帰国後と現在(後編)
私達家族のその後ですが、長女は高校での3年間は高校受験のための猛勉強のせいで燃え尽き症候群に陥ってしまい、またいじめも経験し、大学入試を避けて中国に逃げるという選択をしました。中国で東洋医学を学びたいという理由をつけて。たまたま日本に留学している中国瀋陽の医科大学の先生を紹介してもらい、高校卒業と同時に中国瀋陽の語学学校に行きました。そして半年後の9月から医科大に入りました。その大学はかつて日本が占領していた地域にあるので授業を中国語、日本語、英語で受けられました。
中国語はまだ無理だし、外国で日本語で受けるというのも嫌だったので英語で受けましたが、思わぬ落とし穴がありました。先生の中国訛りの英語の発音についていけなかったのです。その上東洋医学を学ぼうとして行ったのですが、最初はやはり西洋医学の知識が必要でした。すぐに東洋医学の勉強をしたかったのにできません。また入っている外国人向けの男女混合の寮にはアフリカやアジアなどの経済状態が似通っている国から優秀な国費留学生が来ていました。彼らからのあらゆる宗教の勧誘もありました。さらに中国で医学部を卒業してもそのまま日本で医者としては働けず、昔の軍医だった人たちが受ける特別な国家試験を受けなければなりません。それがとても難しいこともわかってきました。
当時中国の大学の学費は外国人向けは年間33万円ほどでした。お金の価値がどの程度なのかよくわからないまま月の仕送りを1万5,000円していました。ところがこの金額は中国の大学教授のお給料と同じくらいだったのです。長女はストレス解消のために音楽テープを買いあさったり、食べ物を贅沢したりして半年で20キロぐらい太ってしまいました。
そんな様子を知り私は「帰国しないか」と提案しました。長女は「いいの?帰ってもいいの?」と言いました。自分から日本のシステムから逃げるように行ったのに帰りたいと言えずにいたようです。そして図らずもちょうどアメリカから帰った3年後の同じ7月に帰国しました。空港に迎えに行った時は太りすぎていたので長女がわかりませんでした。
その後また宅浪の受験勉強が始まりました。翌年の1月に1年前に避けたセンター試験を受けて国立の医学部を受けましたが不合格。その3月、入学時に専攻を決める必要のないということで、私がその8年前に行ったのと同じシアトルのコミュニティカレッジに入学しました。そして2年後4年制の州立大学の理系の心理学科に行くことにしました。
4年制の大学に申し込んだ時はなかなか審査の結果が来ないのでダメだったと思い、私はフランスなら授業料がタダなのでそちらに行くように勧めました。そしたら長女はきっぱりと「今まで全て中途半端できたから今度はきちんと終わらせたい」と言いました。そして大学に直接問い合わせに行ってアドバイザーと話し、無事入学。その2年後無事卒業しました。
アメリカの大学を卒業してからはボストンで開催されたキャリアフォーラムで見つけた日本の外資系の会社に入りました。キャリアフォーラムというのはアメリカのいくつかの地域で行われている就職紹介イベントで、アメリカの学校を卒業した日本人の学生を日本にある企業に紹介するためのリクルート事業です。
長女が決めた会社はアメリカのシリコンバレーに本社がある横浜の会社で、そこでは良い人たちに恵まれ、「石の上にも三年」の諺を守って4年目になった時グリーンカードの抽選に応募して当選、さっさと再渡米、日系の会社に就職し、それから数年ごとに会社を変え、今は10社目の会社で仕事をしています。いつも自分に会社を合わせるような選択の結果です。そしてそれぞれの会社で友人を作って友達の輪を広げています。
次女はというと、高校卒業後、私と長女が行ったコミュニティカレッジに2年行った後、帰国中に自分のやりたかったことがファッション関係だと自覚して、東京の親友の家に寄宿させてもらって日本のファッション事情を見たり、フランスの妹の所にいてパリの事情を見て、結局イタリアのファションスクールに行くことに決めました。そこで4年間学び、卒業後はインターンに行ったバッグの会社にそのまま雇われて20年になります。
二人が大学卒業の後どうするかという時に私が守ってほしいと伝えたことがあります。それは「24歳までは親が面倒を見る。それまでに大学を卒業できるかどうかは自分次第。卒業したら3ヶ月後までに就職が決まらなければ日本に帰国すること」ということです。二人ともそれは守ってくれました。日本で就職活動をしたわけじゃないので日本の就活事情に縛られることがなかったのがよかったと思います。
長女と次女はアメリカとイタリアで全く違う生き方をしていますが、2人とも一度は結婚したものの、自立心が強すぎて結婚生活はうまくいかず、最近は2人とも一人暮らしをしながら、時差8時間のアメリカとイタリアでよく話をして仲良くやっているようです。
私はというと、自宅での英語クラスに通ってくれた子供達が全て卒業した頃、通訳をしている友人が公民館講座の代行を頼んでくれたり、彼女の夫の経営する語学学校の講師を頼んでくれたりして15年過ぎました。そして今年度で私の英語講師生活を終えることにしました。40数年思いもかけない仕事人生でしたが、要求されるままにやってきた結果です。やりたいことをやった結果じゃないですが面白い人生でした。
親娘3人のアメリカ留学を支えてくれた夫は次女がイタリアにいる間夫とその友人たちは2回イタリア旅行をして案内をしてもらったり、長女の結婚式に参加したり、一緒にクリスマスをラスベガスで過ごしたりして、それなりに娘たちの留学経験の成果を感じてくれたと思います。そのように彼女らの成長を楽しみながらもお酒はやめられず約8年前に転んで頭を強く打ち、9ヶ月入院した後に亡くなりました。
倒れる数週間前には長女の大学院の卒業式に出席するためアメリカに行き、そこに来ていた次女とも会い、とても楽しい時間を過ごしたようです。夫自身が娘たちに期待した形になったかはわかりませんが、最後にいい思い出ができてよかったんじゃないかと思います。
長々と私たちの個人的な話にお付き合いありがとうございました。(完)