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【小説】使い道を知らなくて

 いかに仲むつまじい夫婦でも、生まれ育った環境が違うのだから、意見がたびたび対立するのは当然のことだ。例えば子育てに関して――
 実家が自営業の咲良さくらは、子供が小学校低学年のうちから、小遣いを与えてお金の管理を覚えさせるべきだと考える。
 一方で、母親がなにかと過干渉かかんしょうだった僕は、中学にあがるまでお年玉も回収されていたから、まだ小学三年になったばかりの奏哉そうやには、必要な物を買い与えればいいと考える。

「親の言うことばかり素直に聞いてると、なにも自分で決められない大人になっちゃう。りゅーくんを見てればよく分かるよ。優柔不断で」
「そんなりゅーくんを愛してるくせにさ。咲良は素直じゃないね」
「素直じゃなくて結構。りゅーくんみたいにね、迷ってる隙をつかれて騙されないの。こないだもなにあれ。ここでしか買えないって言われて騙されてきて。あんなもの、ネットで大量に安く売ってるの」

 そして、すったもんだの末に、“お駄賃だちん” という落としどころに行きついた。定期的な小遣いではなく、お手伝いをしてもらったら、それに応じて少しばかりのお金をあげる仕組みだ。
 受け入れざるを得ず、利点もあるだろうが、幼いうちに稼ぐことを覚えてしまうと、いわゆる算盤勘定そろばんかんじょうをしがちになり、打算的な考え方を助長してしまうのではないか。
 奏哉には、何事も貨幣価値に置き換えるような大人になってほしくない。損得に左右される生き方は、ふんだんにお金を持っていても、実に貧しいと思う。
 後ろめたいのは、家事を咲良任せにしていることだ。あまり手伝ってもらわない方がいい、と言おうものなら、じゃありゅーくんがやりなさいよ、などと怒られてしまう。

 四月初旬にお駄賃制度が始まると、奏哉が早起きをするようになった。そして、洗濯物を干したり、食事の後片づけをしたり、朝の七時頃からせっせと動き回った。表情も、「おはよう」の挨拶も、心なしか明るくなった。夕方は、一人でお使いに行くこともあるようだ。
 僕としては、微笑ましくもあり、手放しで褒められない気持ちもあり、どう声をかけたら良いのか分からなかった。元から、お手伝いを嫌がらずにする子だが、お駄賃ありきのお手伝いは、やはり違うと思った。大人が働くことと同様に、報酬は後からついてくるものだ。

 とはいえ、奏哉のやる気に水を差してはいけない。お駄賃制度を維持しつつ、真っ当な心構えについて、どう教えようか考えた。

 そんな或る日、いつもより仕事終わりが遅くなった。
 マンションのエレベーターを降り、夜の十時頃に帰宅すると、上下水色のパジャマを着た奏哉が「おかえりー」と玄関に顔を出した。
「お、まだ起きてたのかー。どうしたの?」
「お父さんを待ってたんだよ」
「ほほー。さては、なにかお願い事があるんだな?」
「うん、そうだよ」
「なになに?」
 お手伝いを強請ねだられるかと思ったが、奏哉はもじもじして笑うだけで、すぐに答えなかった。
 奏哉の背中を軽く押しながら部屋の中に入ると、湯上がりの咲良が鏡の前でスキンケアをしていた。彼女は、僕が騙されやすいと言うが、顔に塗りたくるその奇妙な液体こそ、おしゃれなボトルと広告によって、半ば騙されてはいないだろうか。
「ただいま」
「おかえりー。そーちゃんの話、聞いた?」
「ああ、今からだよ。な?」
 そう言って視線を落とすと、奏哉はこくりと頷いた。
「あのね、今度のゴールデンウィークに、たっくんがお父さんと別荘に行くんだけど、僕も一緒に行っていい?」
「別荘?」
 すると、咲良が口を挟んだ。
蓼科たてしなに別荘があるんだってさ。いいよねー」
「たっくんのお父さんの車で行くの。だから危なくないよ。五月のさんよん、二回泊まるだけだから、いいでしょ?」
「たっくんのお父さんは、なんて言ってるの?」
「僕が行かないと困るみたい。楽しくないって」
「そうかー。たしかに奏哉がいたら楽しいよな。じゃあ、お母さんと相談しておくよ。大事なことだからね」
 咲良に駄目と言われたのか、奏哉は不安そうにうつむいた。
「今日はもう遅いから、寝よう。続きの話は、また明日」

 奏哉を寝かしつけた後、たっくんのご家族について、詳しいことを咲良に聞いた。
 お父さんは、建築のデザイナーとやらで、平日も家にいるようだ。学校帰りに奏哉が遊びに行くと、たっくんの親友として、あれこれ面倒を見てくれるようだ。
「ほら、顎髭あごひげのある、体が大きくて、熊さんみたいなパパ」
 そう言われて思い出したのは、大らかな印象の、どこか浮世離れしたお父さんだ。学校の運動会で一度だけ会ったことがある。
 一方で、お母さんの記憶がない。きっと、あの運動会に来ていなかった。家を留守にしがちのようで、なんと大学病院に勤める医者とのことだ。
「看護師じゃなくて?」
「先生なの。でもね、腰が低くて、とってもいい人」
 子供は、うちと同じで一人のようだ。お母さんが忙しいのか、ゴールデンウィークに蓼科の別荘へ行くのは、お父さんとたっくん、そして――
「僕は、いいと思うよ」
 肯定した瞬間、咲良の目つきが変わった。
「またそうやっていい加減な。なにかあったらどうするの?」
「なにかって、そんなこと言ったら、奏哉をどこにも出せないよ」
「りゅーくんってさ、お小遣いだとか、細かいことは管理したがるくせに、命に関わるようなことをほったらかすよね」
「多少の冒険は、必要だよ。男の子だし」
「そーちゃんが死んじゃっても、誰も責任取れないよね?  たっくんのお父さんも、いい人だけどさ、考えが甘いよ。もしものことがあって、お金で解決できる問題じゃないから」
「まあ、そうだけど」
 言葉に詰まった後、じゃあ、咲良が一緒に行ってあげたら?――と言いそうになったが、軽はずみにそれを言ってはいけない。大喧嘩おおげんかになる。先方は、お父さんが行くのだから。

 翌日の昼過ぎ、会社の屋上おくじょうにあがり、携帯電話からたっくんの家に電話をかけた。心地よく晴れた空の下、ゆったりとした喋り方のお父さんと繋がった。
 語り合うのは初めてだったが、言葉の端々から子供をなにより大切にする気持ちが伝わってきて、人見知りの奏哉がなついていることに納得した。この人になら、奏哉を数日任せられるように感じたが、咲良の言う “もしものこと” があった場合、任せた僕がもちろん悪い。他の誰かを決してうらんではいけない。
 誰も責任取れないよね?――
 苦渋の決断だが、咲良の意見を聞き入れるべきだと思った。丁重にお断りすると、軽率けいそつな誘いだったなどとして、逆に謝られた。 

 そのことを奏哉に伝えたのは、早めに帰宅した夜の七時半頃だ。
 奏哉は、僕の話を物分かりよく聞いてくれた。少しだけ悲しそうな顔をして、僕が謝ると、首を横に振った。
「大丈夫。おばあちゃん家に行くから。泊まってきていいでしょ?」
「そりゃあいいよ」
 ちらりと視線を向けた先、咲良が深く頷いた。
「泊まっておいで」
「やった」
 そして、家族三人で食事をした。
 奏哉と二人で風呂に入った。
 湯上がりにストレッチをして、思わず「ああ」と声が漏れると、漫画本を静かに読んでいた奏哉がくすくすと笑い、目が合った。
「お父さん、いつも大変だね」
「おお、ありがとな」
「なにか、手伝うことある?」
「そうだなー」
 奏哉は、駄々だだをこねなかったが、本心はさぞかし辛いだろう。そんな状況で、僕を気遣ってくれた。純粋な優しさを疑うべきではない。
「肩を揉んでもらえるかな?」
「うん、いいよ」
 奏哉は、お駄賃の交渉などせず、僕の肩を一生懸命に揉んだり、叩いたりしてくれた。足のマッサージもしてくれた。
 およそ十五分くらいだったか。途中、目頭が熱くなった。
 お礼を言って百円を渡すと、奏哉は一瞬戸惑うような顔をしてから、「ありがとう」と笑った。貰うつもりはなかったのかもしれないし、逆に少ないと思ったのかもしれないが、まず僕のために動いてくれたことが、なにより嬉しかった。

 次の夜も、奏哉と一緒に風呂に入った。湯船の中で、めずらしく仕事のことを聞かれた。
「急に忙しくなったのは、なんでなの?」
「三月いっぱいで、辞めちゃった人がいるんだよね」
「新しい人は来ないの?」
「今ね、探してるところなんだよ」
「ふーん」
 実は、探してなどいない。傾きかけた会社は、人員を削減しなければならないからだ。
「ごめんな。ゴールデンウィークに、どこも連れてってあげられなくて」
「そんなの、しょうがないよ。だって、お父さんが頑張ってるのは、僕のためなんだもん。それくらい、知ってるよ」
 そのように言い聞かせてきたのは、咲良に他ならない。深い感謝と情けない気持ちが、揺れ動くお湯の中の、胸の奥で混ざり合った。
「奏哉は偉いなー。お父さんより凄いぞ」
 会社が立て直しても、真面目に働き続けても、別荘など到底とうてい買うことは出来ない。休みすら、ままならないのが現状だ。時間に追われ、せせこましく生きている僕は、奏哉にとって、いいお父さんであるはずがない。
 それでも――
 奏哉は、湯上りにまたマッサージをしてくれた。どんなプロの技よりも、効果があるように感じた。
 お駄賃を渡すと、奏哉は手にした一枚の百円玉をじっと見た。いかにも不思議そうに。
「お父さんは、仕事で一日にいくら貰うの?」
 日割りで考えたことがない。子供ならではの質問だと思った。
「一万、五千円くらいかな」
「え! そんなに貰うの?」
「奏哉からしたら、びっくりだよな。でも、お金がほしいだけじゃないよ。まず世の中の役に立ちたいから、仕事をするんだ」
「ふーん」
「生活には、色々とお金がかかるんだけど、貰ったお金を全部使っちゃうわけじゃないんだ。これからも奏哉が、どんどん大きくなるんだから、取っておかないとな。奏哉も無駄遣いしちゃ駄目だぞ」
「うん、分かった」

 その後も、早めに帰宅した日は、男同士で風呂に入り、出たら丁寧にマッサージをしてもらった。奏哉は、いつも百円のお駄賃を淡々と受け取るようになり、必ずお礼を言ったが、不平を言うことはなかった。

 ゴールデンウィークは、僕だけが咲良の実家に行かなかった。
 二泊三日の二度の夜は、パソコンのオンラインで家族が顔を合わせた。奏哉は、あちらでもお手伝いに活躍していると聞き、お駄賃が弾んでいるに違いなかった。
 咲良の母親は、子育てにあまり手をかけられなかった若い頃の反動か、孫のことをやたらと可愛がっている。

 三日ぶりに直接会った奏哉は、鼻孔びこうを膨らませ、楽しかった思い出をとめどなく喋った。言いたいことが多すぎるようで、話の順序はぐちゃぐちゃだったが、余計な指摘をしなかった。
 なにか買ってもらったのか尋ねると、えへへと照れくさそうに笑い、自分の引き出しの中から、大人っぽい財布を出してきて、三つ折りのそれを開いて見せた。
「おお、かっこいい」
「おばあちゃんと一緒に選んだの」
「お駄賃を財布に入れて使えるね」
「うん、色んなカードも入るんだよ」
「いいねー」
 稼ぐことを覚えた奏哉は、どんな買い物をするのだろう。咲良の母親は、立派な財布に加え、不適切な金額を渡してはいないか。
 あまり詮索せんさくすると、お金を管理させる利点を奪いかねない。渡す側のことも、信頼する他にないが、過干渉だった自分の母親に似ているのか、胸の内にわだかまりがあった。

 奏哉の早起きは、連休明けも続いた。夜もお手伝いをしていることがあった。まめまめしい姿は、板についてきて、きちんと咲良の助けになっているようだった。
 僕は、仕事がますます忙しくなり、遅く帰宅する日が増えていった。たまの休みは、どこかへ出かける気にならず、体力の回復に費やした。奏哉のほどこしてくれるマッサージが、至高の癒しになった。

 五月下旬の或る休みの日、うたた寝から目を覚ますと、白いレースのカーテンがそよ風に揺れていた。
 咲良の気配はなかったが、奏哉が隣の部屋にいて、テーブルに五十円玉と百円玉をそれぞれ幾列も積みあげていた。
「おお、貯まったねー」
 振り向いた奏哉は、得意げに笑った。
「だって、あんまり使ってないもん」
「なんで使わないの?」
「使うよ。まだ足りないだけ」
「それなら、なにか高いものを買うんだね」
 奏哉は、躊躇ためらいがちに首を横に振った。
「買わないの?」
「買うは、違う」
「なにが違うの?」
「うんとね、内緒ないしょ
 奏哉は、目を爛々らんらんと輝かせ、その内緒の時を楽しみにしているようだった。

 きっと、素敵なことに違いない。
 夜を待ち、奏哉が寝ついた後、スキンケアをしている咲良にそれとなく尋ねてみた。
「今日さ、奏哉が貰ったお駄賃を数えてたよ。ずいぶんめてるんだね」
 咲良は、鏡越しに僕を見た。
「いくら貯めようとしてるか、聞いた?」
「いんや」
「一万五千円だって」
「そりゃ凄い。小学三年生には大金だよ。なにに使うんだろうなー」
 咲良は、座ったままくるりと振り返った。
「心当たりないの?」
「え? ないよ」
「りゅーくんさ、自分のお給料が、一日に一万五千円ってそーちゃんに言わなかった?」
「お? 言った、かもな」
「だからね――」
 咲良は、言いかかったことを口に出さず、おどけた顔でため息をついた。
「だからなに?」
「言わなくても、分かるでしょ?」
「分かんないよ」
「じゃあ、楽しみに待って。どんな一万五千円よりも、重みがあるから。ずっしりとね」
 奏哉の “想い” は、たしかに重い。
 僕は、素直に頷いた。あえて聞き出そうとしなかった。不安に思うことは微塵みじんもない。奏哉は、出来すぎるほど健全に成長している。
 
 

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