もる。図75のような雪化粧をしたサパを撮れるので、写真家に人気である。日本の山と同じく、滝など見どころが満載である。温泉も湧いている他、一番近いCat Catカットカットでは散策路の整備がなされている。英語対応のトラベリングガイドなど、観光客に向けたサービスが充実している。

図75.雪化粧をしたサパ

◆ベトナム最高峰(3143m)のPhan Si Phăngファンシーパンに登ることも健脚の人なら1泊でできる。11~3月の登山の季節になるとリュックを担いだ観光客がガイドに連れられ、入山する。

第1章のコラム‐ハイヴァン峠-

◆図76に示すHải Vânハイヴァンはベトナムでは最も高く険しい峠である。ベトナム語では「VânHải」を意味し、ベトナム中部の最大都市ダナンと、1.6で取り上げたフエの間にそびえる。この国の南北は図77のようにこの峠で隔たれて、気候や人々の気質が変わると言われている。

図76.ハイヴァン峠
図77.南北を分かつハイヴァン峠

◆標高496mの峠の麓には青々と広がる南シナ海があり、15世紀には大越だいえつやチャンパ王国がここを国境とした。19世紀のフランスの植民地時代には要塞が築かれ、ベトナム戦争時には激戦地になった。歴史的に重要な峠である。
◆峠に隔てられたこの国の南北をつなぐのは、図78、図79に示す南北統一鉄道国道1号線である。峠の道は幅が狭くカーブが多く、さらに土砂崩れや落石の危険が多い難所であったが、2005年6月に日本のOfficial Development Assistance開発協力(ODA)によって6.28kmのトンネルが開通、ダナンとフエ間を片道2時間半で行けるようになった。時刻表を図80と図81に示す。

図78.南北統一鉄道
図79.ベトナムの国道1号線
図80.北から南への時刻表
図81.南から北への時刻表

◆4年10カ月かけて開通されたこのトンネルには、交通の安全性の確保だけではなく、インドシナ半島の国際的な物流を促進させるという狙いもある。さらに、ハイヴァントンネルの開通によって時刻表にある観光地への往来が簡単になったことも重要である。
◆今は東南アジアで最も長いトンネルの地位をシンガポールにある図82のKallang–Paya Lebar Expresswayカラン‐パヤレバ高速道路に譲った。この高速道路は全長12kmで、そのうち9kmがトンネルである。

図82.カラン-パヤレバ高速道路

第2章‐戦跡めぐり‐

2.1 ディエンビエンフー

◆ラオスと中国に接しているĐiện Biênディエンビエンは図83と図84に示すように、喧騒のない山間部の地域で、21の民族が同居している。

図83.ディエンビエン省
図84.ディエンビエン省の位置

◆1.1でも名前を出したディエンビエンフーはディエンビエン省の省都かつ最大の盆地であり、1953年末にはフランス軍が大要塞を築いた。北ベトナム軍はここを主戦場に最終決戦を挑んだ。フランス軍の近代的な武器に対して図85の名将ヴォー・グエン・ザップ巧みなゲリラ戦法を練り、1954/05/07にフランスを降伏させることに成功した。100年近くのフランスの植民地支配はこれにて集結した。

図85.ヴォー・グエン・ザップ

◆ここにはハノイから1時間ほどで到着する飛行機で行くと良い。高度はそれほど高くないので、眼下の景色は美しい。飛行機からの写真は下記リンクを参照されたし。

◆空港から市の中心地まではタクシーで5分もかからないが、2003/11/26にディエンビエン省の省都に格上げされるまで近代化とは無縁で、2004年の戦勝50周年記念式典を皮切りにようやく地域活性化が行われることとなった。これを機にタクシーも運行開始された。
◆テキストではこの街の市場は自然食品の宝庫との表現がある。身の大きな椎茸、薬酒に漬ける25cmほどのトカゲ、水牛肉のぶつ切りなどが並び、筆者がお土産にしたいと記述しているのは100%本物のはちみつである。この通りの画像は見つけられなかったが、市場そのもののページを下記に示す。

◆図86の通り、ディエンビエンフーの中心に位置する戦死者墓地には、戦死者名を記したモニュメントがある。墓地正門をくぐると左右に広がる内壁にそれがあり、出身地別に記されているのが印象的なそれはアメリカのアーリントン墓地を連想させる。

図86.ディエンビエンフー戦勝記念碑

◆北ベトナム軍はこの地で8000人近い戦死者を出したとされ、その多くは北部の各地から招集された農民であった。医療体制が未熟で、マラリアなどの伝染病でも多くの人命が失われた。兵士の食料を確保するために自転車に100~200kgの米を括り付ける方法が開発された。
◆一番の名所はフランス軍の司令官であるde Castriesド・カストリが降伏した司令部塹壕で、図87に示すかまぼこ型の屋根が特徴の司令部の中が展示室になっている。

図87.司令部の内部

◆当時は盆地全体に数多くの小要塞が築かれ、相互防衛で大要塞となっていた。フランス軍は周囲が山であるこの地をベトナム軍が山越えしてくるとは思わなかった。ザップ将軍は中国などから援助された大砲を山頂に牽引し、小要塞を潰してから一斉に盆地へ砲撃したことにより、フランス軍の体制は崩れた。

2.2 17度線地域

1954年から21年間、ベトナム国土は南北に図88に示す北緯17度線で区切られていた。1.1で述べたインドシナ戦争後に約束された統一のための総選挙を、アメリカと南ベトナムが履行しなかったためである。図88の中央上にBEN HAIという文字が見られるように、17度線には図89のBến Hảiベンハイが流れていて、国道1号線上のHiền Lươngヒエンルーンで両岸が繋がれていた。南北両政府はこの橋を唯一合法的な往来場所に指定したものの、橋のたもとには図90のように詰所が設けられ、無断で通過すれば鉛玉を浴びせられた。

図88.北緯17度線
図89.ベンハイ川
図90.南側から見た橋

◆この橋では毎日宣伝合戦が繰り広げられた。最初に北側が24個のスピーカーを設置→それに負けじと南側がドイツ、オーストラリア製のスピーカーを設置→さらに北側も大音量のものを設置した。この合戦は毎日15時間、AM1:00まで続けられた。これらのスピーカーは今でも北側にあり、見学料金を払わずに写真を撮ると払ってから撮るように音声が流れる。この橋は現在老朽化のため車では通行できない。ここに訪れるにはDeMilitarized Zone非武装地帯(DMZ)ツアーに参加するのが良い。
◆図91のVịnh Mốcヴィンモクトンネルは2.5で述べるクチ・トンネルを小さくしたようなトンネルであり、中部のVĩnh Linhヴィンリン地域にある。図92、93のようにフエから北上してヒエンルーン橋を渡り、南シナ海側に曲がるとたどり着く。

図91.ヴィンモクトンネル
図92.フエから北上
図93.橋から地下道

◆17度線に近いこの地域は、戦争中は北ベトナムからの兵士や物資の輸送ルートとして使われたが、65年から米軍が本格的に参戦すると攻撃の標的ターゲットにされ、海上から砲撃も受けることとなった。そこでこの地の住民は協力して個人用の避難壕を作り、各自が作ったトンネルは塹壕で結ばれるようになり、1966年半ばには1300kmに達した。退避用塹壕の数も13000に昇ったが、テキストに記述のある1300kmというと第1章のコラムで述べたカランパヤレバ高速道路のトンネルを遥かに凌駕する長さとなる。
◆爆撃が強化で被害が拡大し、新手法でトンネルを補強する必要が生じた。そこで考案されたのが図94に入口を示すクチ・トンネルである。住民居住地域に沿ってメインの縦型トンネルが掘られ、そこを基点にしてジグザグな迂回路が掘られた。その長さは68年末に40km(250kmという記述も見られた)に及び、地下3階まであるこのトンネルには家族用小部屋、集会場、井戸、会議部屋などが設けられた。

図94.クチ・トンネル入口

◆トンネルの中は狭いが、地下なので涼しい風が吹き抜ける。屈みながら進めば、突如南シナ海の美しい砂浜が目の前に広がる。

2.3 ホーチミン・ルート

◆1.1で名前を出したホーチミン・ルートが作られたきっかけは、1959年の北ベトナムによる南ベトナムの開放と支援の決定だった。そこで考案されたのが、図95に示すTrường Sơnチュオンソン山脈を切り開く長距離ルート建設であった。そして、総延長16800kmの無数のルートが密林の中を這うように作られた。

図95.チュオンソン山脈

◆一方米軍はどれだけ戦ってもベトコンが弱体化しないのは北ベトナムからの支援が原因と考え、密林を徹底的に爆撃した。枯葉剤はこのときに使用されたものである。ところがこのホーチミン・ルートは車両用と徒歩用など、用途別に延長され、道路の上を樹木で覆い隠すなどの工夫が凝らされたものだった。さらに簡単に攻撃されないよう、隣国のラオスやカンボジアにもルートが作られた。結果的に150万人もの兵士がこのルートを歩んで、前線で戦った。
◆この国の政府はベトナム戦争を陰で支えたこのルートを後世に残すべく、2000年4月から舗装工事を開始し、2020年に終了した。それまで南北を結ぶ道は図96の国道1号線しかなく、その沿線地域ばかりが経済発展を遂げ、山脈沿いの山岳地帯は貧しいままだった。政府はこの地域の経済発展を図るために昔のルートを再現させた。

図96.ベトナムの国道1号線

◆ホーチミン・ルートは5本あり、テキストに記述があるのはよく知られている陸上、海上で、その次に細いパイプ管を数百km繋いでガソリンを送り出したルートである。未解明な点は、どうやって凸凹道の山中に管同士をジョイントしたかである。残り2つのうち1つは書類偽造ネットワークで、これは南部で地下活動を行う人々の身分証などを偽造する組織を指し、最後は兵器及び活動資金を調達する軍資金ルートである。これらは調べても不明な点が多数ある。

2.4 チュオンソン墓地とケサン

◆図97に示す中部Quảng Trịクアンチには至るところに戦争の爪痕が残されている。当時、「クアンチに行く」ことは兵士にとっては死を覚悟することだった。実際に1万人余の兵士がチュオンソン墓地に葬られている。墓地は14万km²との記述があるが、この数値だと北海道がおよそ2個分であるので、14万m²と私は考えている。ベトナム戦争後、およそ2年をかけて作られた。

図97.クアンチ省

◆図98に示すこの墓地の特徴は墓石の配列に見られ、北部と中部ばかりの出身が同じ者たちに分けられている。あの世で同郷同士が再開できるように工夫されたものである。墓石には氏名、入隊日、生年月日、階級、出身地、戦死日の6つが刻まれ、遺影がはめ込まれている。生年月日と戦死日から、いかに若くして亡くなったかがわかる。

図98.チュオンソン墓地の墓

◆地域別エリアには必ずその地域ごとの礼拝堂があり、それぞれデザインが異なる。ハノイ市は図99に示すベトナムの国旗金星紅旗をモチーフにしたお堂である。宗教的要素は何もない。荘厳な場所でも地域ごとの性格が現れている。

図99.ベトナムの国旗

◆この墓地があるクアンチ省にはKhe Sanhケサンという山中の町があり、フエから北上してĐông Hàドンハーに行き、西へ60km進むと到着する。さらにその先20kmを進むとラオス国境の町のラオバオにつく。位置関係は図100である。

図100.ドンハ-ケサン-ラオバオ

◆ケサンは「9号公路作戦」で1968/01/21~1968/07/09の、図101に示す通りの170日間も交戦した戦場として有名である。ホーチミン・ルートを開発しようとする米軍は、ここに大きなTa Conタ・コン空軍基地を作った。一方北ベトナム軍は同じ年の旧正月に各地で一斉に米軍の要地を襲撃するTếtテト攻勢を仕掛けようとしていた。これは米軍の気をそらすためであり、大量の死傷者を出したものの結果的に米軍はケサンから撤収した。ここは今では図102の博物館になっている。

図101.ケサンの戦いの日数
図102.ケサンの博物館

◆その後、1971/04/02になるとケサンは再び戦場になった。当時からキューバの支援があったが、1973/09/01Fidel Alejandro Castroフィデル・カストロがケサンを友好訪問している。ケサンに至る途中のDakrongダクロンを渡ると、画像は未取得だがベトナム・キューバ友好と掲げられたプレートが掲げられている。

2.5 ホーチミン市

◆1.10で取り上げたサイゴンは1975/04/30のベトナム戦争集結まで南ベトナムの首都であった。北ベトナムはこの政権を陥落させるために図103の独立宮殿目掛けて軍を突入させた。この宮殿の歴史は150年に及び、その間に幾多の政権が現れては消えた。1873年に初めて建てられたときの名前は Norodomノロドム宮殿で、フランス植民地時代のカンボジア国王の名前がつけられた。なおノロドムという王は複数いる。

図103.現在の独立宮殿(統一会館)

◆この建物はフランス総督府として使用されたあと、1945/03/09に日本軍が占有したが、日本の敗戦で再びフランスが管理し、1954/09/07のフランス撤退後に大統領になったNgô Ðình Diệmゴ・ディン・ジェムはこの建物を独立宮殿(大統領宮殿)と呼ばせた。
1962/02/27のクーデターによる爆撃で宮殿の一部が損傷し、建て替えられたのが図103である。社会主義移行によって名前も統一宮殿になった。
◆2.2で名前を出したCủ Chiクチ・トンネルは地面に縦横無尽に広がるアリの巣のようなトンネルで、インドシナ戦争期から住民がフランス軍に対抗するために掘られていた。個別だったものが結合され、拡大されていった。本格的な役割を担ったのは前項で取り上げたテト攻勢で、各組織が必要に応じてさらに拡大させ、様々な増改築を行った。総全長は200kmともいわれるこのトンネルは、強度の爆撃にも耐えられた。
◆クチ・トンネルはGoogle mapでも戦跡と表示されるが、観光ルートとして確立されている。硬い地面に掘られたトンネルは細身の人間がやっと入れるサイズで、図104のように両手を上げて体を細長くして入る。上から蓋をすると地面と見分けがつかなくなる。

図104.クチ・トンネルへの入り方

◆クチ・トンネル内は狭くて暗いが、観光客向けに3つのトンネルが距離別に選べる。当時の南ベトナム政府は北の共産主義者をViệt Nam Cộng sảnベトナムコンサンダンを略したViệt Cộngベトコンと呼んだ。クチのベトコンは痩せて小柄だったので、大柄な米兵が入れないようになっていた。
◆戦争時は、どうしてもこれらのトンネルを破壊したい米軍は軍用犬の鋭い嗅覚で地下にいる人間を察知させようとした。ところが相手も負けじと米軍の石鹸を入手し、それを穴の近くにおいたため嗅覚が役に立たず作戦は失敗した。他にもトゲが突き刺さるブービートラップなどが敷設された。興味のある人は下記の動画も参照されたし。

第2章のコラム‐サンヘルメット-

◆ベトナム戦争中から、この国の兵士はカーキ色の図105に示すサンヘルメットを被っていた。その名は「mũ cốiムゥ・コーイ」で、すり鉢帽の意味を持つ。今でも北部の農民や建設現場で愛用されているこの帽子は、社会主義側の象徴と言って良い。

図105.サンヘルメット

◆画像の帽子は樹脂製だが、テキストに記述があるのは段ボール製で、紙の繊維を加工して強力圧縮後、さらに強度の糊で布地に貼り付けている。内側には理由が不明(防水?)だが、タールが塗られていた。
◆戦時中は兵士たちは鉄製のヘルメットを暑くて重いという理由から殆ど使わず、水汲みなど被るという用途以外にも様々な使い道のあるこのヘルメットを愛用した。しかし中越戦争で中国との関係が悪くなると、次第にストックが尽き、自前で生産せざるを得なくなった。生産方法を完全にマスターすることは叶わなかったため、希少性が高い。

第3章-歴史-

3.1 ドンソン文化の時代

◆1.13で名前を出した下記に記事を示すKinhキンは、ベトナムで86%を占める多数派の民族で、オーストロアジア語族という言語を話す民族に属する。昔、Lạc Long Quânラック・ロン・クアン(貉龍君)が産んだ100個の卵の長男が雄王となり、峯州文朗国を建てた。この国の王統は18代続き、最後の王である雄王の娘に蜀王(読み不明)が求婚したが断られ、山の精と水の精が争った結果、前者が勝ち娘をもらった。

◆似た伝説はキン族と兄弟関係にあるMườngムオンも伝えているが、雄王という呼び名自体は古代の中国の史書に伝わるベトナムの土豪どごう的王の呼称である「雒王らくおう」が書き間違って伝わった模様。この雄王を祀る神社が、Phú ThọフートLâm ThaoラムタオNghĩa Lĩnhギアリンにあり、陰暦3/10、雄王の命日に国礼が行われる。 そして以下のページを見つけた。

◆18代目雄王の娘をめとることに失敗した蜀王の孫である安陽王は、文郎国を滅ぼし、図106に示すCổ Loaコーロアを築いたとされる。安陽王伝説は古くからの中国史書に登場し、王は神弩(読み不明、弓を横倒しとの記述からボーガンのようなもの?)を秘密兵器にしていたが、娘婿の趙陀ちょうだの息子、仲始(読み不明)にこの弓を奪われ、趙陀の軍に滅ぼされた。

図106.コーロア城

◆上記図106に示したコーロア城の土塁は3重で外塁は8kmにも及び、現存するベトナムの城郭の土塁としては最大規模である。中国系の瓦などが見つかっており、築城が中国初の王朝である秦代しんだいから前漢初頭である。
◆雄王神社とコーロア城では、図107に示すヘーガーⅠ式銅鼓どうこという、おおよそ2300~1800年前に鋳造された大型青銅器が発見されている。

図107.ヘーガーⅠ式銅鼓

◆上記の銅鼓は、Đông Sơnドンソン文化の中で最も大切にされた儀器ぎきであり、楽器のみならず社会的ステータスを示す財としても機能した。時期的にも日本の銅鐸とよく比較される。
◆ドンソン文化の中心はタインホア省のドンソン遺跡などにあった可能性が高く、青銅製の武器や容器を特徴とする文化はベトナム北部の紅河平原Nghệ Anゲアンに及んでいる。銅鼓は東南アジアの国全体に運ばれた。
◆この文化の終焉は、チュン姉妹による独立のための反乱を後漢の将軍である馬援が潰す頃(紀元43年)である。馬援は銅鼓を集めて象徴的破壊も行ったが、これを使う文化は形を変えながら北部ベトナムの山間地に伝えられた。現在でも大切にされている。

3.2 北属時代

◆中国に服属した時代を北属ほくぞく時代という。一般に前漢の武帝の南越征服に伴う交趾こうち九真、日南(現ベトナムの北半分)の3つの群の設置(紀元111年)から、図107(1)の呉権ごけん白藤江はくとうこうの戦いで独立を達成する938年までの約1000年余りを指す。

図107(1).呉権

◆この期間での中国の支配は、政治から文化まであらゆるところに中国化をもたらした。例としては陰暦、漢字文化、儒教や信仰、銅銭等が挙げられる。
◆北属時代を中国による一方的な支配の時代と捉えるのは間違いで、しばしば土豪の独立を目指した反乱が起こった。テキストに載っているのは図108のLý Bônリ ホン(李賁、テキストではリービー)が、一時的に独立を545年に達成した時代だが、こうした独立抗争は中国側の史料に記述が少なく、不明な部分が多い。

図108.リ ホン

◆後漢から南北朝時代の北ベトナムは、南海経由で伝来した仏教の一大中心で、中国からも注目された。
◆ベトナムを拠点にして逆に独立政権を立てるということも起きており、後漢末に交趾郡太守たいしゅであった士燮ししょうや、唐代末期に雲南で栄えた南詔国なんしょうこくの侵攻を退け、北部ベトナムを防衛した安南郡護府の長官、図108(1)に示す高駢こうべんが挙げられる。前者は地の利を活かし、南海交易を行ったり、仏教の保護をした。後者は軍事と土木事業に長けた人物で、1.1で名前を出したタンロン城の基礎となる大羅だいらを築くなどした。両者ともベトナムの歴史では別格の扱いを受けている中国人で、士燮はベトナムの王としてベトナムの正史などに記述があり、高駢はベトナム独立後、国の守護神として祀られている。
◆前述の通り、1000年近く続いた北属時代は、ベトナムに中国の様々な制度や文化を摂取させる機会を作り出し、ベトナム側がそれらを利用して後の独立国家形成のためのツールにしたものである。中国支配根拠地を自らの支配の根拠地にする過程は換骨奪胎と言える。

図108(1).高駢

3.3 交易の時代

◆現在のベトナムは、図109に示すようにその東部を南シナ海、西南部をタイランド湾(シャム湾)に囲まれた国土で、海岸線は3444kmに達する。古くからインドや中国方面の中継地として、交易と文化の交流に重要な役割を果たした。

図109.ベトナムの国土

黎《レ》朝マクに政権を奪われた後、タインホアの名家出身の阮潢《グエン・ホアン》は南に活路を求めてThuận Hóaトゥアンホア(順化、今のクアンチ省からフエ周辺地域)を根拠にした。これが広南クアンナムグエン政権の誕生で、この時代に国際交易の港として活躍したのが、ダナン市の南の図110に示すThu Bồnトゥーボンの河口にある図111にナイトマーケットを示すHội Anホイアンである。

図110.トゥーボン川
図111.ホイアンのナイトマーケット

◆もともとチャンパの中心地として重要な役割を担っていたトゥーボン川流域は、交易面でも拠点となった。沖合には図112に示すようにChàmチャム島、街の北側にはNgũ Hành Sơnグーハインソン(五行山)があり、南シナ海の航海にとってのランドマークとなっている。

図112.チャム島

◆ホイアンの街はトゥーボン川に沿って発展しており、1.7で述べた日本橋があり、古い町並みは主に橋の左側に集中している。世界遺産に登録されたこともあり、今では中部ベトナムの一大観光スポットである。
◆江戸時代初期、鎖国の前に行われた東南アジアとの朱印船貿易の渡航先として、ベトナム北部と中部が挙げられるが、後者の港はホイアンである。この地の町並みが作られたのは16世紀末、大航海時代であった。南シナ海には欧州、中国、日本の船が行き交い、欧州の宣教師の記述にも日本人の街があったことがわかっている。鎖国後は日本人町は衰退し、中国とベトナム人の町になった。中国系住人は1.11で述べた会館や集会場を残している。
◆前述の五行山にある「普陀山霊中仏重修碑(読み不明)」は当時ホイアンに日本人が居住区をなしていたことを伝えている。また名古屋の情妙寺じょうみょうじには、茶屋新六交趾貿易渡航図ちゃやしんろくこうちぼうえきとかいずがある。
◆ホイアンでは中国の陶磁器が多く出土し、またこの地で生産された無釉むゆう陶器の壺が日本に運ばれて長崎や大分などで出土している。文献資料では日本からは金属や木綿が、逆は絹や香木、砂糖や胡椒などが交易されたようである。

3.4 フランス植民地時代

◆フランスのインドシナ侵攻は19世紀半ばから始まり、1887/10/17フランス領インドシナ連邦が誕生した。ベトナムは北部、中部、南部の順にTonkinトンキン保護領Annamアンナン保護国、南部のCochinchinaコーチシナ直轄植民地に分類統治されるとともに、カンボジア保護国と併合された。どのように分類されたかを図113に示す。

図113.フランス領インドシナ連邦

1899/04/19にはラオス保護国も併合され、中部アンナンに形骸化された阮朝が残ったものの、インドシナ全体がフランスの保護下になった。フランスは4.4で述べる南部のメコンデルタにおける水田の開発やゴム・コーヒーのプランテーション経営などを進めた。世界市場とつながった植民地経済構造は、フランスの利益のために再編された。
◆1930年代以降、ベトナムの独立運動を主導したのは図114のNguyễn Ái Quốcグエン・アイ・クォック(後のホー・チ・ミン)に代表される共産主義者たちであった。1930/02/03にグエン・アイ・クォックによってベトナム共産党が結成され、後にインドシナ共産党と改称した。この党はフランス帝国主義打倒・植民地解放運動を行っていくことになる。

図114.グエン・アイ・クォック(ホー・チ・ミン)

◆しかし、同時期にNghệ-Tĩnh Sovietsゲティン・ソビエト運動が植民地の政府によって鎮圧され、この党も激しく弾圧された。1940/09/22には日本軍の仏印進駐が行われ、ベトナムは2カ国に支配されることとなった。
◆こうした時期に、ホー・チ・ミンは30年ぶりに帰国し、1941/05/19の自身の誕生日にベトナム独立同盟(Việt Minhベトミン)を結成し、広範囲な民族統一戦線による独立運動を始めた。この組織は日仏2重支配に苦しむ住民の支持を得ていった。
◆日本の敗戦に伴い、ベトミンが主導する8月革命が1945/08/19に行われ、1945/09/02にベトナム民主共和国の独立が宣言された。
◆第二次大戦終結後、フランスはインドシナの再植民地化を図った。完全独立を宣言するベトナムとフランスとの交渉が決裂すると、ホー・チ・ミンが全国抗戦を宣言し、1946/12/19にインドシナ戦争が起こった。フランスは1949/07/02に図115に示すベトナム国をフランス連合の独立国として成立させた。この国はフランスの傀儡政権であり、後にベトナム共和国になる。

図115.ベトナム国

◆この時期には「冷戦」がアジアに拡大した。1949/10/01に中華人民共和国が成立し、翌年6/25に図116に示す朝鮮戦争が勃発した。その3年後の7/27に朝鮮戦争休戦協定が結ばれると、世界各国がインドシナ戦争の解決に踏み切った。植民地解放戦争として始まったインドシナ戦争が、冷戦の中での熱戦として解決策が練られた。その後1.10で述べたジュネーヴ協定が結ばれ、ベトナムは2.2の17度線を境界として南北に分断された。

図116.朝鮮戦争

3.5 仏印時代

◆日本は1931/09/18の満州事変、盧溝橋事件によって勃発した1937/07/07か~1945/08/15の日中戦争を経て、中国で開戦した。1839/09/01にはドイツがポーランドに進行したことによる第2次大戦が起こり、米英仏は重慶じゅうけいの中国国民党政権(図117の蒋介石政権)に支援を行い、物資補給ルートである図118の援蒋ルートがイギリス領ビルマ、フランス領インドシナ(仏印)から通じていた。

図117.蒋介石
図118.援蒋ルート

◆日本は戦いを有利に進めるためにこのルートを閉鎖する必要に迫られた。1940/09/22には北部に、1941/07/28には南部に進駐し、これによって仏印は前項でも述べた通りフランスと日本の2カ国に支配された。
WWⅡ第二次大戦開戦後の1940/06/22にフランスはドイツに敗戦し、Vichyヴィシー政権が樹立された。日本は北部進駐後、日独伊三国同盟を1940/09/27に結び、フランス植民地政府の行政機関を守ったまま、支配を強めていった。太平洋戦争のきっかけとなる下記動画の真珠湾攻撃、東南アジアへの侵攻への日本の兵站へいたん基地の役割を担った。

◆1944年の秋から翌年春にかけて、ベトナム北部では図119に風刺画を示す大飢饉が発生し、一説では200万人が餓死した。風刺画で描かれているように、以下に示す背景が4つある。
1.インドシナの米が東南アジア地域を支配下においた日本軍に補給されていた。
2.フランスによる米の強制買付制度があり、農村の米の備蓄がなくなっていた。
3.日本軍の軍事的な需要のために、他の農作物、綿やジュートへの転作が行われていた。
4.インドシナの輸送路に対する米軍の爆撃が激しくなって、南部から北部への米の輸送が減った。
これらの背景は2重支配に苦しむ住民の不満をつのらせた。

図119.ベトナムの飢饉の風刺画

◆日本は戦争に負ける見立てがついた1945/03/09明号めいごう作戦というクーデターを敢行、仏印政府を一掃し、カンボジア、ベトナム、ラオスの3カ国に独立を付与した。これを仏印処理という。
◆ベトナムでは阮朝皇帝の図20に示したバオダイに独立を与え、1945/04/17に親日派のTrần Trọng Kimチャン・チョン・キム政権が誕生したが、この政権は日本の傀儡に過ぎず、人々の指示を得るのは困難だった。一方ベトミン側は、「籾倉もみぐらを襲って食料を奪い、人々に分配」というスローガンを掲げて飢餓に苦しむ国民を結集していった。

図120.チャン・チョン・キム

◆1945/08/15の日本の降伏を機に、ベトミンは全国での一斉蜂起を開始し、8/19にはハノイで民衆蜂起、その後フエやサイゴンと続き、8/25にはバオダイ帝が退位した。
◆その後3.4で述べた1945/09/02にベトナム民主共和国の独立がホー・チ・ミンにより宣言された。この過程は8月革命と言われたが、国際社会はこの独立を認めず、北緯16度線を境界線として北には中国国民党軍が、南には意義りう軍が進駐した。さらにこの後フランスが再占領を始め、インドシナ戦争が起こった。いずれの年月日は3.4で述べているので省略する。

図121.1945/08/19のハノイオペラハウス

3.6 抗仏戦争と独立

◆これまでにも述べている通り、19世紀末にフランスの植民地となったベトナムでは、初めは王権の復活を目指す勤王運動が行われたが、フランスに鎮圧された。20世紀の初頭には、伝統的支配層とつながりを持ち、かつ近代の教育も受けた知識人ナショナリストが独立への道を辿るリーダーとなった。
◆その一人である図122に示すPhan Bội Châuファン・ボイ・チャウは図122の左に示す皇族のCường Đểクオン・デを盟主に、「維新会」を作り、日本のサポートを受けて独立の実現を考えた。訪日したファン・ボイ・チャウは独立のための武器の援助を要求したが、犬養毅大隈重信との会見を通じて武力闘争を断念した。代わりに西洋の列強に肩を並べる近代国家の建設を目標に、知識及び技術を習得した人材の要求に踏み切ったのである。

図122.ファン・ボイ・チャウ
図122.左がクオン・デ

◆ファン・ボイ・チャウは自国の若者を日本へ渡らせ、近代文明と政策を学ばせる「東遊とうゆう運動」を組織し、これによって1905~1909年頃にかけ、約200人のベトナムの青少年が日本へ来た。
◆しかし、列強への仲間入りを果たすことを目指している日本は1907/06/10に日仏協約に調印、これらのベトナム人留学生を追放した。彼らの中には失意のまま日本で自殺したものもいる。ファン・ボイ・チャウは中国に逃れたがフランスの官憲に捕まり、釈放後はフエで軟禁を解除されないまま死去した。

3.7 ベトナム戦争

◆今日のベトナムでは、ベトナム戦争のことを抗米救国こうべいきゅうこく戦争と呼んでいる。1.10での1954年のジュネーヴ協定によってベトナムは2.2で述べた17度線で分断された。北のベトナム民主共和国では、社会主義化を進める一方で、分断国家の統一を課題としていた。南では、一国が共産化すると他のアジアの各国にも広がってしまうという「ドミノ理論」を基に、アメリカが南部への介入を強めていった。1955/10/26にはベトナム共和国が成立、親米反共の図123に示すゴ・ディン・ジェム政権が発足した。

図123.ゴ・ディン・ジェム

◆南ベトナムでは、米軍が軍事顧問団を派遣してサイゴンの政府軍をサポートする「特殊戦争」と呼ばれる段階が始まったが、解放戦線軍に政権軍が敗れるなど、この戦争の限界が見えてくる。さらに、図123のゴ・ディン・ジェム政権の独裁化と腐敗が進み、1963/11/02に同氏は暗殺、22日にはケネディ大統領も同じ運命を辿った。
Lyndon Baines Johnsonリンドン・ジョンソン大統領によって戦争は拡大していき、1964/08/02には下記に示すトンキン湾事件が起こった。この事件は米駆逐艦が北ベトナム軍に攻撃されたというもので、米軍の北ベトナムへの爆撃に本格的に介入、また南ベトナムに地上軍を出すものとなった。これによってベトナム戦争は泥沼化した。

◆1968年には2.4で述べたテト攻勢の総攻撃が行われ、アメリカ国内では反戦運動が高まり、5/13にはパリ和平会談が始まった。
◆図124の1969/01/20に大統領に就任したRichard Milhous Nixonリチャード・ニクソン大統領は、米軍を段階的に撤退させ、サイゴン政権軍の増強、同一民族同士の戦争へと回帰させる戦争のベトナム化を図った。

図124.リチャード・ニクソン

◆パリ和平協定が1973/01/27に締結されると、翌々月に米軍は撤退した。南部ではサイゴン政権と南ベトナム共和国臨時革命政府の2つの政府が存在し、これによって内戦は継続された。南部の戦場では、テト攻勢の後に弱体化した解放戦線軍に代わり、2.3のホーチミン・ルートを通じて参戦する北の人民軍がメイン戦力となっていた。
◆1975年3月、革命勢力による南部解放大攻勢が開始された。ホー・チ・ミン作戦と名付けられたサイゴン解放作戦により、1975/04/30にサイゴンが陥落した。図125に大統領官邸に突入する戦車を示す。この戦争は北ベトナムが南部を武力制圧するという形で終わり、この国は現在のベトナム社会主義共和国という国名で統一された。

図125.大統領官邸に突入する戦車

3.8 ベトナム戦争報道

◆ベトナム戦争は世界各国から集まったマスメディアの記者やカメラマンによって報道された。なぜ多くのジャーナリストが当時のサイゴンに集まったのか?一番大きな原因は米軍がこれらのジャーナリストに協力を惜しむことなく、記者たちが自由に戦場を取材できたことにある。
◆1963年9月に図126のJohn Fitzgerald Kennedyジョン・F・ケネディ大統領がサイゴンのロッジ大使に報道陣には協力するように電報を送っている。こうした政府の姿勢が米軍にも伝わっていた。

図126.ケネディ大統領

◆米軍の協力によって記者たちは従軍した。特にテレビが普及した時代には戦争の生々しい映像は世界の人々がこの戦争に大きく興味を抱くきっかけともなった。東西冷戦のさなかに南北をそれぞれ資本主義国と共産主義国が支持したことも注目を集めた。
◆アメリカのテレビ局には色々な国のスタッフがおり、日本人もABC放送には平敷安常ひらしきやすつね、NBCには椎原正昭屋代輝彦、CBSには石井誠晴坂井幸二郎その他がいた。
◆欧州ではイギリス、イタリア、西ドイツ、フランス、アジアではインド、韓国、シンガポール、台湾、日本、フィリピン、香港、地球の裏側のアルゼンチンからも来ていた。1968年にベトナム駐留の米兵が50万人を超えたが、1/19付のプレスカード(取材許可証)受領者は464人となっていた。続々と短期取材者が来て申請するので、プレスカードは数千枚になった計算である。
◆ベトナム戦争は最前線で取材ができたが、それだけ危険も多く日本人15人を含む大勢のジャーナリストがベトナム、ラオス、カンボジアで亡くなった。

3.9 枯葉作戦

◆長期に渡る戦争が終わった後も、ベトナムが背負い続けているものがジャングルや田畑の作物を枯死させる目的で米軍が撒いた化学薬品の、枯葉剤の悲劇である。図127に示すこの作戦は実験も含め、1961/08/10~1971/10/31の約10年間行われた。

図127.枯葉作戦

◆ベトナム戦争中、南ベトナム解放民族戦線ベトコンの兵士たちは密林を拠点としながら、米軍の基地を襲撃し、武器を奪い、直ちに森に帰るといった戦法を取っていた。相手が掃討作戦を実施すべくジャングルに入っても、足場が悪く木の根やツルに引っかかって身動きが取れない。もたつくとすぐに包囲され、攻撃される。このような事態にうんざりしていた米軍は、忌々しい熱帯雨林をすべて砂漠に変えてしまえばいい、ベトコンは畑の作物を農地から補給するのだからそこも全滅させる、という結論に至った。枯れたCà Mauカマウのマングローブの林の画像を図127(1)に示す。

図127(1).枯れたマングローブの林*

◆枯葉作戦を命じたのは図126のケネディ大統領で、南部の内陸、マングローブ地帯が目標となった。枯葉剤には容器の縞の色に応じた青、オレンジ、白、ピンク、緑があり、10年間で80000~90000リットル(1900万gallonガロン)、2トントラック4万台余りが撒かれた。
◆散布されたもののうち7割がオレンジ剤で、これには図128に構造式を示すダイオキシン(2,3,7,8-TCDD、2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン)が不純物として含まれた。この物質の耐容たいよう1日摂取量は4pgピコグラムで、不純物として混入した濃度は1~50ppmほどになる。つまり100万~5000万pgという高濃度のダイオキシンが存在し、致死量には届かなくとも強い慢性毒性を引き起こす。汚染物の摂取で生体濃縮が進み、ガンや次世代への先天異常の原因となった。

図128.ダイオキシン

◆結合性双生児の図128に示すベトちゃんドクちゃんは、見たり聞いたりした人も多いと思われる。枯葉剤が撒かれた図129に示すKon TumコントゥムSa Thầyサータイ1981/02/25に生まれ、1988/10/04の手術で分離された。ベトちゃんは脳炎と腎不全のため2007/10/06に亡くなったが、ドクちゃんは結婚して幸せに暮らしている。

図128.ベトちゃんドクちゃん*
図129.コントゥム省

◆結合体は戦前はほぼなかったが、戦争後は激増した。現在の出生例は不明だが、大半は誕生直後に死亡する。ベトちゃんドクちゃんは稀なケースであった。
◆障害は結合体だけではなく、図130の手足の欠損、神経・発育障害、内臓奇形のように多種にわたる。また前述のように流・死産はさらに多い。枯葉作戦で被害を受けたのは100万人以上、15万人の子どもたちが障害を負ったとされ、戦後にはChemical Weapons Convention新・化学兵器禁止条約(CWC)で枯葉剤の兵器利用が禁止された。

図130.手足の欠損の例

◆アメリカ政府は数多くの疾病と枯葉剤との因果関係を認め、ベトナム帰還兵が発病した場合には手厚い補償を行ったが、ベトナムの被害者からの訴えは却下し、なんの補償も行っていない。
ダイオキシンが今も検出されるのはダナンやビエンホアで、そうした汚染地域の浄化はアメリカの責任として2国間の作業が下記リンクに示す通り進められている。

◆今ではベトナムのジャングルに降り注いだ枯葉剤、ダイオキシンはすべて海に流出したと言われる。魚介類の汚染もなく、今日のベトナムでの飲食は日本以上に安全とも言える。

3.10 ベトナム戦争後

◆1.10で述べたサイゴンの陥落によってベトナム戦争は終わった。ベトナムはベトナム社会主義共和国として統一され、ベトナム労働党はベトナム共産党に改名した。南部では社会主義的改造が進められる中、多くの難民が流出した。1976/04/17に民主カンボジア政府が図131に示すPol Potポル・ポト政権(クメール・ルージュ)によって成立し、ベトナムに対する敵対行為を続けた。クメール・ルージュがどのような政治を執ったかは、下記動画がわかりやすいと思われる。

図131.ポル・ポト

◆上記の背景には中国とベトナムの関係悪化があった。ベトナム戦争期、中ソは北ベトナムに支援を行ったが、戦争が終わってからはベトナムはソ連への傾斜を強めていったからである。1978年7月に中国はベトナムへの支援を停止し、ベトナムと敵対するクメール・ルージュに対する経済援助を増大させた。こうして中ソ対立が東南アジアで表面化した。
1978/12/25に、ベトナムはカンボジア救国民族統一戦線とともにカンボジアへ進攻した。この戦線はポル・ポトの迫害から逃れた図132に示すHeng Samrinヘン・サムリンが議長として組織されたものである。1979/01/07に図113に示すように王宮が戦線の兵士により占拠され、ポル・ポトが失脚し、その3日後にカンボジア人民共和国が成立した。

図132.ヘン・サムリン
図133.カンボジア救国民族統一戦線による王宮の占拠

◆カンボジア国内では、ベトナム軍に支援されたヘン・サムリン政権とタイ国境付近を拠点としたポル・ポト派の内線が続いた。これに対し中国は1979/02/17に「懲罰」と称してベトナム北部に対する攻撃である中越戦争を仕掛けた。3/5に撤退したが、2カ国間の関係悪化は避けられないものとなった。
◆下記に解説動画を示すベトナムのカンボジア進行に対し、ソ連以外の国際社会は侵略行為を非難し、サポートの停止などの制裁行為を行った。クメール・ルージュでの大虐殺が明らかになると、1982/06/22に図134のNôroŭttâm Seihânŭノロドム・シハヌーク殿下と図135のSon Sannソン・サン元首相を加えた反ベトナムのThe Coalition Government of Democratic Kampuchea民主カンプチア連合政府が樹立、政府の国際的な地位を確立した。カンボジア国内では図132のヘン・サムリンが実効支配を強めていった。

図134.シハヌーク殿下
図135.ソン・サン元首相

◆紹介してきたカンボジア進攻後、国際社会から孤立したベトナムは次項で述べる社会主義体制の実現を試みたが失敗、そのため1986年12月の第6回党会議において次項で述べるドイモイを採択し、市場経済を実施し対外開放政策を推進することを決定した。カンボジアでも1989年9月にベトナム軍が撤退した。
◆国際社会では1989/05/16に中ソ和解が実現し、同年12/2からのヤルタ会談で冷戦は終結した。こうした国際情勢を踏まえ、1991/10/23にカンボジアとベトナム間の和平協定(カンボジア和平合意)が結ばれ、同年11/6には中国との国交が回復した。ベトナムはその後も1995/07/28のASEAN加盟など、国際社会への復帰を果たしていった。

3.11 配給制度時代

◆これまでに述べたいくつもの戦争に国力と軍事費を費やすことにベトナムの国民は疲弊してきた。1975年までは侵略してくる国と戦う忍耐の日々で、国家統一まで我慢をし続けた。しかし、国家統一後も苦しい生活が続いた。
◆計画経済を政府は北ベトナムの時代から取り入れ、同時に国のあらゆる部門に補助金を出す制度の下記動画および図136に示す「bao cấpバオカップ(補助金期間)」を行った。この制度は図137の配給切符、米や燃料の配給手帳を持って、決められた日に画像のとおり並んだ。

図136.バオカップ導入下で燃料購入の行列に並ぶ人々
図137.バオカップの配給切符

◆バオカップの問題点を下記に示す。
1.いつも配給品があるとは限らず、あっても賞味期限切れで傷んでいたりすることがザラで、受取所の職員が良いところを先に持っていってしまったりする事態があった。
2.職員がいつも人々を見下す姿勢で仕事をし、笑顔が逆効果であった。
3.自分だけ良いものを得ようと職員にとって有益な行動をするものが現れた。
4.熱心に働いても給料に反映されなかった。
◆米を含め、あらゆる物資が政府の統制下に置かれた。地方政府であれど物資を移動させることはできず、中央政府は多くの検問所を設けて通行人の荷物を検査した。それを突破しようとしてホーチミン市では市内に豚を運ぼうと、合羽を着せてバイクに座らせ、2人乗りを装った。子豚であれば赤ん坊のように抱くなど、嘘のような話が現実に起こった。
◆このような生活に人々の我慢にも限界が来て、前項で述べたĐổi mớiドイモイ(刷新)実施が採択され、暗い時代から抜ける機会が訪れた。

第3章のコラム-タンロン遺跡とハノイ1000年大記念祭-

◆2010年は日本とベトナムにとって記念すべき年であった。奈良で図138にパンフレットを示す日本の遷都1300年祭と同じく、ハノイでも1.1で述べたタンロンへの遷都1000年祭りが催された。

図138.遷都1300年祭のパンフレット

◆下記に動画を示すタンロン遺跡は、7世紀にの安南都護府が置かれて以降、羅城と呼ばれた行政の中心地で、8世紀に日本の図139に示す阿倍仲麻呂が在住していた。

図139.阿倍仲麻呂

◆唐が10世紀初頭に滅んだ後、南漢が支配したが、図107(1)に示した呉権が中国支配を終わらせ、図140に示すハノイ郊外のコーロアを都とした。呉が滅んだ後は短命かつ不安定な政治が続いたが、1010年にLý Công Uẩnリー・コン・ウァン(李公蘊)がタンロンに遷都して李朝を興した。2002年の国会議事堂の建て替え工事の際に発見されたタンロン遺跡からわかったのが、タンロンが19世紀まで都だったということである。

図140.コーロアの位置

◆800年間も都であったため、その遺跡は複雑で、発掘は困難であった。しかし、各時代の貴重な遺物が数多く発見され、当時の姿が明らかになりつつある。

第4章-地域と産業-

4.1 テイグエン

Tây Nguyênテイグイエン(テキストではテイグエン)地方とは図141に示す内陸の5つの省で、Kon TumコントゥムGia Laiジャライ(ザーライ)Đắk LắkダクラクĐắk Nông《ダクノン》Lâm Đồng《ラムドン》が当てはまる。ラムドン以外がカンボジア、ラオスに接する。

図141.テイグイエン地方

◆各省は図142の海岸線に沿ったチュオンソン山脈(アンナン山脈)の南方に位置するため、標高が高い。1.13で紹介したファンシーパン山からは東南部を一望できるため、インドシナの屋根とも呼ばれてきた。この地域の象徴は地面の赤土である。赤土を活かしたカカオ、コーヒー、ゴム、胡椒が生産されてきた。また、2.3で紹介したホーチミン・ルートはこの山脈を縦断してきた。

図142.海岸線に沿ったチュオンソン山脈

◆1.8などで述べたチャンパ王国の地であるテイグエンには、多くの少数民族が独特の伝統文化を営んできた歴史がある。ベトナムには図143~145に示す54の少数民族がいるが、テイグエンで代表的な民族は10番のジャライ族、11番のエデ族、12番のバナール族、18番のコホ(クーホー)族など。デザインは少し異なるが、図146の黒の地に赤や黄の縞入り民族衣装を特徴とする。

図143.ベトナムの少数民族
図144.ベトナムの少数民族
図145.ベトナムの少数民族
図146.エデ族の民族衣装

◆これらの少数民族は多くが山岳地帯に居住するため、戦時中からngườin thượngグイ・トゥン(上(山岳地帯)の人)と呼ばれた。
◆この地域は母系社会の民族が多く、家財道具の一切は母親か、長女が管理する。財産贈与も女性側の親族に受け継がれ、夫は妻が死んでも家財を持ち帰ってはならない。
◆赤土でコーヒーが栽培されることを述べたが、1996/06/16に図147に示すチュングエンコーヒーが誕生した。ベトナム初のコーヒーチェーンであるこの店の創立者は貧しい家庭に育ち、苦学して中部の図148に示すBuôn Ma Thuộtバンメトートの医大で学んだ。

図147.チュングエンコーヒー
図148.バンメトート

◆彼は在学中から、地域のコーヒー農家の貧困と自身の境遇を重ね合わせながら、この課題を解決できる策を考えてきた。そして3人の貧しい同期生と焙煎方法を研究し、起業に踏み切った。結果的にチュングエンコーヒーは大ヒット、国内中を席巻した。
◆テイグエンの経済発展はまだまだこれからの話であり、伝統を守り続ける少数民族と合致しない部分もある。過疎地だが安全保障の要所であるため、政府は他民族の移住を進めて人口を増やした。独特の文化に様々な事情が入り組んだ特別の地である。

4.2 ダラット

◆図149に示すĐà Lạtダラットは、ホーチミン市から250kmほど離れた年間平均気温が17℃ほどの避暑地である。熱帯にありながら標高が高いので昼間でも25℃以上になることはほぼない。昼夜の気温差が大きいので、高原野菜や花の栽培が盛んである。

図149.ホーチミン市から250kmほどのダラット

◆松林の中のくねくねとした国道を登ると、図150のDomaine de Marieドメーヌ・デ・マリアなどの教会の尖塔、図151の欧州風のヴィラ(貸別荘)の群れが目に飛び込んでくる。1900年初頭に宗主国のフランスによって療養目的のリゾートとして開発された。

図150.ドメーヌ・デ・マリア教会
図151.ヴィラから望めるヴィラ

◆町のあちこちに古いヴィラが残っているが、これらを勝手に改築、解体することは法律で禁じられており、許可が出たとしても古いデザインを変えてはいけないという制約がつく。テキストに載っている最新オープンの図152に示すサイゴン‐ダラットホテルはチロル風の建物で、政府は街をエコツーリズムの聖地にしようと計画している。

図152.サイゴン-ダラットホテル

◆この町でのツーリズムは、周辺の山、各所にある滝、沢、トレッキングなどエコツーリズム全盛で、欧州からの観光客はここからニャチャンやファンティエット、ムイネーにバイクで向かう。標高1500mのダラットから0mに下る道程は見渡す限り山が続き、その風景は天下一品である。
◆図153に示すゴルフコースは1921年に図20のバオダイ帝のために作られ、航空写真の図154に示す通りパレスホテルの北側から望める。気圧が低いのでボールがよく飛ぶ。

図153.バオダイ帝のゴルフコース
図154.パレスホテルの北側にあるゴルフコース

4.3 南シナ海

◆ベトナムは大小4000以上の島を持ち、それゆえに領土の権限を他国と争っている地域がある。図155の西沙せいさ群島、それの南東に位置する図156の南沙群島が該当する。国際的な呼称は、前者はParacelパラセルで中国が実効支配し、後者はSpratlyスプラトリーベトナムを含め、中国フィリピンマレーシア台湾ブルネイが領有権を主張している。ブルネイ以外のそれぞれの国が群島の一部を支配下に置き、世界有数の資源開発地域に期待がかかるため、どの国も譲らない。下記動画では中国から遠く離れた南沙群島までもが中国の領土になっている。

図155.西沙諸島(赤ピン)
図156.南沙群島

◆西沙群島はフランス統治時代はフランスが管理していたが、3.4で述べた日本軍の進駐時には一時的に日本の統治下にあった。日本の敗戦で当時の中国軍である国民党政府が日本軍の武装解除を目的に進軍したとき、西沙、南沙群島のそれぞれの合計2つの島(Woodyウッディ太平島?)を支配した。
◆54年のジュネーヴ協定後は、西沙群島は17度線以南にあるため、南ベトナムが管理した。ところがベトナム戦争集結間近の1974/01/19に中国海軍と交戦した「西沙諸島の戦い」が起こりベトナムは敗戦、統一後のベトナムも領有を主張するが双方の溝は埋まっていない。
◆南沙群島には天然ガスや漁業資源、鳥糞の蓄積があり、軍事的利用も極めて高い。200~300の島、サンゴ礁からできていて、ベトナムは24、中国は7~8、フィリピンは7程度の島を支配し、軍隊を駐留させている。19世紀末~20世紀初頭にかけドイツ、フランス、日本が商業目的で島に上陸し、日仏2重支配後は前述の太字にした東南アジアの国々が支配していった。
◆ベトナムは1980/01/03から、ソ連の図157に示すVietsovpetroベトソペトロと合同で石油探査及び掘削をベトナム南部沖で行ってきた。そしてベトナム最大の油田の、図158に位置を示すBạch Hổバクホー油田の発見後、アメリカやイギリスの企業との連携で多数の油田も発見した。

図157.ベトソペトロ社ロゴ
図158.バクホー油田の位置

◆日本の企業とは1998年にrang dongランドン油田を合弁で発見した。安定的な石油資源の確保を必要としている日本にとって、ベトナムは貴重なパートナーとして期待が高まっている。

4.4 メコンデルタ

メコン川は図159に示すようにチベット高原が源流で、中国、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジアを通り、ベトナムの南端に至る。

図159.メコン川

◆この川は河口付近に広大な「メコンデルタ」という平野を作っており、この広さは関東平野3倍の約40577km²、世界のデルタでも3位の面積になる。
◆宇宙から見たメコンデルタを図160に示す。この平野の殆どはベトナムの国土で、ホーチミン市の南東部(南西部?)の図161に示す12の省と、次項で述べる中央直轄市カントーが、この国でのメコンデルタ地方となる。図161の赤の矢印はホーチミン市の位置である。

図160.宇宙から見たメコンデルタ
図161.メコンデルタの12の省

◆この川はベトナム国内ではTiền GiangティエンザンHậu Giangハウザン(テキストではホウザン)という、省の名前にもなっている2つの大きな流れに分かれる。さらにそれぞれが多くの支流を作り、網目のようにメコンデルタ全体を覆う。この国ではメコン川は9匹の龍に例えられ、Cửu Longクーロン川(九龍川)とも呼ばれる。
◆平野という通り、標高2mの真っ平らな土地では、川の氾濫はあるが、穏やかな冠水にとどまっている。メコン川は栄養豊富な土壌を上流から運び、肥沃な大地を形成している。この平野は世界屈指の穀倉地帯であり、タイに次ぐ世界2位のを生産している。平野での畑仕事の風景を図162に示す。テキストでは世界2位だが、それに合致する情報は見つけられなかった。中国、インド、バングラデシュがランキングの上位にある。メコンデルタでの米の生産量はベトナム全土の9割(テキストでは8割)を占める。

図162.メコンデルタでの米の生産

◆気候は高温湿潤、乾季と雨季に分かれる熱帯モンスーンで、水田稲作に適している。メコンデルタでは2期作、3期作が当たり前で、自然環境が良いので極めて粗放的な農法でも、高い収穫量を可能にする。
◆米以外にも、図163のように様々な野菜や果物が生産される。栄養豊富な水に育てられた魚を獲る漁業も盛んである。

図163.メコンデルタで生産される果物

◆川と運河を中心に人々が居住したメコンデルタでは、水上ネットワークが発達した。特徴的な景観に図164の水上マーケットがある。生鮮食品、日用品など、あらゆるものが取引される。今は道路整備が進み、多くの人が集まった水上市場は縮小しつつある。

図164.水上マーケット

◆メコンデルタには1700万人ほどが暮らし、歴史的にクメール王朝のいちぶだったことからカンボジア・クメール系の民族が多い。
◆最大の都市はカントーで、ヤシの木に囲まれココナツが有名なBến Treベンチェ、省都がMỹ Thoミトーで、観光クルーズの拠点になっているティエンザン省、水産業が盛んなCà Mauカマウなど、この平野には多彩な文化や暮らしが存在する。

4.5 カントー

◆前項で述べたメコンデルタの中心に、図165のCần Thơカントーがある。この平野の政治・経済、文化の代表となる都市であり、2021年時点での人口は125万人。当地の図166に示すカントー大学は、穀倉地帯というだけあって農業分野に秀でた大学として知られる。

図165.カントー
図166.カントー大学

◆この町は活気に満ちた雰囲気と穏やかで落ち着いた雰囲気を併せ持ち、熱帯の日差しの中、街角に集められる商品は、メコンデルタで生産された多種多様な農産物である。そしてここに住み働く人々は、陽気でフレンドリーな表情を向ける。メコンデルタの豊かさを知るには、この地は最適と言える。
◆下記に動画を示すカントーの水上マーケットは、現地ではchợ nổiチョ・ノイと呼ばれ、あふれるほどの農産物を積んだ大型船が停泊し、賑わう水上を縫うように小舟が行き交う。動画のタイトルにもなっているカイランはカントー市内の船着き場から10分ほどで、メコンデルタでも最大級のマーケットである。

◆大型船の周りには麺、粥といった食料を売る屋台船、さらには水上でガソリンを売る移動ガソリンスタンドがある。動画の7分6秒あたりでもわかるように、それぞれの船は商品を吊るした長い竿を立てているので、遠くからでも売っている商品がわかる。
◆川幅の狭い支流に入ると、生活感のある風景が待っている。川辺では洗濯、炊事、風呂代わりに洗体する人の姿がある。放し飼いされているアヒルや、トロピカルフルーツが実る果樹園、夜にはホタルが舞う景観も見られる。
◆市内には図167に示す仏教寺院Phật HọcファットホックNinh Kiềuニンキエウ公園、多彩な食材が集まるカントー市場などがあり、いずれもメコンデルタの名物となっている。

図167.ファットホック寺

2010/04/24に、カントーとメコン川の対岸にあるVĩnh Longビンロンを結ぶ、図168のカントー橋が完成した。全長は2750m、東南アジアでは最長の斜張橋しゃちょうきょうである。この橋は建設途中に崩落、作業員50人以上が死亡し、予定より大幅に遅れての完成であった。建設には日本のODAが使われた。カントーへのアクセスは完成まではフェリーが担っていたが、それに2~3時間かかっていたものが5分になった。

図168.カントー橋

4.6 ダナン

Đà Nẵngダナンはベトナム中部の、図169の赤のピンに示す人口120万人の都市である。図96の国道1号線が通り、図170に示すダナン駅は図78の統一鉄道の旅客と貨物の主要駅となっている。これによりこの都市はハノイ、ホーチミンと並んでこの国における拠点都市の役割を持つ。

図169.ダナン
図170.ダナン駅

◆図169の赤のピンが示す通り南シナ海に面し、Hàn《ハン》川の広い河口に開けた街で、東側にはSơn Tràソンチャ半島が突き出ている。そのためダナンは外界から半島に守られる形となっており、天然の良港となる。ハイフォン港やサイゴン港と比べても、図171のようにここの港にはタンカーや大型船舶の入港が可能となる。

図171.ダナンのティエンサ港

◆1.7のホイアンに対し、かつては漁村に過ぎなかったダナンはフランス統治時代にはインドシナ総督府の直轄地となる。|Tourane《トゥーラン》とも呼ばれ、インドシナ半島の主要な都市、港へと発展した。ベトナム戦争のときには米軍が上陸し、国内最大の軍事基地を構えるとともにインフラが整備された。その反面軍港の町は下記動画の40分18秒で紹介され、2.4で述べてもいるテト攻勢などでベトナムの激戦地の1つとなった。

◆戦後の1975/10/04からクアンナム省と合併するが、1996/11/06に再び分離された。今戦争の名残を留めているのは、画像は用意できなかったがソンチャ半島に残る軍の基地のみとなっている。
2006/12/12に、ミャンマー東南部、タイ北部、ラオス南部、ベトナム中部を結ぶ図172のインドシナ東西(経済)回廊が開通した。この1450kmの道路によってインドシナ半島の内陸部は直接海と結ばれることになった。起点かつ終点は図からも分かる通り、ダナンである。図173~174に示す直線距離のあるダナンは、輸送コストが海上より安く抑えられる輸送路を得ることで、インドシナの新たな玄関口となりつつある。

図172.インドシナ東西(経済)回廊
図173.ハノイ-ダナン間
図174.ホーチミン‐ダナン間

4.7 米

◆メコンデルタで触れている通りベトナムは農業国で、昔から水牛にまたがりながら第4章のコラムで取り上げる「ノン」を被り、横笛を吹く絵柄にはっきりと現れてきた。現在、ベトナムのS字状の国土の両端、北部では図175に示すトンキンデルタ(紅河デルタ)、南部では4.4のメコンデルタが米どころで有名である。

図175.トンキンデルタ

◆一般的に田植えは、北部では2期作、南部では3期作となっている。メコンデルタではその肥沃さゆえに、「籾を蒔けばOK」と言われるほどである。
◆ベトナムでは粘りが少なく、パサパサしているインディカ米が主流で、人々もそれに慣れている。しかし、最近では香りが良い図176のGạo tấmガオ・ターム(ジャスミン米)の種類が多くなった。例としては画像は用意できなかったが、ティエンザン省の「タイグエン」は粘りと香りが良いことで有名である。

図176.ガオ・ターム

◆ベトナム米を世界に知らしめているのは、1988/04/05の行政作の大転換にある。それまで禁止されていた余剰米の自由な処分が容認されたため、農家は農業に専念し、国や企業も品種改良に注力した。こうして安くて種類の豊富な米が市場に流通するようになった。
◆トンキンデルタの米の生産量はメコンデルタには及ばないが、昔から北部の図177に示すThái Bìnhタイビンは米どころとして知られる。この省で収穫される図178のBắc Hươngバック・フーンは粘りと旨味があり評判で、価格もお手頃なのが魅力である。

図177.タイビン省
図178.バック・フーン

◆最近では柔らかい米が赤ん坊の子育てに良いと人気で、さらに炊飯器が使われるようになったため、炊きたて直後のみならず、保温しても美味しい米のほうが受けが良い。
◆米を原料とする食材は多い。例としては9.1で紹介する麺料理フォーの麺を細くカットしないで太巻きのまま野菜や具を巻く図179のPhở Cúổnフォー・クオンがある。ビーフンをご飯代わりに、エビの発酵調味料のmắm tômマムトムをつけて食べる。またもち米料理も多く、バナナの葉などに肉やココナッツを巻いて蒸すちまきの種類は無数である。図180のXôiソーイというおこわのバリエーションも豊かである。

図179.フォー・クオン
図180.ソーイ

4.8 ニュクマム

◆図181に示すNước mắmニュクマムはヌクマム、ニョクマムとも呼ばれ、小魚と塩を長時間漬け込んで染み出してきた液体から作られる魚醤の1つである。タイのnam plaナムプラーや日本の秋田のしょっつると同じ分類の調味料で、ベトナムの食卓では非常によく使用される。

図181.ニュクマム

◆ニュクマムのNướcは水や液体、mắmは塩を指す。つまりニュクマムとは魚を発行させた汁という意味である。動物性タンパク質が分解するため独特の強い発酵臭があるが、旨味が強い。
◆ベトナムでは前項で紹介したマムトムや、川魚が主な原料の図182に示すMắm cáマム・カーなど、魚介系調味料はベトナムでは珍しくなく、豊富な魚介資源のある国や、グルメな国民性が生み出したものとも言える。

図182.マム・カー

◆ニュクマムの産地はベトナムの海岸部一帯である。漁獲高の多い中部~南部にかけて良質なニュクマムが生産されており、名産地はこれまで名前を出してきたニャチャン、ファンティエット、そしてベトナムの最大の島の、図181の容器のラベルにも名前があるPhú Quốcフーコックである。この島の位置を図183に示す。

図183.フーコック島

◆この島のニュクマムは質と量、ともに最上とされ、80以上もの工場が年間1000万リットルを生産している。原料はイワシが多く、アジやカツオを使う地域もある。最適とされるのは図184のアンチョビで、Cá cơmカーコムと呼ばれる。皮の薄い5センチ以下の若いものが好まれる。

図184.カーコム

◆水揚げされた魚は新鮮なうちに、船着き場近くの加工場で塩と混ぜられ、大きな瓶や樽に入れられる。一般的には4~6カ月、長いもので1年ほどで発酵及び熟成が完了、溶け残りは濾過ろかされて、製品になる。液体を抽出する作業は数回行われるが、水を足して再抽出されるものは品質が劣るため、最初に絞られる、つまり一番搾りのものが最上位である。品質の指標は成分の濃度も使われ、瓶詰めされたラベルに「20°N」「40°N」と表記される。
◆この調味料の使途は多岐にわたる。家庭で作られる料理の味付けはもとより、料理のつけダレにも多く使われる。タイのナムプラーとは製法も原料も似ているが、こちらのほうが塩分濃度や発酵度合いが低いとされる。ニュクマムはナムプラーよりもクセのある、個性的な味わいである。
◆ベトナムには「Canh chuaカインチュアはニュクマムにはかなわない」ということわざがある。図184(1)のカインチュアはベトナムのごちそうの代表である。そんな鍋よりも、シンプルなニュクマムのほうが最高のごちそうという意味である。

図184(1).カインチュア

4.9 お茶

◆ベトナムで最もポピュラーなお茶は図185のThái Nguyênタイグエン省のタイグエン茶である。茶畑を図186に示す。

図185.タイグエン省
図186.タイグエン茶の茶畑

◆タイグエン省はハノイから図187に示した距離が離れている省で、日本の静岡のようにお茶といえば、この国の人々はここを連想する。他にも産地はあるものの、ほぼ北部に集中している。南部の気候と土壌は茶作りには適さないためである。

図187.ハノイ-タイグエン間

◆この国の人はベトナム茶を「生茶」と呼ぶが、タイグエンの茶はほうじ茶に近い。図188のように急須に入れて適温の湯で飲むのが普通だが、1~2口で飲める小さい盃を使うため、味や成分が濃くなる。日本の感覚で茶を勧めると、カフェインの強さゆえ夜に眠れなくなるからという理由等で断られる。

図188.タイグエン茶

◆タイグエン茶の中で最高級のものは情報が皆無なため画像未取得だが、くの字に曲がっているためその名がついたという「釣り針茶」である。この釣り針茶は高級茶である図189の蓮花茶れんかちゃにブレンドされる茶である。蓮花茶とは蓮の花のシベを混ぜた茶のことである。夜が明けぬうちからハノイのTâyタイに行き、香りが飛ばないうちに花からシベを摘む。シベと茶葉をバナナの葉の上に乗せ、1~2日間一緒に寝かせれば、シベの香りが茶葉に移る。

図189.蓮花茶

◆図190の「生茶」は庶民にとって安くて美味しい。作り方はシンプルで、茶樹からもいだばかりの葉を乾燥後、沸騰する土瓶の中で煮出しする。

図190.生茶

◆ベトナムでは健康ブームのため、高血圧予防の効果があるお茶が再評価されている。図191の25cmほどの大きい茶葉の茶はChè đắngチャー・ダンといい、đắngは苦いという意味である。その名の通り非常に苦い。

図191.チャー・ダン

◆ベトナムでは茶館が人気だが、日本の茶道のような文化はない。凝った飲み方は一部の上流層だけが嗜むものだった。庶民にとってのティータイムは、客人との時間を取り持つ手段である。民家では茶杯は回し飲みが多く、茶渋が残っていても気にしない。茶杯の茶はなくなり次第すぐに注ぎ足され、こうして会話が弾む。

4.10 漆絵

◆ベトナムでは漆器をSơn Màiスゥーン・マーイというが、SơnとMàiはそれぞれ漆、研ぐという意味を持つ。図192はベトナムの漆工芸品である。

図192.ベトナムの漆工芸品

◆漆器そのものは歴史があるが、ベトナム戦争の影響もあり長らく低迷していた。質が低かったのが問題で、良質であっても大型の漆絵は日本の家に受け入れられなかった。しかし、近年では手頃な美術工芸品として再評価され、金、銀、紫、赤などの大胆な色使いをされた見事な曲線美の食器やワインボトル置きなどが、街に並んでいる。
◆ベトナムの漆芸は、元はフランス人のアーティスト達と深い関わりがある。漆器を芸術的な域に高めていったのは、植民地時代の図193に示すインドシナ美術学校であった。現在のベトナム芸術大学(ハノイ芸術大学)である。

図193.ベトナム美術大学

◆上記の学校は1925年に開校、34年には漆器工房を設けている。当時のフランス人たちが新たな塗料の開発を目的に、素材としての漆に目をつけたことによる。美術教師Joseph Inguimbertyジョセフ・インギムベルティが提唱した新しい絵画運動のSơn ta(ベトナム風漆絵)によって、ベトナムで採取した漆による画風が作られることになった。彼はベトナムの寺院などによく見られる朱色の祭具に心打たれ、それらを漆芸に活かそうとした。それから、師の教えにベトナム人画家たちの模索が始まった。
◆当時の技術は古典的かつ低レベルで、色が単色であった。そこで彼らは、既成の枠組みから脱出するために卵の殻をはめ込んだり、下塗りに松脂を用いたりした。その積み重ねの結果、1937/05/15のパリ国際博覧会で、作品が正式出品された。しかし、画像は未取得である。
◆漆製品はベトナム中で生産されるが、3.1で名前を出した図194に示すフート省では、伝統的に良質の漆が採取できることで知られる。南部のBình DươngビンズオンTương Bình Hiệpトゥン・ビン・ヒェップでは周辺地域が木工品の生産で知られる。ここには17世紀に北部、中部からの移民が漆芸を持ち込んだと言われる。他にも下記動画しか見つからなかったが、11世紀から漆芸を扱っていたという北部のNam Địnhナムディンのカットダン村(スペル不明、Cat Dang?)や、ハノイ近郊のHa Thaiハタイなどがある。このように漆工芸は、形を変えて人々の生活を支えている。

図194.フート省

4.11 南部の果物

◆図163で示したように、南部は果物の宝庫である。「南部人は開放的な性格で、思ったことを正直に口にする」と言われるのは自然に木に実がなって、それを食べるという環境がそういう性格を作り上げていると、筆者は語る。
◆図195に示すドラゴンフルーツはベトナムではThanh longタインラゥンと呼ばれている。赤い外見にインパクトがあり、中は白い果肉と図196のゴマのような黒い粒がたくさんある。それほど甘くないが清涼感があり、数種のビタミンや葉酸、食物繊維も多く含まれる。このフルーツの色がおめでたいと言う事で、お供え物としても利用される。さらに栽培技術の向上で年中収穫できるようになり、中越国境まで輸送されている。

図195.ドラゴンフルーツ
図196.ドラゴンフルーツの中身

◆原産地はメキシコや中南米の熱帯雨林で、ベトナムのドラゴンフルーツは図196の白い果肉と図197に示す赤の果肉がある。上記はフランス統治時代に、下記は1988年に台湾から持ち込まれた。ファンティエットでよく栽培されていて、他に図198に示すLong Anロンアンやティエンザン省でも取れる。ちなみに日本で見られるドラゴンフルーツは、ベトナムのものよりかなり小さい。

図197.赤い果肉
図198.ロンアン省

◆南部の果実の名産品の1つが図199に示すミルクフルーツで、ベトナムではvú sữaブー・スゥーと呼ばれる。直訳すれば図200、または乳を吸うとなる。この呼び名の由来は赤子が母親の乳房を確かめるように、熟れた実を手のひらで揉んで柔らかくすることにある。揉んだ後に頭部を薄く切ると白い乳液が溢れ出すので、スプーンで皮や種以外の果肉をすくうようにして食べる。

図199.ミルクフルーツ
図200.vú sữaの翻訳

◆スペルが不明だが、ブー・スゥーのブランド品種であるローゼーンは、1930年代にすでに南部の農家によって発見されていて、50年代には農民が大金持ちになるほどローゼーンが売れたという。60~70年代には南部の至る所に木があり、食べ放題だった。
◆3.11で述べた配給制度時代はその日食べる食料にも事欠いたため、この果物の木は次々に伐採された。しかし市場経済が機能し始めてからはこの果物が再浮上し、内部需要はうなぎ登り、ロシアやニュージーランドに輸出するほどの規模になりつつある。

4.12 マングローブ

◆下記動画に示すマングローブとは、海水と淡水が交じる汽水域に生息する樹木を全般に指す。ベトナムの長い海岸線、北部の紅河、南部のメコン川に育まれたマングローブの林は世界でも有数の広さであった。

◆建材や燃料、生態系に集まる魚類をはじめとした生物資源の利用、高潮や台風などの自然災害から住民の生活を守る防波堤まで、この植物はベトナムの国民に多大な恩恵をもたらしてきた。
◆フランス統治時代から水田開発のための破壊が始まり、インドシナ戦争ではメコンデルタに広がる林は解放軍兵士たちの隠れ家に適していた。そしてベトナム戦時下、アメリカがこうした林を根こそぎ枯葉剤で砂漠に変えようとしたのは、こうした煩わしさの解消のためであった。
◆ベトナム戦争が終結してもマングローブは簡単に戻ることはなく、むしろ人間の経済活動によって破壊が進んでいった。破壊が進むと人々は貧しくなり、またさらに伐採が続くという負のループに陥った。
◆3.11で述べたドイモイ実施後は破壊に拍車がかかった。図201に示すエビの養殖が主な原因で、日本などに輸出されるエビの養殖は現金収入を得る手段として、多くの人々が飛びついた。しかし樹のない浄化作用能力が減った土地では土壌汚染で数年で生産量は激減し、人々はまた林の伐採を繰り返した。下記動画はインドネシアのエビ養殖に関わるものだが、参考になると考えられる。

図201.ベトナムのエビの養殖

◆一方ベトナムには森を大切にする思想があり、ホー・チ・ミンも「10年後のために木を植えよ、100年後のために人を育てよ」との言葉を残している。これは中国のことわざにもあり、ベトナムでは戦前から植樹が続けられていた。近年になって植樹を重要視した政府が様々な再生策を練るようになり、戦後のベトナムで再生した林の面積は世界に類を見ない面積となっている。
◆下記リンクに示すのは、2008/11/04のコスモス国際賞授賞式のリンクである。ベトナムのマングローブ研究で有名な、Phan Nguyên Hồngファン・グエン・フォン博士が受賞した。博士を中心としたマングローブ再生の成果の1つが、ホーチミン市に隣接するCần Giờカンザー地区にある。カンザー地区の位置を図202に示す。

図202.カンザー地区

◆戦争などでほぼ全滅したカンザーの40000haヘクタール(東京ドームの30000倍以上)のマングローブは、半分以上が復元した。世界の再生林の規模としては驚異的な規模であるこの復元は、野生動物の回帰をもたらした。そして林と共存するエビ養殖場など、カンザーの森は世界中から復元モデルとして高い評価を受けている。現在この地区には図203のようにクルーズ船や、マングローブにあった戦時中の基地を再現したテーマパークなどが作られている。

図203.マングローブを抜けるクルーズ船

第4章のコラム-緑豆のお菓子-

◆ベトナムでは緑豆を原料にした豆菓子が豊富で、図204に示す北部Hải Dươngハイズォンの図205に示すBánh đậu xanhバイン・ドウ・サインは最も有名な菓子の1つである。

図204.ハイズオン省
図205.バイン・ドウ・サイン

◆この豆菓子は1世紀の歴史がある。図205に示す通りサイコロ大の菓子が10粒、5個が2列ならぶ形で包装紙の中に入っている。原材料は緑豆、白砂糖、ラード、ザボンのエキスである。
◆この種の豆菓子は他地域でも見かけるが、この省のものは黄金の龍という商標がつけられる。昔、図20のバオダイ帝がこの町に来たとき、「皇帝御用達」の称号を与えたからである。町民が献上した菓子の美味しさに皇帝は大いに喜んだといい、フランス植民地時代に開催された博覧会では金賞を受賞した。
◆ベトナムのスーパーには常備してあり、昔から名のあるブランドは図206に示すBảo Hiênバオ・ヒエンや図207に示すNguyên Hươngグエン・フーンである。

図206.バオ・ヒエン
図207.グエン・フーン

第5章-祝祭日-

5.1 テト

◆ベトナム国民は正月を旧暦で祝う。Tếtテトと言われる正月はGoogleで「テト いつ」などと検索すれば図208のように詳細な日付が出てくる。2025年のテトは1/29で、ベトナムの人々は1カ月ほど前から準備をし始める。

図208.2025年のテト

◆この国の人々は年末の買い出しでごった返す雰囲気を好み、年始に客を迎えるために何を新調すべきかを家族会議で決める。その後、秩序があるとは言えない市場に出向く。
◆ベトナム人はこのために1年間苦労して働いてきたと言わんばかりに、テトは必ず家で過ごす。経済発展で暮らしぶりに変化が見えるが、伝統的な生活スタイルが根強く残っている。
◆図208に示すのは、桃と梅の花である。日本の門松のように、北部では桃の花を、南部では梅の花を買ってそれぞれ家の目立つところに置く。市場では需要側VS供給側のバトルが繰り広げられる。前者はより末広がりのような、おめでたい枝を選ぶ。後者はなるべく高値をつける。このような感じなので、市場は値段交渉の会話で埋まり、その他の楽しそうな声が聞こえない殺気に満ちた空間へと変貌する。客は値段交渉後、家に帰れば笑顔になる。ちなみに、図208の枝はライターで炙る。開花しないよう発育を遅らせるためである。

図208.左が桃、右が梅の花

◆大晦日が近づくと、Xông nhàソン・ニャーと呼ばれる慣習に従い、誰を新年の一番客に迎えるかが家族で議論される。その年の干支と相性の悪い干支の持ち主が家に入ると、一年中災いがもたらされると考えられているため、予定外の人がふらっとやってきてしまわぬよう、あらかじめ相性の良い人を指定及び予約して一番に入ってもらう。
◆以前は爆竹の利用ができるベトナムであったが、事故の多発を理由に1994/08/08に禁止された。ただ、禁止されても現在でも下記のような事件や事故が相次ぐ。

◆子どもたちにとってはLi Xiリーシーと呼ばれるお年玉があるのでこのお正月は待ち遠しい。ただ最近はこの値段が図209のように高騰している。年長者には長寿祈願の意味でお年玉をあげることも一般的で、テトは人々が繋がりを確かめ合う機会であると言える。

図209.お年玉の相場

5.2 雄王記念祭

◆2007/03/28に、ベトナム国会は図210に示すベトナム労働法73条を改定し、旧暦3/10をHùng Vươngフンヴォン(雄王)の日と定め、これを国民の祝日とした。その年の旧暦3/10は新暦4/26に図211のようになっていた。

図210.ベトナム労働法73条
図211.旧暦と新暦

◆もともとベトナムは次項で述べる国民の休日が8日しかなかったため、国民は歓迎した。
◆実は1946/02/18に、図114のホー・チ・ミン主席が雄王の命日を公務員の休日とすることに署名していたが、その後この国ではフランスやアメリカから独立を勝ち取るための長い戦いが続いた。そんな中公務員が休暇を取るなどとは到底考えられなかった。南北統一後の1994/06/23に検討されたが、経済が発展している中で休みを増やすのは早いという結論に至った。こうした経緯があった上で、今日の経済発展と国民の休日を1日増やすことで新たな需要が見込めるとの理由から、雄王命日が休日と決まったのである。ちなみに雄王の詳細は3.1で述べていて、Văn Langヴァンラン(文郎国)がベトナム国の始まりであるとされる。
◆文郎国の都があったとされるフート省Việt Trìヴィエットチーにある雄王殿の動画を下記に示す。法事の開幕式は銅鼓を打ち鳴らして始まる。その後1000名以上の演技者による雄王18代を象徴する演出が披露され、10日間に及ぶ様々なイベントがある。

5.3 革命と戦争関連の祝日

◆3.4で述べた共産党創立記念日は、2/3である。植民地時代の共産党の政治活動は、フランスの憲兵隊に見つかれば逮捕された。そのため全国各地で地下活動を通じてその動きを広めたが、関係者同士が顔を合わせ結束を強めるためには党大会を開く必要があった。1930/02/03に図212に示す第一回党大会が開かれた。中央右にホー・チ・ミンが見える。

図212.共産党第一回党大会

◆1.10で日付を出したディエンビエンフーの戦勝記念日は、5/7である。ベトナム民主共和国の独立を認めないフランスは、南部で戦争を始めた。対する共産党はゲリラ作戦を始動し、1946/12/19にインドシナ戦争が勃発。図84のラオス国境のディエンビエン省省都・ディエンビエンフーで7年間戦争をした後、1954/05/07にフランスは降伏した。下記にディエンビエンフー戦勝記念式典の動画を示す。

◆1.10、2.5、3.7で述べたサイゴン解放記念日は、4/30である。フランスが敗戦した後、アメリカはドミノ理論で共産主義が広まるのを恐れた。この大国は南部を支援し、1960年代にベトナム戦争が開戦した。この戦争は始まりが諸説ありはっきりしないが、テキストに載っているのは1961年である。アメリカは戦争が泥沼化したため1973年のパリ和平協定締結後に撤退し、北ベトナム軍が1975/04/30に、サイゴンに突入して終戦した。
5/19はホー・チ・ミン生誕記念日である。革命の父である図114のホー・チ・ミンは、1890/05/19に中部ゲアン省に生まれ、フランス、アメリカで生活した後、共産主義を根底とする革命運動を開始した。質素倹約に努めたという彼の生き方は「ホー・チ・ミン思想」として広まっている。
傷病兵・戦死者記念日は7/27である。ベトナムではインドシナ戦争とベトナム戦争で多くの尊い命が失われた。1947/07/27(テキストでは1946年)にタイグエン省Đại từダイトゥーHùng Sơnフンソンで、戦傷者と殉教者の活動について話し合う会議があり、そこでこの記念日が制定された。1947年の時点では傷病兵のみだったが、1955年に戦死者が加えられた。図213はこの記念日のイラストである。

図213.傷病兵・戦死者記念日の絵

◆同じく3.4で述べた独立記念日は、9/2である。ベトナム独立同盟のベトミンは、1945年8月に弱体化した日本軍を降伏させ、同年9/2に「ベトナム民主共和国」として独立した。支配地域は北部だけだったものの、社会主義国として実権を握った日、またホー・チ・ミンの逝去した日としてこの日はベトナム国民にとっては特別である。
首都解放記念日は、10/10である。フランス軍撤退で、首都ハノイではフランスとベトナムとの権限譲渡が行われた。北ベトナムからは警察や軍隊がハノイに配置され、財産目録を確認後、ベトナムに受領された。これが完全撤退となった。

5.4 中秋節

◆日本人にとっては中秋は団子とすすきを飾ってお月見をする程度のイベントだが、ベトナムにおいては街全体が中秋に向けて準備するという姿勢で、国民的なイベントとなる。
◆中秋はもともと中国のしきたりで、秋の収穫を祝う祭りである。ベトナムでは中国のように身近な人や学校の先生、上司などに図214のBánh trung thuバイン・チュン・トゥと呼ばれる月餅や酒を贈り合う。

図214.バイン・チュン・トゥ

◆月餅の中には色々な具材が入っており定番の餡や、肉、フカヒレが入っているもの、形が丸くなく、動物の形をしたものもある。図215に示すのはティラミス味の月餅である。

図215.ティラミス味の月餅

◆中秋の説話として、図216、217に示すHằng NgaハンガーHậu Nghệハウゲの話がある。元は中国から来たもので、空にはもともと10個もの太陽があったが、互いが遊ぶために一斉に昇ったため、地上は灼熱地獄となり、海は干上がった。ハウゲは崑崙山こんろんさんに登り、矢で9個の太陽を射落とした。その後ハンガーと結婚し、夫婦仲良く暮らした。

図215.ハンガー
図216.ハウゲ

◆ある時ハウゲは神々から不死の薬を得たが、ハンガーに自分は不要と預け、その後自らの家を留守にした。そこへ悪者の逢蒙ほうもうが現れ、ハンガーに薬を出せと迫るが、大事な預かりものを取られまいと、ハンガーは飲み干す。すると体が軽くなり、ハンガーは天に召された。
◆家に戻ったハウゲは事実を知り悲しむ。ある時月を見上げると、ハンガーの影が天に映っていた。以後、ハウゲは最愛の妻にお供え物をして供養したという。
◆以上の神話については参照できる資料が少なく、これが自力で書ける限界といったところである。

第5章のコラム-ホイアンのランタン祭り-

◆1.7で取り上げたホイアンでは、毎月旧暦の14日の夜にランタンを用いた、街中が真っ暗な夜祭、別名ランタン祭りが催される。下記動画にそれを示す。

◆1.7で述べたが、ホイアンは1999/12/04に世界遺産に登録された。前項で述べた中秋月の祭りが最も盛り上がりを見せる。町では獅子舞や図28のトゥボン川を流れる灯籠が見られ、おしゃれな雰囲気を醸し出す。
◆この祭りで使われるランタンは丸みを帯びた中華風のもので、中国寺院で使われていたものが広まったと言われている。たくさんのランタンで飾られた町は世界遺産に登録されるのも納得と言えるほどの美しさを持つ。

第6章-政治と経済-

6.1 ベトナム共産党

◆図217に示すベトナム憲法の第4条でベトナム共産党は「国家と社会を指導する勢力」と規定されている。

図217.ベトナム憲法

◆上記に示した憲法は党の方針によって決まる。よって憲法をベースにして決まる法律、各種国家機関の決定は党のそれと食い違うことはない。党の最高決定機関は5年毎に開かれる図218の党大会である。

図218.党大会

◆上記の党大会以外にも、党書記長と政治局は会合をたくさん行う。会合のテーマは国の政治、軍事、経済やその他の多くの分野で、重要な決定をする。政治局が決めるといった決まりやそれを保証した文書はない。だがこの局の様々な指示や決定は、法よりも強大である。
◆ベトナムの中央省庁から行政村という末端に至るまで、それぞれ行政機関には党組織が存在し、党と国家が一緒になっている。
1955/09/10にベトナム国民連合戦線(後のベトナム祖国戦線)が誕生した。これは党と同じ範囲(中央~地方)に組織を持つ。そしてこの範囲の各行政レベルは、主席と中央委員会を持つ。ベトナム祖国戦線の下には労働総同盟や婦人連合などのグループがあり、政治的にも社会的にも多くの人員を動かしている。
◆ベトナム祖国戦線は国会へ法案を提出する権利を有し、この戦線の議長は閣議に参加する権利を有する。国会・地方人民評議会の選挙は祖国戦線の管理下にあり、この祖国戦線は以下の役割を分担する。
①立候補者の名簿の準備
②各選挙区の有権者の代表からの立候補者に関する意見聴取
③①の作成
◆ベトナム共産党や祖国戦線の推薦を受けない個人は、当選するチャンスを極めて得にくい。自立候補は有権者や選挙区の推薦がなければならないという制約があり、大抵の場合はそこで落選するからである。
◆党や国家指導部が最も重視しているのは、高い投票率である。これが低迷している日本とは違い、基本的に下記記事に示す通り90~100%である。

なぜこのように高くなるか?答えは投票率の高さが共産党体制が正しいとする証明かつ、社会主義的民主主義の表れと考えられているからである。

6.2 共産党員

◆前項でベトナム共産党について述べたが、ベトナムは共産党の国である。観光客は共産党の雰囲気を感じることはないが、様々な組織に党組織があり、党員が活動している。例としては、市町村の役所や学校、病院など。
◆党員の指揮役は党書記で、自分が所属する組織が中央で定められたポリシーに沿って運営されるように監督する権限も持ち合わせている。
◆前述の学校、例として大学では党書紀が副学長を兼ねていることがある。仕事上では無論立場は学長>副学長だが、それ以外の場合この立場は逆転する。理由は、組織が党のポリシーに基本的に従うことになっているからである。副学長=補佐であるので、無視はできない。学長はあくまでも党員、党書記よりも格下である。
◆政府機関や組織で働く人々の中には当然出世に興味を示す人がいる。昇進には共産党員になることが必須要件という下記記事の中国のような状況であるので、党員になるための険しい道を歩む。

◆前述の険しい道の中身は、まず小・中学校で下記ポストにある「少年先鋒隊」に、高校・大学で図219がマークの「ホーチミン共産党青年団(共青団)」にそれぞれ加入し、活動する。無論学業もおろそかにせず、その他の評価につながる仕事をやるなどして点を稼ぐ。こうした手順を踏んでから共産党の支部にこれまでの頑張りを認識して記録を作ってもらうことで、党員への土台となる。

図219.ホーチミン共産党青年団のマーク

◆その他の道としては党や政府機関の仕事をしつつ、図219の青年団に所属して真面目に活動するとやがて声がかかることもある。
◆近頃は大学生でも党員になれることがあるが、党に加入するには党の推薦者が2人必要である。それに加え、履歴を細かく見られるなど道は決して甘くない。
◆党内部では、本人が国の方針に背く思想でないかが重要となる。それを通過した後もまだ党員への道は終わっておらず、次に待つのは党学校である。ここでは国の方針に合致した様々な講座を受講する。これらを終えて一定期間経った後に、晴れて党員となる。図220に示すのは党員証であるが、引用元は開けない。

図220.党員証*

◆図221に示す通り2019年でも党員数は520万。ベトナムの人口が1億人弱なので、割合は5%ほどである。この党の一員にならなくても大丈夫である。だが共産党員になることは出世へのパスポートとなり、安定した生活を保証するものとなっている。党員の中には個々の考え方を持ちながら活動するという辻褄の合わない選択をするものもいる。

図221.共産党のデータ

6.3 計画経済から市場経済へ

◆南北が統一された後、共産党体制の敷かれた北部による南部の改造が始まった。資本主義の資本家がいなくなり、国を支える企業の国営化が行われるなど、国は社会主義に染まっていった。南部の人々が作った農作物は国に買い叩かれ、彼らの農地は国のものとなった。労働者たちの賃金は仕事に対する意欲や姿勢がいくら高くても、それに関係なく一定になり人々の生産性や国力は低下した。
◆闇市が人々の頼みの綱となった。その理由は配給はあるものの、最低限しか保障されず個々の職業や地位によって格差があったためである。生産効率を無視した結果企業は赤字を出したが、それを国庫で補填してもらった。この制度が3.11で述べたバオカップである。
◆ベトナムはカンボジア進攻で孤立化し、国内は経済破綻したが、こうした事態を打開したのが1986/12/15~18に開催された第6回全国党大会で決定されたドイモイである。この政策は生産性アップに期待を込めた市場経済制度の導入や対外開放政策で構成されていた。ドイモイ刷新の名の通り、以下に示す様々な改革がなされた。
①生産性の低い、赤字続きの国営企業の撤廃と個人経営店・小工業への優遇
②価格や賃金の改革(インフレ抑制)
③バオカップ廃止
④農業の自由化(農家が自分の土地を持てる)
⑤外国からの投資の導入
⑥貿易の自由化と関税引き下げ
以上の改革を持ってインフレは収束し、ベトナムはの輸出国となった。
◆これ以降も経済成長は続いた。それまでのベトナムは平等主義で、人より金持ちになるということは許されない風潮にあったが、この改革の後は人々が正当に豊かになる方向に向かった。一方で汚職撲滅がニュースになる時代でもある。

6.4 海外在住のベトナム人

Việt Kiềuベト・キュー(越僑)は海外在住のベトナム人のことを指す。ベトナムから戦争のために諸外国に移住した人々は多く、アメリカのコミュニティーには160万人いる。カリフォルニアのリトル・サイゴンが有名で、ベトナム各地の料理も楽しめ、かつてのサイゴンにそっくりである。

図222.リトルサイゴン

◆ドイモイ以前のベトナムでは、人々は資本主義そっちのけでこぞってアンゴラ、ソ連、東欧、北朝鮮、キューバというような社会主義国に行きたがった。しかし社会主義体制が崩壊に向かうと資本主義の人気が急に上がり、起業目的でロシアやドイツに定住する人が増加した。ロシアには「オプ」というベトナム人の商店街ができた。
◆ドイモイで増えたのが国際結婚である。90年代から12万人の南部の貧しい家庭出身の女性が台湾在住の男性と結婚してこの国に渡った。双方、生活様式が似ているという特徴があったが、台湾に渡ってから問題がおきた。自分の思い描いていた生活が営めなかったり、経済的な面で苦労する女性がいた。
◆裕福になるための結婚であったが、実際はギャンブル要素がある程度あるものであった。諸外国に移住したからと言って、必ずしも幸せになる保証は得られなかった。

6.5 ベトナムブーム

◆日本はベトナムに侵攻してそこを植民地にしたりと、昔はベトナムの人々を弾圧していたが、今となっては友好国となっている。図223に示す在ベトナム日本国大使館は今でこそ広い敷地を持っているが、90年代初頭は普通の団地の1区画しか割り当てられておらず、まるで信用がないような扱いであった。

図223.在ベトナム日本国大使館

◆ドイモイ実施以降、外国資本が受け入れられるようになった。ベトナムに進出する機会をずっと窺っていた日本は早速手を付けようとしたが、当時はアメリカとベトナムの関係がまだ悪く、日本だけ得をすることはできなかった。日本はダミー会社を設立して現地でビジネスの基礎づくりをするにとどまった。
1992年11月には日本からベトナムへのODAが再開、ベトナムのインフラの開発が可能になり、これが第1次ベトナムブームの起爆剤となった。仕事でベトナムに行く人が増え、90年代から2000年代へのベトナム雑貨ブームにつながった。このブームではベトナム製の安くてきれいなファッションや芸術作品が日本の若い女性に受け、ベトナムと日本の距離感を縮めた。これは貿易の収益増加にも貢献し、1994/11/01には関西空港とホーチミン市が結ばれた。
◆日本では技能実習生といえばベトナム人を思い出す人もいるが、建設業や工場などの製造業にベトナム人が多い。前は中国が受け入れ先の国で最も多かったが、最近は減少して図224に示すように日本が1位になった。ただ、最近の円安や賃金上昇幅が芳しくないなどの理由から、下記のニュースのように日本を避け始める動きも出ている。

図224.技能実習生の受け入れ状況

第6章のコラム-革命の北、消費の南-

◆下記記事に示す通りホーチミン市にはDân Sinhヤンシンという市場がある。昔は貧困層の物々交換や配給物資の横流しが行われた市場で、軍事物資、富裕層の家財などが並び、何でも揃えられると言われた。

◆南部に住む人々の意識は「売れるものなら何でも売る」といったもので、とにかく金になるなら売ってはいけないもの、売るにはふさわしくないものなどを遠慮なく出品した。例としては個人を特定可能な様々なIDカードが挙げられる。一方北部の人の意識はこれとは違い、売るのではなく使い切り、使いきれなかったら捨てるか、譲る方向に行く。
◆南は需要と供給を意識し、北は人情や人間関係を意識する傾向にある。


終わりに

さて、いかがだったでしょうか。個人的にこのそこそこ長い記事の欠点を羅列すると以下になります。
1.質の低下が顕著に見られ、100点満点中30点くらい
2.少々コトバンク、世界史の窓、Try ITに頼りすぎ
3.生没年、◯◯が始まった年月日の記述の著しい不足
4.図や画像の不足
5.テキストと完全一致する図を探すことにそれほど尽力していない
6.技術不足並びに調査不足
7.わかりやすい動画の貼付の不足
8.上記のわかりやすい動画や教材を自作できていない

自作できていない、という問題は極めると動画制作などにつながってしまうので、いつまで経っても記事が完成しないという問題も起こり得ます。こればかりは仕方のない気もします。それでは、後編でお会いしましょう👋


今後の課題

◆ホー・チ・ミン廟の建設費用は?
◆阮朝が築かれた正確な日時は?
◆フエの国旗掲揚台が建てられた正確な日時は?
◆ミーソン遺跡の世界遺産登録日時は?
◆フォンニャ洞窟でフランス人宣教師が見つけた7文字は?
◆バオダイ帝の別荘とは?
◆ザイ族とは?
◆南北鉄道のトンネルが開通した年月日は?
◆ディエンビエンフーにフランスが要塞を築いた年月日は?
◆1959年の北ベトナムによる南ベトナムの開放が始まった年月日は?
◆ホーチミン・ルートの工事の始まりと終わりの正確な年月日は?
◆5つあるホーチミン・ルートの詳細は?
◆タ・コゥン空軍基地とは?
◆統一宮殿が最初に建てられた正確な年月日は?
◆3つの群の設置は正確にはいつか?
◆白藤江の戦いが終結した詳細な年月日は?
◆リホンの独立抗争が起こった正確な年月日は?
◆普陀山霊中仏重修碑の読みは?
◆革命勢力による南部解放大攻勢が開始されたのは?
◆ケネディ大統領がサイゴンのロッジ大使に電報を送ったのはいつか?
◆化学兵器禁止条約で枯葉剤が禁止されたのはいつか?
◆中国のベトナムへの支援を停止した正確な年月日は?
◆カンボジアからベトナム軍が撤退した正確な年月日は?
◆李公蘊がタンロンに遷都した正確な年月日は?
◆ダラットのヴィラを改築解体するのを禁じる法律とは?
◆バオダイ帝のゴルフコースが作られた正確な年月日は?
◆西沙、南沙群島で中国が1946年に支配したのは正確にはいつか?またウッディ島と太平島というのは事実か?
◆ランドン油田が発見された正確な年月日は?
◆カインチュアはニュクマムにはかなわないの詳細は?
◆釣り針茶とは?
◆インドシナ美術学校が開校した正確な年月日は?
◆ロシアにできたベトナム人の商店街のオプとは?
◆ベトナムへの日本のODAが再開した正確な年月日は?


🔧使用ツールと📚️参考文献・ウェブサイト💻️

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1.Google マップ、ストリートビュー
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📚️参考文献・ウェブサイト💻️

1.ベトナム検定: ベトナム検定公式テキスト (ASEAN検定シリーズ) | 石井 彩子 |本 | 通販 | Amazon
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3.学研キッズネット
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81.ミーソン|ベトナム 世界遺産|阪急交通社
82.クアンナム省/ 東アジア地方政府会合
83.世界遺産(2)ミーソン聖域~聖地と戦地の歴史を語る遺跡~ - VIETJO 日刊ベトナムニュース(図42)
84.Mahaparvata, Mahāparvata, Maha-parvata: 4 definitions
85.日本に伝来するチャンパ裂 ー日本とベトナムの織物の交易ー | 京都市立芸術大学
86.#What’s ヒンドゥー教? あらゆるものをのみ込む宗教 3分でわかる! 世界五大宗教その4 | TRANSIT.jp|トランジット
87.シヴァ【インド神話】――恐るべき破壊の神|世界の「推せる」神々事典|沖田 瑞穂|webちくま
88.ベトナムのチャム族
89.ミーソン遺跡のこと - サラトラベルベトナム
90.西欧建築のアーチについて 注(図43)
91.世界遺産「フォンニャ=ケバン国立公園」:フォンニャ洞窟を観光 | FUJI教育基金(Quỹ Giáo Dục FUJI)
92.vietnamairlines.com/jp/ja/destinations/dong-hoi
93.第599回 「ホーチミンルート1万3000キロ」の衝撃映像 伊藤努|記事・コラム一覧
94.異世界への入口! ベトナムの世界遺産、フォンニャ・ケバンの鍾乳洞が幻想的すぎる - Expedia JP Stories(図47、図48)
95.About: Léopold Michel Cadière
96.世界最大の岩山に、2億5000万年前にできた鍾乳洞がある! | マイナビニュース
97.クアンビン省<Quảng Bình> - [VIETJO ベトナムニュース]
98.ホーチミン市について | ALLGROW LABO Inc. (ベトナム)
99.ホーチミン市の人口、約900万人に急増、住宅不足が深刻に(ベトナム) | ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース - ジェトロ
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144.国道1号線バイパス道路整備事業(2) | ODA見える化サイト
145.ベトナム統一鉄道 - ベトナム フエ 観光(図80、図81)
146.アセアンの注目地域~インドシナ半島(メコン地域)~ | アナリストeyes | ニュース・トピックス | 市場調査とマーケティングの矢野経済研究所
147.カラン/パヤ レバー高速道路 - 評決交通
148.norrd_01.pdf(ディエンビエン省)
149.ベトナム|ディエンビエンフー戦勝70周年記念式典 - VietBiz(ベトビズ)
150.近代ベトナム史最大の出来事「ディエンビエンフーの戦い」とは。ベトナム独立戦争の始まり、第一次インドシナ戦争の歴史を交えて徹底解説いたします。 | ベトナム旅行とベトナム情報・アンコールワット旅行とアンコールワット情報
151.ハノイ - ディエンビエンフー フライト(飛行機) | FlyTeam(フライチーム)
152.ディエンビエンフー|キューカンバー
153.Nghị quyết 22/2003/QH11 chia và điều chỉnh địa giới hành chính tỉnh(ディエンビエンフーの省都への格上げ日)
154.Độc đáo chợ sớm ở TP Điện Biên Phủ(ディエンビエンフーの市場)
155.アーリントン国立墓地を訪問するためのガイド| ワシントン.org
156.ド カストリーの司令部跡 クチコミ・アクセス・営業時間|ディエンビエンフー【フォートラベル】(図87)
157.ja(ベトナムの北緯17度線)
158.144444863.pdf(インドシナ戦争後の総選挙)
159.画像・写真:古都「フエ」の栄華、神秘的な自然~ベトナム中部~(48/73):時事ドットコム
160.Tìm hiểu cụm di tích lịch sử Cầu Hiền Lương - Sông Bến Hải Quảng Trị(ヒエンルーン橋、図90)
161.DMZとは - 意味の解説|ITトレンドのIT用語集
162.Địa Đạo Vịnh Mốc - Di tích Quốc gia đặc biệt tại Quảng Trị(ヴィンモクトンネル、図91)
163.【ベトナム】クチトンネルとは?|構造や行き方などをご紹介 – skyticket 観光ガイド(図94)
164.Wikiwand - Wikipedia, and beyond
165.ベトナムの枯葉剤被災者扶助制度と被災者の生活──中部クアンチ省における事例調査に基づく一考察──
166.Ho Chi Minh Trail
167.The Ho Chi Minh Trail | Air & Space Forces Magazine(ホーチミン・ルートの工事)
168.Road to the future? The Ho Chi Minh Highway | WWF
169.ベトナム中部クアンチ省における工業団地の販売開始 | 住友商事
170.資料-4 都道府県別面積の順位
171.チュオンソン共同墓地
172.Visiting Truong Son cemetery in July(チュオンソン墓地)
173.Khe Sanh Casualty Count(ケサンの戦い)
174.ケサン基地(タコン空軍基地)  |ベトナムツアー・旅行の専門店 ベトナム王
175.2025年ベトナムのテト休暇(旧正月・春節)はいつ?
176.テト攻勢 — Google Arts & Culture
177.Ta Con Airport: A Heroic Relic in the "Land of Fire" Quang Tri(タ・コン基地)
178.SOUTH VIETNAM: AMERICAN TROOPS MOVE BACK INTO KHE SANH MORE THAN TWO YEARS AFTER THE SIEGE - British Pathé
179.独立宮殿の歴史 - 独立宮殿(日本軍の統一宮殿占領)
180.112_p115.pdf(ゴ・ディン・ジェム大統領)
181.クチ地下トンネル観光ツアー | ベトナム平和教育 | HISホーチミン日帰りツアー予約(図104)
182.ピクシブ百科事典 - みんなでつくる百科事典
183.絶対にかかりたくない。7つの恐るべきブービートラップ|カラパイア
184.オーストロアジア語族(オーストロアジアごぞく)|Historist(ヒストリスト)
185.貉龍君と嫗姫の物語(ベトナム神話)
186.第12回 独立への希望の古城 竹森紘臣|記事・コラム一覧(文朗国)
187.ムオン族ーハノイ歴史研究会
188.フン王の命日、民族文化価値の結集
189.安陽王の出自について : 藤原利一郎・饒宗頤両氏の所論をめぐつて | CiNii Research
190.ベトナム最古の都城コーロア – ベトナム王現地スタッフブログ(図106)
191.銅鐸の謎を探る/野洲市ホームページ
192.6_2_nishimura.pdf(ドンソン遺跡)
193.untitled(紅河平原)
194.WHAIZ1 – ゲアン、ゲアン省での生活について
195.高駢 - 『新唐書』wiki - atwiki(アットウィキ)
196.タイランド湾(シャム湾) - mattoarchive ページ!
197.黎朝 | 世界の歴史まっぷ
198.Thu Bon River - A Complete Travel Guide for Travelers in 2024
199.南蛮貿易と朱印船貿易の違い|近世(安土桃山時代〜江戸時代)|中学生からの勉強質問:社会|進研ゼミ中学講座
200.情妙寺/ホームメイト
201.茶屋新六交趾渡航図巻 | khirin C
202.インターネット特別展 公文書に見る日米交渉(トンキン保護領)
203.Laos(ラオスのフランス領インドシナ連邦併合日)
204.President Ho Chi Minh(ベトナム共産党結成日)
205.ja(インドシナ共産党)
206.Microsoft Word - 4_最終原稿(001-009)(0109)_編集(PDFは4Cと1Cで分ける).docx(仏印進駐)
207.Mặt trận Việt Minh - biểu tượng của khối đại đoàn kết toàn dân tộc(ベトミン結成日)
208.目次(ベトナム独立同盟)
209.8月革命の偉大な価値を新時代に引き継ぐ
210.Vietnamese state structure and law during the anti-French colonalist war (December 1946 - July 1954)(インドシナ戦争開戦日)
211.朝鮮戦争(1950-53年) 写真特集:時事ドットコム(図116)
212.朝鮮戦争休戦70年で北朝鮮の出方は - NHK NEWS おはよう日本 - NHK
213.満州事変
214.昭和12年(1937)7月|盧溝橋事件:日本のあゆみ
215.日中戦争とは?|NHK戦争を伝えるミュージアム 太平洋戦争をわかりやすく|NHK戦争証言アーカイブス
216.重慶市の紹介 – 公益財団法人 広島平和文化センター 国際市民交流課
217.援蒋ルートを簡単にわかりやすく解説 | まなれきドットコム
218.インターネット特別展 公文書に見る日米交渉
219.ジュートとは?素材の特徴から繊維の作り方まで詳しく解説|トートバッグ工房|販促・ノベルティ用のエコバッグ専門店
220.August Revolution and National Day: Glorious historical milestone | Vietnam+ (VietnamPlus)(ハノイでの民衆蜂起)
221.クオン・デ | 歴史人物学習館
222.首相官邸ホームページ
223.レファレンス協同データベース
224.文字と画像で見る | 第16回 ベトナム戦争と世界秩序の変容 | 歴史総合 | 高校講座
225.リンドン・ベインズ・ジョンソンの名言 | Proverb(ことわざ)・格言(名言)|大学受験の予備校・塾 東進
226.1973年のパリ和平協定 ベトナム外交の輝かしい節目
227.■節子への挽歌2913:椎原さんと杉本さん: CWS private
228.カンボジア断想2 ジャーナリストの受難 | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)
229.戦場の同志を追悼/元記者らカンボジアで再会 | 全国ニュース | 四国新聞社
230.戦場を駆けぬけたカメラマン達
231.ベトナム:枯葉剤処理で越米政府間の協力が実現(寺本 実) - アジア経済研究所
232.枯れ葉剤の原料 漏れ出す懸念も 負の遺産をどうする? | NHK | WEB特集 | おはよう日本(図127)
232.ベトナム:変わり始めた、”枯れ葉剤”の影響を受けた子どもたちの人生|日本ユニセフ協会|世界の子どもたち
233.「ダイオキシン」ってどんな物質? - 埼玉県環境科学国際センター
234.化学物質環境実態調査-化学物質エコ調査ってどんな調査?-
235.環境用語集:「生物濃縮」|EICネット
236.The U.S. Military and the Herbicide Program in Vietnam - Veterans and Agent Orange - NCBI Bookshelf(散布された枯葉剤の総量)
237.瀟洒な高原の街:コントゥム市 (tp. Kon Tum) | FUJI教育基金(Quỹ Giáo Dục FUJI)
238.ベトちゃん・ドクちゃん「一緒に」生まれ大手術で分離、「兄の分も生きる」…1988年10月「あれから」<37> : 読売新聞
239.ベトちゃんドクちゃん「グエン・ドク」 プロフィール|講演依頼・講師派遣のシステムブレーン(図128)
240.【館長声明】ベトちゃんが亡くなりました | お知らせ一覧 | 立命館大学 国際平和ミュージアム
241.カマウ岬
242.戦争賛成!の世論を変えたベトナム戦争でジャーナリストが伝えたこと | 世界一周の教科書 セカパカ|バックパッカーの旅・旅行のバイブル(図127(1))
243.少数民族村の奇跡、枯葉剤被害の少年 [特集] - VIETJOベトナムニュース
244.ベトナム戦争は終わらない ~枯れ葉剤後遺症に苦しむ人びと | ヒューライツ大阪(一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター)
245.ベトナム国で枯葉剤汚染土壌の浄化実証に成功 | 企業情報 | 清水建設
246.ベトナム共産党・ラム氏が党書記長代行に、派閥争い激化の懸念も ~チョン氏の動向は党内外の関心事に、混乱対応を理由に締め付けが厳しくなるリスクにも要注意~ | 西濵 徹 | 第一生命経済研究所
247.Khmer Rouge History | Cambodia Tribunal Monitor
248.ポル・ポト政権の大量虐殺で元幹部2人の終身刑確定 カンボジア国民の4分の1が犠牲になった暗黒時代 | ハフポスト NEWS(図131)
249.ポル・ポト死去から25年 カンボジア「最後の地」で模索する和解 | 毎日新聞
250.第6章 カンボジアの紛争 — 「ポル・ポト問題」の一般化に向けての試論 —(カンボジア救国民族統一戦線のカンボジア進攻日)
251.ヘン・サムリン Heng Samrin
252.日本・カンボジア関係略史(カンボジア人民共和国)
253.Victorious Day: The Kingdom marks January 7, 1979 - Khmer Times(図133)
254.February 17, 1979: The Start of the Sino-Vietnamese Border War
255.ソン・サン | For a new world
256.UCDP - Uppsala Conflict Data Program(民主カンプチア連合政府樹立日)
257.ソン・サン | For a new world(図135)
258.After Vietnam Left Cambodia: Two Countries Today - TIME's Annual Journey: 1989 - TIME(カンボジアからのベトナム軍の撤退)
259.Sino-Soviet Rapprochement, 1985-1989 | Wilson Center Digital Archive
260.UNITED NATIONS TRANSITIONAL AUTHORITY IN CAMBODIA (UNTAC) - Background (Summary)(カンボジア和平合意)
261.CHINA AND VIETNAM NORMALIZE RELATIONS - The Washington Post(中国ベトナム間の国交回復)
262.917537_8776949_misc.pdf(ベトナムのASEAN加盟)
263.高骈简介_高骈晚唐诗人、名将_山亭夏日_高崇文之孙_趣历史(図108(1))
264.配給時代の労働者海外派遣と労働者たちの苦難、ソ連での一例 [特集] - VIETJOベトナムニュース
265.Thói quen thời bao cấp(バオカップ、図136)
266.​​​​​​​Một thời tem phiếu - Báo Khánh Hòa điện tử(図137)
267.博覧会資料COLLECTION | 株式会社乃村工藝社 / NOMURA Co.,Ltd.(図138)
268.3年間で200万人を処刑…国民1/3を虐殺した首相・・・ - YouTube
269.文字と画像で見る | 第9回 唐と東アジア | 世界史 | 高校講座
270.バクニン省のティウ寺
271.瀟洒な高原の街:コントゥム市 (tp. Kon Tum) | FUJI教育基金(Quỹ Giáo Dục FUJI)
272.ダクラク省(Dak Lak)の基本情報│ベトナム63省を徹底解説 - VietBiz(ベトビズ)
273.ダクノン省(ベトナム)のおすすめホテル・宿 │ ステイケーションを格安予約
274.ラムドン省農業開発インフラ改善事業(フェーズ1) | ODA見える化サイト
275.ファンシーパン トレッキング 1 日ツアー – インドシナの屋根 | GetYourGuide
276.エデ族の伝統衣装(図146)
277.TRUNG NGUYEN LEGEND’S MILESTONE – Trung Nguyen E-Coffee(チュングエンコーヒー)
278.人気な観光地!?ダラットの教会5選を紹介します! - ベトナム・ダラット観光通信ブログ(図150)
279.Casa Home - Dalat Valley View(ダラット):(最新料金:2024年)(図151)
280.サイゴン ダラット ホテル (Sai Gon - Da Lat) -ダラット-【 2024年の料金・口コミとお客さまの声・宿泊予約 】(図152)
281.Da Lat Palace Golf Club(図153)
282.中国“新地図”が波紋 南シナ海の全域を自国領とする意外な理屈は600年前に遡る?【サンデーモーニング】|TBS NEWS DIG - YouTube
283.Vietnam denounces China’s occupation of islands in 1974 – Radio Free Asia(西沙諸島の戦い)
284.PVN(ベトナムの石油)
285.::.......CCOP EPF......::(ベトソペトロ)
286.Trang Chủ | VSP(図157)
287.バクホー油田 [ばくほーゆでん]|JOGMEC石油・天然ガス資源情報ウェブサイト
288._pdf(ランドン油田)
289._pdf(メコン川)
290.Mekong_Delta_01.pdf
291.日本一広い平野はどこ? トップ3とあわせて 日本の地形の特徴もおさえよう【親子で学ぶ日本地理】 | HugKum(はぐくむ)
292.Mekong Delta rice farming to become a leading sector in agricultural production | Vietnam+ (VietnamPlus)(メコンデルタでの米の生産量)
293.Farmers ambivalent over Vietnam’s low-carbon rice programme | Dialogue Earth(図162)
294.熱帯モンスーン気候(Am)とは!? 特徴を簡単に覚える方法! | 受験地理B短期マスター塾
295.メコンデルタの歴史と魅力。肥沃な湿地帯に多くのベトナム人が住む訳。 | ベトナム旅行とベトナム情報・アンコールワット旅行とアンコールワット情報(図163)
296.【ベトナム】ホーチミンで水上マーケット観光!行き方や見学方法を解説 | タビスパ(図164)
297.Mekong River Delta - Viet Nam - Area Database - Global Data Lab
298.ベンチェ省水管理事業 | ODA見える化サイト
299.【2024年】カマウの人気観光スポット・旅行ガイド・グルメ情報満載 | Trip.com
300.カントー市について | Sancoh Vietnam
301.カントー市(Can Tho)の基本情報│ベトナム63省を徹底解説 - VietBiz(ベトビズ)
302.【カントー水上マーケットのカイランで朝食を(前編)】三上ナミのベトナム乱歩vol.44 - YouTube
303.Chùa Phật Học Cần Thơ - Ngôi chùa nổi tiếng bậc nhất Tây Đô(図167)
304.Cầu Cần Thơ: Chính thức khánh thành và thông xe(カントー橋建設日)
305.Microsoft PowerPoint - 斜張橋の話.pptx
306.ダナンについて - Feel VietnamFeel Vietnam
307.ダナン駅(図170)
308.Du lịch bán đảo Sơn Trà: 9+ trải nghiệm thú vị không thể bỏ qua(ソンチャ半島)
309.ダナン経済・投資環境│ダナン不動産(図171)
310.【ゆっくり解説】アメリカが唯一敗北した地獄の戦場|ベトナム戦争 - YouTube
311.Hội thảo khoa học về vai trò Đặc khu ủy Quảng Đà trong cách mạng(ダナンとクアンナムの合併)
312.Nghị quyết chia và điều chỉnh địa giới hành chính tỉnh(ダナンとクアンナムの分離)
313.Microsoft PowerPoint - 【セット版】(別紙:適正会議資料)東西・南部経済回廊(カンボジア高速)(図172)
314.Jasmine Rice Recipe | Dainty(図176)
315.Rapid growth of selected Asian economies. Lessons and implications for agriculture and food security: Republic of Korea, Thailand and Viet Nam(ベトナムの農業変換)
316.Bac Huong Rice for Sale From Vietnam Rice Broker, Supplier & Exporter(図178)
317.Thai Binh _ NHAT(タイビン省)
318.Cách Làm Món Phở cuốn của bichha - Cookpad(フォー・クオン)
319.マムトム(mắm tôm)を知ってますか? | MINAツーリスト ベトナム ニャチャン
320.【2020年】Xôi ソイおすすめ2選!ベトナム最強のおやつ!?ベトナム風おこわのソイ #ベトナム料理 #ローカルフード100選 #ハノイ | Vetter | ベトナム在住日本人向けメディア
321.【楽天市場】フーコック ニュクマム 200ml:成城石井酒販 楽天市場店(図181)
322.ベトナム料理に欠かせない調味料「ヌクマム」とは? | TRIPPING!
323.ナムプラー - スパイス library - 朝岡スパイス
324.しょっつるとは|諸井醸造|しょっつる・醤油・味噌・漬物製造
325.170917_Haccola_JP.pdf(マム・カー)
326.魚の瓶詰め MAM CA LINH - VIỆT NHẬT QUÁN - ベトナムの美味しい調味料など格安販売(図182)
327.ビーチが綺麗なフーコック | Vietnam Tourism
328.ベトナムの調味料 フーコック島の「ヌクマム」ってなに? | 海外転職・アジア生活BLOG
329.カインチュア
330.お茶の名産地!タイグエンを訪ねました【前編】 | Vetter | ベトナム在住日本人向けメディア(図186)
331.お茶の名産地!タイグエンを訪ねました② | ゼロから学べるアイザワ投資大学(図188) 
332.ハス茶とは(図189)
333.VOL.44 Chè tươi ベトナムの生茶 | P4 ベトナムレストラン ピーフォー(図190)
334.CHE DANG Hořký čaj 100g - jasmino.cz(チャー・ダン)
335.Bán Chè Đắng Cao Bằng Cánh Nhỏ Gói 500g Và Hướng Dẫn Pha(図191)
336.【楽天市場】ベトナム漆 ベトナム漆工芸品 漆器 漆小物入れ アジアン雑貨 ギフト プレゼント 贈り物 インテリア インテリア小物 送料無料:アルテモンド 楽天市場店(図192)
337.Vietnam University of Fine Arts – TM(O)P(図193)
338.Expo 1937 Paris(パリ国際博覧会)
339.Vietnam Spun bamboo vase-Cat Dang handicraft Co.,ltd - YouTube
340.ドラゴンフルーツってどんな味? 食べ方や切り方、スーパーフードとも言われる栄養価について解説|マイナビ農業
341.苗 ドラゴンフルーツ 赤の人気商品・通販・価格比較 - 価格.com(図197)
342.【ミルクフルーツ】日本では珍しい南国フルーツ!!食べ方や味について! | 全国津々浦々
343.ミルクフルーツ / Vú sữa - VIETJO 日刊ベトナムニュース(図199)
344.「汽水域」とは?生息する主な魚や知っておきたい重要な役割|Honda釣り倶楽部|Honda公式サイト
345.世界のさまざまなマングローブ - YouTube
346.Chân dung Nhà giáo tiêu biểu: GS.TSKH.NGND PHAN NGUYÊN HỒNG: NGƯỜI TIÊN PHONG VÀ HẾT MÌNH VỚI HỆ SINH THÁI RỪNG NGẬP MẶN - Tin tức & Sự kiện - Trường Đại Học Sư Phạm Hà Nội
347.『カンザー地区のマングローブ林』ホーチミン(ベトナム)の旅行記・ブログ by こえださん【フォートラベル】(図203)
348.バイン・ダウ・サイン - Walking Vietnam - ウォーキングベトナム -
349.ハイズオン生活レポートNo.1 of 大阪ベトナム友好協会
350.緑豆ケーキ ゴールデン・ドラゴン 300gの通販・個人輸入代行販売商品 - vietnam porter(図206)
351.Bánh đậu xanh Nguyên Hương 320g (date mới) - Khác | VinMart.co(図207)
352.ベトナムの正月「テト」ってなに?2024年のテト休暇はいつ? - たびハピ
353.北では四角、南では丸い?~北部と南部のテトの違い~ - VIETJO 日刊ベトナムニュース(図208)
354.テトとは?ベトナムの旧正月について解説 - CMC Japan
355.旧正月(テト)のお年玉(Li Xi)について - ホーチミン転職・就職 クイックベトナム
356.Microsoft Word - JICAベトナム2019年労働法20220214.docx
357.フン王の命日祭 伝説発祥の地フート省で開催 | ベトナムスケッチ
358.917537_8776966_misc.pdf(ベトナムの労働法制定日)
359.Giỗ Tổ Hùng Vương - Mạch nguồn đoàn kết | VTV24 - YouTube
360.ホーチミン主席の思想・道徳・ライフスタイル  ベトナムの貴重な財産
361.President Ho Chi Minh presented a speech at the 30th anniversary of the Communist Party of Vietnam (February 3rd, 1930 – February 3rd, 1960) on January 5th, 1960, in Hanoi. | Ho Chi Minh(図212)
362.ベトナムで抗仏戦勝70年の記念式典 ディエンビエンフーの戦い - YouTube
363.huongxuan.thuathienhue.gov.vn/?gd=1&cn=28&tc=25303(図213)
364.首都解放の日~ベトナムの10月10日~ - VIETJO 日刊ベトナムニュース
365.2024年ベトナム月餅(Banh Trung Thu)の人気ブランド18選 | Danang de 観光 | ダナンスタイル || ダナンが好き Danang.Style
366.中秋節~ベトナムの旧暦8月15日~ - VIETJO 日刊ベトナムニュース(図215)
367.今年も火炎樹が綺麗です!!! | ミライの部屋
368.ベトナム・ホイアン 満月のランタン祭り - YouTube
369.000110979.pdf(図217、ベトナム憲法第4条)
370.Đại hội đại biểu toàn quốc lần thứ VIII của Đảng – Spirit Vietnam Airlines(図218)
371.【社会】第15期国会議員選挙の投票率は全国平均で99.16% | ベトナムニュース
372.Xユーザーのサーシカさん: 「ソ連のピオネール、中国の中国少年先鋒隊、北朝鮮の朝鮮少年団、ベトナムのホーチミン少年ピオネール隊はみんな挨拶の仕方が共通しているのは興味深いですね。 https://t.co/OPAZEIODee」 / X
373.ベトナム・ホーチミン共産青年団第一書記が来党 | 青年局ニュース | 自由民主党 青年局
374.odakamai.wordpress.com/2008/12/30/ベトナム共産党 党員証-thẻ-dảng-vien-dảng-cộng-sản-vn-cu-va-mới/(図220、リンクは開けない)
375.The Sixth National Party Congress in 12/1986 | Embassy of the Socialist Republic of Vietnam in the United States(第6回全国党大会開催日)
376.Halong Bay was honored as a World Natural Heritage by UNESCO three times.(ハロン湾の世界遺産登録日)
377.ベトナムで13年ぶりに新指導者 警察組織出身、「汚職撲滅」を指揮:朝日新聞デジタル
378.在ベトナム日本国大使館<営業時間・行き方・持ち物・できること> | 暮らすアジア(図223)
379.日越パートナーシップ_H1-4_英語版.indd(日本からベトナムへのODA)
380.ベトナム航空 日本就航30周年記念!11月1日(金)、3日(日)に30%割引キャンペーンを実施 | ベトナム航空 日本支社のプレスリリース
381.最新版統計|技能実習生の受け入れ人数推移・国別割合は?人数枠についても解説 | 外国人採用サポネット | マイナビグローバル(図224)
382.ホーチミンの中田商店「ヤンシン市場」|在住歴20年が話したい本当のタイと見てきたこととうまい話と

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