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【小説】炭酸よりも君が好き

 久しぶりに晴れて、西の空が夕焼け色に輝き、東から刻々こくこくと迫る夕闇の、群青色との境界線が曖昧あいまいだった。そのグラデーションを背景に浮かぶ雲は、ピンクと紫が溶け合うように、色彩豊かに染まっていた。

 高校一年生の風間かざまは、バドミントンの部活を終えて、バス停に向かう途中だった。大通りから外れた道で、左手に赤い鳥居の小さな神社があり、風間の前方を背の高い女子学生が歩いていた。彼女は、自販機の前でふいに立ち止まり、白いブラウスの肩に下げた鞄の中をまさぐった。風間には、ショートカットの後ろ姿しか見えなかったが、その子はバレー部の同級生――吉崎よしざきだと分かっていた。
 いつも二人は、同じバスに乗って帰路につく。入学してから三か月近くが経ち、制服はかろやかな夏仕様に変わった。互いに顔と名前を知っているのに、きちんと言葉を交わしたことはない。
 自販機の前でもたつく吉崎は、はっと振り返り、清潔な頬を赤らめた。そして、何も買わずにそそくさと、大通りのバス停の方へ立ち去った。
 風間は、少し考えたあと、自販機でサイダーとスポーツドリンクを一本ずつ買った。

 吉崎は、屋根のあるバス停のベンチに座り、片耳にイヤフォンを入れていた。次のバスが来るのは二十分ほど先で、他にバスを待っている人はいなかった。
 バス停の隅に立った風間は、行き交う車を眺めながら、横目で吉崎の様子をうかがった。彼女は、踊る前髪に幾度も触れた。心地よい夕風が吹いていた。
 しばらく、沈黙が続き――
「あのさ、もしよかったら、好きな方を」
 風間は、勇気を出して声をかけ、二本の冷たいペットボトルを差し出した。
「えっと……え?」
「どっちがいい?」
「なんか、ごめん」
 吉崎は、照れ臭そうにうつむいた。
「いや、さっきジュースを買ったら、当たりが出ちゃってびっくりで。二本も飲めないし、一本あげるよ」
 吉崎は、一瞬だけ目を合わせた。
「ありがとう。じゃあ、炭酸じゃない方が、いいかな」
 風間は、スポーツドリンクを手渡すと、一人分の席を空けて彼女の隣に座った。そして、ペットボトルのキャップを開けてぐいっと一飲み、サイダーで喉をうるおした。
「はあ、うまい」
 続いて吉崎も、スポーツドリンクを一口飲んで、ふっと息を吐いた。
「風間くんは、いつもこのくらいの時間から、バスを待ってるの?」
「大体、もっと遅いよ。十分前くらいに来る。吉崎さんは、いつもギリギリだよね」
「そう、ギリギリ」
 二人は、打ち解けたように笑い合った。
「今日は、なんで早かったの?」
「部員同士で、ちょっとした喧嘩けんかになって」
「ああ、見たかも」
「体育館で一緒だったもんね。それで、いつもは部活終わりに話をするのが楽しみなんだけど、今日は皆と一緒にいづらくて、早々そうそうに解散、って感じかな」
 風間は、「色々と大変だね」と気持ちをんで、会話を繋げようとしたが、気の良さそうなお婆さんが、手にオレンジ色の雨傘を持ち、腰を曲げてやって来た。
「どっこいしょ。すみませんねぇ」
 若い二人は、小さく頭を下げた。そして、路地裏から歩いて来る数人の男子学生の姿を視界にとらえた。

 翌日の金曜も、梅雨の中休みが続いた。風間の所属するバドミントン部は、放課後に屋外での練習だった。夕暮れになると、あかねさす光がまぶしかった。
 風間は、着替えた体に制汗スプレーを撒き、前日と似たような時間に学校を出た。神社の横を通り過ぎ、後ろをぱっと振り返ったあと、当たりの出る自販機の前で止まりかけた。バス停に向かう道を歩いている学生は、まだ他にいなかった。
 真っ先に着いた風間は、ベンチに一旦座ったあと、落ち着かない様子で立ち上がり、来た道を気にかけながら、バス停の横にある自販機で二本の飲み物を買った。ベンチに座り直すと、それを二本とも鞄のかげに隠した。
 バスよりも先に、待っていたのは――

 生憎あいにく、別の女子学生の方が早かった。風間は、隠してあったコーラを開けて飲み、もう片方をタオルにくるんで鞄の中にしまった。
 ほどなくして、吉崎が姿を見せた。バスが来るのは、まだ十分ほど先だった。風間と目が合うと、二人は微かに会釈えしゃくを交わした。

 週末の土日は、断続的な雨だった。激しく降る時間帯もあったが、学校の体育館で行われる部活動は、ゆずり合うスケジュールになっていて、どこと入れ替わっても、それぞれ活気にあふれていた。外のフェンス越しに見える道端の紫陽花あじさいは、青い花を咲かせていた。
 風間と吉崎は、互いの部活動の時間がすれ違い、顔を合わせることはなかった。

 週明けの月曜は、曇り空だった。
 夕刻に、雨がぽつぽつと降り始めて、部活終わりの風間は、爽やかな香りをまとい、傘をさして帰路についた。女子バレー部も、自分たちとほぼ同じ時間に終わったことを知っていた。
 噂によると、顧問の先生同士が付き合っている。故に、どちらも十八時を目処めどに片付けるようだ。
 早々はやばやとバス停に着いた風間は、先客のいない屋根の下で傘を畳んだ。その日は、やけに手荷物が多かった。道中に濡れた自販機を見やり、何も買わなかった。
 次にやって来たのは――

 頭上にすっと立てた赤い傘が、遠くでも目立った。視線をそらす風間は、近づいて来る彼女が目前もくぜんになってから、いかにも気づいたふりをした。
「お疲れ」
 吉崎は、少し間をおいて、「お疲れ様」と答えると、ぎこちなく笑った。左手で傘を持ち、右手をスカートの後ろに回していた。
「ごめん。ちょっと持ってくれるかな?」
 風間に差し出したのは、二本のペットボトルだった。キャップの根本を器用に指ではさみ、片手でぶら下げていた。女子にしてはたくましく、大きな手だ。
「お、大丈夫?」
 うなずいた吉崎は、閉じた傘のしずくを控えめに払い、少し離れて風間の隣に座った。
「それ、どっちかあげる。私も当たったの」
「え、凄い」
「私たち、ついてるよね」
「うん、奇跡的」
 そして、風間が黄色いラベルの檸檬レモンソーダを選ぶと、吉崎はくすりと笑った。
「え?」
「ごめん。やっぱりそっちだな、って思ったから」
 風間は、恥ずかしそうに笑った。もう片方の飲み物は、ルイボスティーだった。

 翌日も、そのまた翌日も、二人は暮色ぼしょくの迫るバス停でたわいもない話をした。バスが来る二十分以上前から、他の誰かが来るまでの、短い時間だった。飲み物は、道中にそれぞれ一本ずつ買った。滅多めったに出ない当たりは、やはり出なかった。
 毎度、風間が炭酸を選ぶ一方で、吉崎はお茶系の飲み物を買った。

 二人の座る距離が縮まらないまま――
 本格的な夏を迎え、夏休みに突入すると、二人が顔を合わせる機会はめっきり減った。

 そんなる日の午後、風間が部活に出ると、女子バレー部は休みだった。バドミントンの顧問も来なかったので、参加した部員は、例の噂で盛り上がり、面倒な練習をはぶいて楽しんだ。
 大きな大会が終わり、三年生が引退したばかりで、部内はなごやかな雰囲気だった。

 やがて、薄曇りの、まだ日の高いうちに解散となった。
 油照あぶらでりの中を体育着のまま帰ろうとした風間は、校門の脇に停まっていた白いワンボックスカーの運転席から、下の名前で呼び止められた。声の主は、幼馴染おさななじみの母親だった。
「バスで帰るの?」
「はい、そうです」
「じゃあ、乗ってきなよ」
 風間がまごまごと遠慮していると、制服を着崩した派手な女子学生が後ろから駆け寄り、彼の尻に膝蹴ひざげりを入れた。一つ年上の幼馴染だ。
「あっつい。早く乗れ」
 ほど近い場所にいた女子バスケ部の数人は、風間が半ば強引に乗せられる様子を目撃した。

 風間が次に学校へ行ったのは、三日後の午前九時前だった。最高気温が四十度近くまで上がるとの予報だったので、その日の部活は、午前中に限るよう通達されていた。
 体育館には、女子バレー部も集まった。一年生ながら主力級の吉崎は、軽快な動きで参加していた。

 気温が刻々と上がり、正午の制限時間を前に、運動部はどこも片付けを始めた。
 風間は、部員同士の食事に誘われたが、引き上げる女子バレー部の様子を横目に見て、「悪い。今日は家で用意しててさ」と、それらしい理由で断った。そして、さっぱりと着替えて、トイレの鏡で短い髪を微調整すると、容赦ようしゃない光が降り注ぐ道を歩き出した。
 校門の辺りに停まっている車は、一台もなかった。

 風間は、バスが来るまでの間、いつもより長い時間を待った。したたる汗をタオルでぬぐい、口の中でしゅわっと弾けるサイダーを飲んだ。途中、バス停のかたわらに伸びる木陰こかげに立ち、ふいに遠方を見やると、山のに入道雲が立ち登り、空は青白く燃えていた。
 結局、吉崎が来るよりも先に、バスが来た。

 二日後も、風間は午前中の部活で汗をかいた。
 体育館の天井から垂れ下がる緑色のネットは、男女混合で練習するバレー部との、仕切りになっていたが、網目あみめが大きいので、互いの様子はよく見えた。吉崎が強烈なスパイクを打つ際、飛び跳ねる体は弓なりにしなった。

「今日も帰んなきゃいけないんだけど、次は飯に行こうぜ」
 風間は、誘われる前にそう言った。次に部活のある日は、女子バレー部が休みだと調べてあった。
「今日は俺も駄目だめだから、いいね、そうしよう」
「明後日?」
「だな。俺はいつでもいいよ」
 仲のいい三人は、嫌な顔をしなかった。

 身なりを整えた風間は、できるだけ日陰を渡りながら、ゆったりした足取りでバス停に向かった。ふいに見た赤い鳥居の先は、参道の両脇に並ぶ木立こだちが広々と木陰を描いていた。
 そして、学校の方へ振り返ると、遠くの路面が微かな陽炎かげろうに揺れた。風間の目には幻のように、制服姿の女子学生が立ち現れた。健康的な体つきの、すらりと手足の長い彼女は、前方を見えて歩く吉崎だった。
 風間が小さく手をあげると、吉崎はよそよそしく頭を下げて、後ろに誰もいないことをちらりと確認した。
「お疲れ」
「お疲れ様」
「この暑さ、尋常じんじょうじゃないね」
「うん、暑すぎる」
 横に並んで歩き出した二人は、道沿いの自販機の前に差しかかった。
「何か飲むでしょ?」
「えっと……今日は、いいかな」
 言いよどむ吉崎は、俯き加減になった。
「調子悪いの?」
「ううん、そうじゃないけど……風間くんは、買いなよ」
 風間は、二本分の小銭をポケットの中に用意していた。一本分を自販機にさっと入れて、檸檬ソーダの光るボタンを押すと、電子ルーレットの四つの数字がぴたりとすべてそろった。
「嘘?」
「当たりだね」
 見交わした二人の顔は、ぱっと明るくなった。
「どれがいい? 早く押さないと」
 風間は、当たりにじょうじて誘った。
「じゃあ、風間くんと同じやつ」
「え? 炭酸だよ?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
 風間は、もう一度ボタンを押して、がたんと音がした商品の取り出し口から、二本の同じペットボトルを取り出した。
「はい」
 両手で受け取った吉崎は、微笑みとため息を同時に漏らした。
「ん?」
「ごめんね。本当にありがとう」
 そして、吉崎がバス停の方へ歩きかけると、風間は「あのさ」と呼び止めた。
「次のバスまで二十分ぐらいあるし、あそこの神社に行こうよ。日陰になってて、ちょっと涼しそう」
 吉崎は、人気ひとけのない神社の方を一瞥いちべつして、こくりと頷いた。

 参道の静けさに、蝉の声が届いた。二人は、どちらともなく足を止め、大きな木陰の下でりょうを取った。
 ぷしゅ――と音がして、ほぼ同時にペットボトルのキャップを開けた。風間がぐい、ぐいっと、力強く飲んだ一方で、吉崎は上品に口を付けただけだった。
「やっぱ、炭酸は苦手?」
「ううん、好き。本当は大好だけど」
 そう言った吉崎は、胸を片手で押さえて「出そうになるから」と小声で付け加えた。
「え、いいじゃん。出たって」
 風間がさらっと笑い飛ばすと、吉崎の顔は微かに曇った。
「そっか。出たっていいよね。私なんか、関係ないもん」
「え?」
 吉崎は、喉を鳴らすほどの豪快な飲みっぷりを披露して――
 ぎゅっとまぶたを閉じたあと、炭酸のからさにえかねたのか、涙を流した。喉元で手をばたつかせ、口から出そうになるものを懸命に抑えた。
 風間は、ふふっと笑い、「かわいいね」と呟くように言った。聞き取った吉崎は、うるんだ目を鳥居のある出入り口の方へ向けた。
「一緒にいるとこ、誰かに見られるよ」
なの?」
「私は、……別に」
「俺も気にしてない」
「どうして?」
 そう訊いた吉崎は、きりっと唇を結んだ。風間は、一瞬呆然ぼうぜんとした。
「あんなに奇麗きれいな、彼女がいるのに」
「誰のこと?」
「水泳部の先輩、蓮見はすみさん。すごく有名な人だから、噂になってるよ」
「なんでそうなったか分かんないけど、あの人は、ただの幼馴染」
「本当に?」
「だって俺、他に好きな人がいるし」
 二人の、互いにまっすぐな視線は、溶け合うように重なった。


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