【俳句】取り合わせの妙味
※本稿は先日読了した月刊誌、角川俳句令和四年五月号の特集『取り合わせの距離感』を、私なりに上書き、紹介する記事である。
俳句の大半は、「季語」と「何か」で構成される。たとえば、飯田蛇笏氏の句”苔咲いて雨ふる山井澄みにけり”であれば、「苔咲いて」と「雨ふる山井」だ。雨の日、山の井戸周辺に苔の花が咲いている景色である。作者は可憐な苔の花と澄んだ井戸水(もしくは湧き水)の様子に感動したのだろう。苔が咲いたことでいつもの景色が変わった驚きである。
このように、季語と何かの組み合わせを一般的に「取り合わせ」と呼ぶ。ただし、俳論によって異なる呼び方もあるためご参考程度に。
次の句はそれぞれ何と何の取り合わせだろうか。
季語「夕顔」に「人力車」を取り合わせた。夕顔の咲く路地を人力車が駆け抜ける。もしくは、路地を抜ける先に夕顔がひろがっているのかもしれない。いずれにしても、夕日に包まれた市井を駆け抜ける人力車と、路傍の夕顔の組み合わせが魅力的だ。
季語「夏座敷」に「声若し」を取り合わせた。夏の座敷に若者らの論語素読の声が響く。夏座敷をぬける風と若い声は爽やかに響きあう。両者の良い塩梅が、若者らの謹厳実直さをも感じさせる。
季語「かたつむり」に「五重塔」を取り合わせた。下五の「べし」は、強い意志の表れだろう。小さなかたつむりと巨大な五重塔。かたつむりよ、五重塔を登ってみせてくれ!と作者は応援する。人を含む生類すべてを鼓舞するような勢いを感じる。
季語「鮎」に「手の甲」を取り合わせた。「手の甲」と書いたが、「渓流」「川」「水」も含む。水中の鮎をつかんだところ、自身の手の甲が水のうすみどり色を強調させたわけである。鮎と渓流と自己が一体化したような感覚なのだろう。鮎と川は”近い”存在だが、人の手の甲を介したことで両者の絶妙な距離感を生み出した。
以上、取り合わせは、俳句によくある形だと思っていただけたと思う。
取り合わせは、俳句の可能性を大きく広げる。なぜなら、世の中にある万物それぞれの組み合わせは膨大だからだ。それは、類句・類想問題の心配ばかりで俳句を楽しめないことへの一助になるだろう。類句・類想問題とは、五七五の十七音しかない俳句にとっての宿命であり、どうしても似たような句が生まれてしまうという課題である。
しかし、「季語が動く」ことへはどのように向き合ったらいいだろうか。季語が動くとは、取り合わせの二語が、異なる言葉に差し替えられても成立してしまうことである。たとえば、揚句の”夕顔や路地を抜けゆく人力車”の「夕顔」が異なる植物「朝顔」ではいかがだろうか。(ちなみに、朝顔はヒルガオ科、いっぽう、夕顔はウリ科で大きな瓜をつける植物だ)
”朝顔や路地を抜けゆく人力車”
朝から颯爽とゆく人力車だ。夕顔のときの西日に照らされる情趣とは異なり、これもまた良いではないか。朝顔の花も、夕顔の花どちらも、人力車との組み合わせでよさそうだ。
しかし、一般的には、季語が動くことはよくないのだ。果たして、本当にそうなのか。
ひとつの指針となる評論を以下に引用する。
私は大いに納得したから、本稿を執筆しようと思った次第である。「季語」と「何か」の距離感がよろしければ、季語が動いても構わない!と要約できる。これは、作句に励む人にとって金言になりはしないだろうか。俳句をこれからはじめようとする方々にも、その敷居が少しは低くなるのではないか。
また、「季語」と「何か」の距離感についてはあまり述べてこなかった。詳しくは別の機会にと思う。今回はたいへん参考になる文章を引用して終わりとしたい。
以上、俳句の取り合わせについて少しでもご共感いただけたら幸いである。また、例題で星野椿さんの句を勝手にひねり回してしまった点はお許し願いたい。