予定外の帰国
アメリカに来ると決めた時は長女が高校を卒業するまで、つまり6年間いるつもりでした。そうすれば長女についてはその後のことは彼女自身が考えればいいし、次女は中学を卒業する時なのでそれから先はその時考えよう。私もその頃は大学院にでも行って心理学を極めて日本でもそれなりに活躍できるだろう、ぐらいに本当に能天気に考えていました。しかしこの考えには一番大切な経済的な展望が決定的に欠けていました。
滞米2年目が終わる頃、私は2ヶ月おきぐらいに受けていた TOEFL のスコアが希望する州立大学の要求(当時のスコアで580)に届いたのでその大学の3年生に編入することにし、審査の結果OKが出ていました。つまり9月から晴れて州立大学の3年の心理学科に行けるようになっていたのです。お金については?州立大学はコミュニティカレッジの数倍の授業料です。娘たちは義務教育内なので無料とはいえ、3人の生活費も要ります。
本当に悩みました。せっかく本格的に専門の勉強ができる時になったのです。今までは助走でした。でも今しかないと帰国を決めました。今というのは1990年の6月です。私は成績優秀者に与えられるHONORのタッセル(紐)をつけて卒業式に出ました。娘たちもそれぞれ学年を終えて次の学年に行く時でした。
一方日本では1学期が終わる時期。日本に帰れば長女は中3、次女は小6でした。今帰れば、次女はいいとして長女は受験戦争の真っ只中に放り込まれることになります。浪人するという考えは全くありませんでした。そもそも浪人期間中どうするの?我が家はなぜか塾に行く考えも全くなし。ちょっとでも日本の勉強に追いつく時間が多い方がいいというので急遽帰国することになりました。
もう一つ帰国を決めた理由があります。経済的な問題の原因は日本にいる夫の仕事が思ったより大変で、一緒に設計事務所を始めたパートナーとの関係もうまくいかなくなっていたのです。その頃私たち家族をよく知る友人から「あなたのだんなさんの心がやせてきているよ」と言う手紙が届きました。
夫は強がりなのか「あと半年は大丈夫だよ」と言ってくれたのですがいつまでも甘えていられません。半年帰国を遅らせると長女は12月の終わりから3月までに受験勉強を終えなければなりません。いくら日本の勉強も並行してやっていたとはいえ、教科書を読んで理解するだけの準備で日本で2年間一生懸命やってきた生徒たちに並べるわけがありません。
それに確かにとても心地よい毎日で充実感もあったのですが、お金を使うだけの毎日に物足りなさを感じていました。アメリカでは働けないので仕方なかったし、限られた仕送りをうまく使うことも面白かったのですが、娘達は父親が働く姿を見ていませんので彼女達がお金がどこかから飛んでくるとも思って欲しくなかったのです。
東京で大学を卒業してしばらく働いた後、夫と共通のふるさとにUターンしてから私は市役所の臨時職員を半年ほどして、子どもを産んだのでそれからは専業主婦でした。長女が小学校に入る時に自宅で英語を教え始めたので少しずつでしたが収入あったのですが人の収入に全面的に頼るというのが性に合いませんでした。もちろん2年間仕送りを続けてくれた夫への負い目もありました。
アメリカに行く前からわたしは「○○ちゃんのお母さん」とか「誰々さんの奥さん」という呼ばれ方でなく自分だけのフルネームで生きたいと思っていました。そういう意味では結婚してついた夫の苗字でもなく自分だけのファーストネームで生きられるアメリカでの生活はとても心地よかったです。でもそのためには経済的な自立も必要だとわかっていました。経済的なこと、夫の大変さ、いつかは帰らなければならない現実を考えるとやはり今しかないのです。
アメリカでは家具は備え付けやレンタルでしたが、最低限の本棚などは購入しました。何しろ6年いる予定でしたので。それを友人たちにもらってもらい(今のように個人で中古品を気軽に売れる時代じゃなかったので)車は同居していたFさんに安くで譲り、仲良くなった友人と涙、涙の別れをして帰国の途につきました。