人の「絆」は人の「記憶」とは無関係に構築されるのか?映画「マジェスティック」 フランク・ダラボン
あらすじは、事故で記憶を亡くした映画脚本家がとある田舎町に漂着し、その町の人々に戦争の英雄ルークと間違われ、記憶が戻らないままにその町の映画館再建に手を貸し、ルークの恋人アデルとの仲を深めていく。
記憶が戻ったピーター(ルーク)は、自身がルークではないことに大変なショックを受けるが、その町の住人も同じようにショックを受ける。
ただ、この映画の肝は残念ながら人の記憶と絆にフォーカスをあてておらず、どちらかといえばマッカーシズム(ソ連冷戦時代のアメリカにおける共産党狩り:映画や言論、文学において共産主義のレッテルを貼られたものは強く糾弾された)が背景にあり、記憶が戻ったピーター(ルーク)や恋人アデルの精神的ショックの描写はかなり少なくなっている。
この記事ではどちらかといえばマッカーシズムよりも人の記憶と絆の方にフォーカスを当てたいと思う。
まず、記憶を失くした人と、どこまで親しくできるか。
この映画では、記憶をなくしたルークを、何の疑いもなく受け入れる。
ただ医師でもあるアデルの父だけは戦後9年半にものぼるルークの記憶とルークが持っていたであろう人生について心配しているが、残念ながらそれを心配している唯一の人物であり、他の町民は何の疑いもなくルークをルークとして受け入れている。(映画の脚本上、正体を疑う描写を入れすぎるとノイズになり得るため仕方がないのかもしれないが)
後にわかることだが、恋人のアデルや、エメットはルークがルークではないことに気づいていたことがわかる。おそらくアデルは身体を重ねた際に気づいたこともあるだろう、顔が同じでも身体的特徴がすべて一致しているとは限らない。極端に短小とかだとあれ?やっぱ違うよなとなることもある。エメットについてはピアノの演奏の仕方で気づいたようだ。しかし彼らも違うとはわかっても、接し方を変えず、ルークはルークのまま接しようとしている。
映画として、ここにはそもそもルークという若者が、町の希望であったという事実で説明を片付けている風を感じる。
ルークという若者が、危険を顧みずに9人もの兵士を助けたこと、この町の若者には戦争に出征して死亡してしまった者が多くいること、そしてその傷がまだ癒えていないこと、さらにルークは戦後行方不明であったこと。こういった背景から、この町の人々はルークの正体を疑うことはせず、この町に活気もたらす希望として、方向性を示すものとしてルークをLuke(灯台)として扱ったことがわかる。
ただ、人を人たらしめるものとして、やはり「記憶」というのは重要な要素になりうると思う。姿形が同じだけでなく、同一人物であったとしても「記憶」のない人というのはやはり別人と感じてしまうものなのではないか、そう考えると父ハリーの喜びようにはどうしても違和感を感じてしまう。
記憶が戻らずとも、9年半の間に別の人生があったとしても、息子が帰ってきた喜びに浸りつづける父ハリーの姿には多少なりともエゴを感じずにはえない。
アデルもそうだ。きっと違うとわかっていたのに、そうであってほしいと信じこんだ。この時点で(ピーターの本来の人生を顧みない)確信犯だったわけだが、残念ながら父ハリーにしても恋人アデルにしても、かけがえのないルークを失ったショックがあまりにも大きい(他の人に比べて)というので無理やり説明がついてしまう。
しかしこの映画のもっとも腑に落ちない点はここからだ。
捜査官たちが街に訪れ、ピーター(ルーク)が、ルークではないとわかった途端、町の人たちはルークがルークではなかったことにがっかりし、これまで築きあげた絆がなかったことのようにピーターを虐める仕草をする。
もしかしたらピーターが意図的に記憶がないことを演じ、この町の人たちを騙していたという噂がたちまち流れたのかもしれないが、ラストのエンディングでは手のひらを返したようにマッカーシズムに異を唱えて凱旋したピーターをピーターとして歓迎する。
そんなことで崩れたり、手のひら返して歓迎してしまうほどの「絆」だったんだろうか。個人的には「記憶」を持たない「絆」というのはかなり強固だと感じる。
それは「腐れ縁」による「絆」の対極にあると感じるからだ。
個人的にそいいう点で、ちぐはぐな映画と感じたが、マッカーシズムに異を唱える議会のシーンはジムキャリーの演技も力強く非常に圧巻で感動した。
「記憶」と「絆」ここにもう少しフォーカスがあたった映画であれば見応えを感じたのだけど、おそらくこの映画では「記憶」と「絆」はスパイスであり、メインの味付けは「マッカーシズム」であったんだろうと思う。