帰国後と現在(前編)
1990年の6月末、ようやくアメリカの2年間の生活を終え、日本の自宅に帰りました。夫の2年間の独り暮らしで家は散らかり放題だったようですが私の実家の両親と妹が3日かけて掃除をしてくれてこざっぱりとしていました。アメリカのアパートも大して広い部屋ではなかったのですが、日本の自宅をすごく狭いと感じたのを覚えています。
帰国後の現実は思ったより厳しいものでした。長女の入るべき学校は中3の1学期末試験の真っ最中。夫が私たちに仕送りするために工面した借金が200万余り、夫はちょっとうつ状態でした。この2年間の経験をどう活かしてお返しをするか、何もわからないまま、でも全く心配していない自分に驚いていました。帰国してすぐに夫の心を癒すために熱帯魚を飼い始めました。
さし当たって娘達を学校に入れなければなりません。長女は地元の公立中学の3年に、次女はかつて在籍していた小学校の6年に入りました。長女は中学に入ったことがなかったので友人がお下がりの制服と学校指定の肩に斜めに掛けるベージュの帆布でできた虚無僧(こむそう)バッグをもらっておいてくれました。
長女の中学校では3年の1学期の期末試験の最中でした。早速、逃れたつもりだった日本の受験戦争に巻き込まれることになります。アメリカにいた2年間、夏休みなどに日本の教科書を自主的に勉強していましたが、まだ期末試験を受けるほどのレベルではありません。せっかく劣等感を克服してきたのに、たった一つの試験でまた劣等感を植え付ける必要はないと思ったのでこの試験は受けさせず期末試験が終わった次の日から学校に通い始めました。当時は個人で海外に行ったので帰国子女枠は使えず、これから同級生と一緒に高校入試を受けなければなりません。
中3の夏休み前というと高校受験のために部活も終え、受験勉強にいよいよエンジンを掛ける時です。担任の先生は学年主任の男性の先生でした。夏休み前のPTAでたまたま受験期の事もあり塾の話をしてくださいました。先生は「今このクラス45人のうち40人が塾に通っています。でも成績が上がるのはそのうちの5人です。その子たちは学校の勉強、塾の勉強、学校の宿題、塾の宿題もしっかりやる子達です。」と言われました。
我が家は塾にはやらない方針でしたが、思いもかけない事態にやはり塾の助けを借りなければいけないのかと思い始めているところでした。長女にどうしたいか聞くと、学校と同じようなやり方で教える塾に基本ができていない自分がついていけるわけがないから自分でやってみると言います。私たちも納得して娘の言うとおりにしました。
それからは毎日学校から帰って2時間、夕食が終って4時間と必死に勉強しました。アメリカでも毎日4時間ぐらいは勉強していたのであまり苦労ではなかったようですが、緊迫感が全然違いました。どちらの勉強法がいいのか一概には言えませんが、これらの経験で勉強は自分でやるしかないという覚悟はついたと思います。しかし一方で学校ではちょっとしたいじめにもあったりしてアメリカが恋しくて半年くらい毎晩泣いていたそうです。私は最近知りました(苦笑)
英語の勉強はほとんど必要なかったのですが一番苦労したのが社会でした。自分でまとめのノートを作って覚えやすいようにするつもりがノート作りに熱が入り、きれいにまとめられたことに満足して、後は覚えるだけの状態のまま時間切れで受験期になってしまいました。模擬試験も一回も受けず、いわゆる滑り止めといわれる学校も受験しないといいます。
ちょうどその頃4年前に新設された中高一貫校の高等部が外部生を初めて受け入れるようになるという情報が入りました。そこは3教科(英数国)で受験できるというので試しに受けることにしました。もう一つは、社会と理科を加えて5教科で受験するその地域で進学校といわれる公立の高校です。アメリカでついた変なプライドが抜けきらなかったのか、滑り止めは受けませんでした。
結果は公立は落ちましたが、出来たての中高一貫の私立の高等部に合格しました。長女の日本の中学レベルの学力が大いに不足している状態で、進学重視の中高一貫校の高等部に入ったので特に数学は遅れていて、その後もテストも散々でした。しかし、高1の夏休みのある日、名前のない暑中見舞いはがきが届きました。それには「君のような生徒に出会えてしあわせだった」とありました。後でわかったのですが、差出人は高校の数学の先生でした。長女の成績は200点満点で20点ぐらいしか取れていなかったのですが、のちにその先生から聞いたところによると解き方の発想が面白かったので励ましのつもりで書いたと言われました。
次女は帰国当時小学校6年の1学期末だったので、特に問題もなくその後中学に進学しました。
私はというと帰国後すぐに英語教室を再開しましたが、娘たちを塾に行かせないのに自分では塾のようなことをやっているんじゃないかと矛盾を抱えながら、アメリカで経験した方法を伝え、英語の楽しさをわかってもらうためにゲームなども取り入れてとにかく「英語を嫌いにならせない」をモットーに続けました。おかげでほとんどの生徒たちは高校を卒業するまで通ってくれ、その数はのべ800人ほどになりました。卒業後に人生相談に来る子もいました。
その間希望の生徒たち10人ぐらいと合計4回3、4週間のヨーロッパ研修旅行をしました。今思うとテロの心配もない頃だったからできたことでした。自分の経験から違う環境、価値観を知ってもらいたかったのです。ヨーロッパなら列車で移動できるし、英語が母国語の国はイギリスだけです。他は第2言語として英語が使われている国もたくさんあります。私たちと同じ条件です。参加した子たちは言葉はできなくても世界でどうにか生きていけると自信を持ってくれたようです。
帰国時に200万あった借金についてですが、それに加えて会社を始めた時に出資をお願いした人たちに返済する必要が出てきました。合計すると800万ぐらいです。それを会社の代表者保険などに入っていたのを途中解約したりして2年余りで返済しました。夫の月の収入は上がってないし、私の英語教室での収入もたかが知れているのにどうして毎日の生活をしながら年収以上のお金が返せたのか全く不思議です。
後編に続きます。