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【小説】二梅 -FUTAUME-

 思春期を迎えた女の子は、まるで白梅しらうめのようだ。同い年でも幼げな、まだつぼみのままの男の子に先駆け、ちょっぴり生意気な花を可憐かれんに咲かせる。ふとした仕草から、“女” がほのかに匂い立つと、私のような父親は、どきっとさせられ、どことなく不安になる。

 或る晩、髪をまとめた万葉かずはが、台所でお手伝いをしながら、千里ちさとに何かをねだっていた。二階から降りてきた私は、隣接する居間で文庫本を開き、耳をそばだてた。
 どうやら万葉は、お洒落なチョコレートを作りたいようだ。渋る千里は、大雑把おおざっぱな性格を自認して、独身の頃から正確な計量が肝になるお菓子作りに消極的だ。
「どうせ上手く出来ないから」
「いいの。気持ちが大事なの」
 ふと気づいたのは、バレンタインデーが来週に迫っていることだ。万葉は、手作りチョコを誰かに贈りたいのだろう。古い考えかもしれないが、手作りは “本命” の証だ。
 引き下がらない万葉に、千里が折れたようだ。

 一体、どんな子に贈るのだろう。見当もつかない。聞き出そうとすれば、パパは黙ってて、などと切り捨てられてしまうが、ほんのつい最近まで、なんでもあっけらかんと話してくれた。
 込み上げてくる寂しさと懐かしさが混ざり合い――
 その名残なごりを男一人の寝室まで引きずった。なかなか寝付けなかった。廊下を挟んだ隣の部屋は、だんだん遠ざかっているように感じた。
 枕元で思い返したのは、私自身の初恋だ。小学五年生だったから、今の万葉より一つ年上の十歳だ。
 菅原百子すがわらももこ――
 数字が名前にあるのは、偶然でしかない。


 菅原百子は、同じクラスの休みがちな女の子だった。習字がとても上手で、勉強も出来たが、体と心のどちらか、或いはどちらも、ちょっとした問題を抱えていたように思う。線が細く、ひそやかな声が印象的だった。

 たしか十月の終わりの、百子が三日連続で休んだ日、いい子で評判だった私は、担任の若い女の先生に頼まれごとをした。
「これを百子ちゃんに届けてくれないかな?」
 封筒に入った宿題のプリントを届ける役割だ。私は、百子の家を知っていた。登校班は、別のグループに振り分けられていたが、互いの家は、歩いて五分もかからないご近所さんだった。
 いい子らしく引き受けた後、足取りが重かったのは、人見知りのせいだ。百子とは、仲がいいわけではなかった。家を訪ねたことはなく、友達の家で以前お爺さんに怒鳴られた時のように、怖い人が出てくるのではないかと不安だった。木枯こがらしの吹く中、挨拶に始まる自己紹介をぶつぶつと練習しながら向かった。
 お爺さんかお婆さんが出てきそうな、古い面構つらがまえの家だったが、呼び鈴を鳴らすと、女の人の甲高かんだかい声が返ってきた。
 中から扉を開けたのは、百子のお母さんだった。とてもお母さんに見えず、ショートカットの髪が若々しかった。表情が明るく、生き生きとしていた。
 練習通りに、訪ねてきた目的まで伝えると、思いがけないことを言われた。
「寒かったでしょ。温かいお茶を飲んでって。すぐにれるから」
 招かれるまま、ためらいがちに上がり、靴を揃えた。エプロン姿の後ろに続き、畳の部屋の炬燵こたつに座るようにうながされた。ランドセルを脇に置き、きちんと正座をして、膝頭ひざがしらを炬燵布団の中に入れた。
 一人で待っている数分間、そわそわと落ち着かなかった。部屋の中は、片付いている中にも生活感があり、寂しげな自分の家とは違う雰囲気だった。
「おまたせー。こんなものになっちゃうけど」
 驚いたのは、急須きゅうすに入ったお茶だけでなく、数種類のお菓子が運ばれてきたことだ。甘いものも、しょっぱいものも、決して高級なものではないが、当時の私にとって、これ以上ない “もてなし” だった。
「食べて、いいんですか?」
「もちろん。せっかく来てくれたんだもの。ごめんね。百子は寝ているの」
 正直、百子のことはどうでも良かった。目の前のお菓子を全部食べてしまいたかった。
「あら、足を伸ばして。気を使わなくていいから」
 足を崩して炬燵に深く入った。つけてもらったテレビを見て、湯呑ゆのみについでもらったお茶を飲み、しょっぱいお菓子から食べ始めた。遠慮が徐々にしぼんでいった。
「もしかして、お腹がすいているのかな?」
 その問いかけに、顔を赤らめた。
「ちょっと待ってて」
 しばらくすると――
 卵と玉ねぎのチャーハンを作ってきてくれた。子供ながらに心を打たれたのは、首から家の鍵をぶら下げていることと、無縁ではなかった。

 次の日、百子は、朝から学校にいた。いつもより元気そうだった。
 照れ臭そうに歩み寄ってきたのは、午後の休み時間で、「昨日はありがとう」と、控え目にお礼を言われた。恐らく、悪い奴らに詮索せんさくされないように、私の周りに誰もいない時を狙ったのだろう。
 私も、先生に頼まれたことを他人に口外しなかった。一方で、先生には、「次も僕が行きますよ」などと伝え、いい子っぷりを発揮した。

 そして、百子が二日連続で休むと、私から先生に申し出た。
「お、偉い。助け合いが大事だよね」
 感激した先生は、算数のプリントにメッセージを書き入れ、折りたたんだその一枚だけを私に託した。わざわざ届ける必要は、なかったに違いない。私の “優しさ” を思いやってくれた。
 かくも意地汚いじきたない子供だったが――
「また来てくれたのね」
 百子のお母さんは、顔を見るなり手放しで喜んだ。プリントを受け取ると、家の中にこころよく招き入れてくれた。
 ちゃっかり居座り、最高に美味しいオムライスを炬燵で食べていると、百子がうつむき加減に現れた。寝ていたような格好ではなく、長い髪にカチューシャをつけ、大人っぽいデニムのジャケットを着ていた。
「どうして、私に届けてくれるの?」
「裕子先生に、頼まれたから」
「・・・そうなんだね。ありがとう」
 彼女は、ちょっぴり悲しそうな顔をした。友達になってほしそうだった。私は、今後もこの家を訪れるための、ずるがしこい嘘を思いついた。
「それに、菅原のことが心配だったから」
 心にもない言葉を発して、ちくりと胸が傷んだ時、ぱっと花が咲いたような、笑顔が返ってきた。

 百子と仲良くなったのは、その一言がきっかけだった。彼女が登校した日も、友達として家に招かれ、家の中では “百子ちゃん” と呼んだ。同じような友達は、他にいなかったと思う。
 私なりに気を遣い、女の子向けのアニメに興味を示した。自分の家で持ち出せそうなお菓子を見つけると、それをお土産にした。一緒にトランプをしたり、テレビゲームをしたり、時には勉強を教え合った。
 いつも変わらず、料理やお菓子で歓待かんたいしてくれるお母さんは、気さくに話しかけてきた。ゲームに加わることもあった。百子は、やはり娘だから、それを嫌がっている様子だったが、母性に飢えた私は、全く嫌ではなかった。むしろ、三人で遊んだ方が楽しかった。大人しい百子より、明朗快活なお母さんの方が漠然と好きだった。理想のお母さんだと感じた。

 一方で、百子の気持ちには、全く気づかなかった。仲良くなってからの凡そ三ヶ月間、百子を “異性” として意識できなかったのは、ひとえに私の心が幼かったからだ。

 あの年のバレンタインデーは、雪がちらついた。また明日ね、と約束した前の日に続き、百子の家にお邪魔すると、パンの中にクラムチャウダーの入った料理をご馳走ちそうになった。
 帰り際の玄関で、見送る百子は、何か言いたそうだった。お母さんは、めずらしく家の奥にいた。
「明日も来ていいかな?」
「・・・うん、いいよ」
「じゃあ、明日は桃鉄ももてつをしよう。・・・バイバイ」
 そう言って、扉を開ける前に軽く手を挙げたが、百子は、後ろ手のままだった。
 雪は、積もっていなかった。
 傘を開き、住宅街の小道こみちをのろのろと歩いていると、背後から濡れた地面を走ってくる音が聞こえた。
「え! どうしたの?」
 百子は、傘をさしていなかった。私と目が合うと、視線を手元に落とした。リボンのついた小さな紙袋を持っていた。
「ごめん、濡れちゃった。でも、あげる」
「なにこれ?」
「チョコ。私が作ったの」
 百子は、すぐに長い髪をひるがえした。私のお礼、或いは “答え” を待たず、雪が舞い散る中をけ戻った。
 私は、しばらく呆然とした。後を追わなかった。百子の気持ちを考えながら歩き、右へ曲がるべき四つ角をぼんやりと直進して――
 再び立ち止まったのは、道沿いの知らない家の前だった。庭木の枝に、白い小さな花が寄り合うように咲いていた。当時、桜と見紛みまがった五弁の花は、どことなく百子に似ていると思った。

 その日の晩、百子の気持ちをようやく理解した。途端に意識したのは、女という異性だ。
 私自身も、恋をしていることに気づいた。百子ではなく、彼女のお母さんに。理想のお母さんを超え、理想の女性として “好き” になっていた。漠然とした気持ちではなかった。
 そして、もう遊びに行ってはいけないと思った。貰った手作りのチョコレートは、その日のうちに、泣きながら食べつくした。


 あれから、凡そ三十年が経った今、百子は幸せだろうか――
 風の便りを聞かないのは、私が滅多に帰郷ききょうしないせいだが、百子は、遠く離れた場所で暮らしているとしても、あの素敵なお母さんの元へ、度々帰っているのではないか。もしかすると、心身共に健康になり、世話好きで人当たりのいいお母さんに成長しているかもしれない。

 私は、全く異なるタイプの女性――千里ちさとと結婚した。百子のお母さんに似ているのは、ショートカットの髪型くらいか。料理はかろうじて作るが、外に出る仕事を好み、とても家庭的ではない。酒が入ると、やたら陽気になるせいで、飲み歩いて夜中に帰ってくることが年に数回ある。
 なぜ、心底れ込んだのか聞かれても、理屈では説明できない。かっこよく言えば、大人になった私は、理想より現実を愛する。記憶の中の美化した理想像より、駄目なところも沢山知っている千里の方が愛おしい。
 ただ、万葉かずはには、寂しい思いをさせてしまっている。学校帰りに、お母さんが家にいることは殆どない。“鍵っ子” が当たり前の時代に変わりつつあるが、娘に私と同じ経験をさせたくなかった。
 だからこそ、出来るだけ側にいてあげたいと思う。趣味のツーリングを控え、私なりに精一杯つとめてきたが、やはりお母さんの方がいいのだろう。特に女の子は、その傾向が強いのかもしれない。最近の私は、露骨に鬱陶うっとうしがられている。

 バレンタインデーの前日、昼過ぎから降った雪がうっすらと積もった。
 早めに帰宅すると、家の中はめずらしく賑やかで、千里と万葉がエプロンをつけて台所に立っていた。隣り合う居間は、チョコレートの甘い香りが満ちていた。
「ただいま」
「おかえりー」
 ぴったり重なった声が返ってきたが、友達のような雰囲気の二人は、話の続きに花を咲かせた。お父さんが立ち入る隙はなさそうだった。
「先に、風呂に入ってくるよ」
「あ、ごめん。これが終わったらご飯にするから」
「うん、ゆっくりでいいよ」
 千里と言葉を交わしている間に、まとめ髪の万葉は、前かがみになった。ひたむきな視線を手元にそそいだ。

 翌朝は、淡青たんせいに晴れた。屋根に残った雪は、溶けて雨だれになった。
 寝室でネクタイを締めていると、ダッフルコートを着た万葉が姿見に映り込み、開け放した扉の入り口で立ち止まっていた。
「今日は、足元に気をつけるんだぞ」
「パパも気をつけて。誰かにチョコを貰っても、変な気を起こさないでね」
「変な気? ないない」
 大人びた一言を笑い飛ばすと、万葉が近寄ってきた。
「でも、一つも貰えなかったら可哀想かわいそうだから・・・はい」
 長方形の箱が、上品に包装されていた。
「おっ、パパにくれるのか?」
「失敗作だけどね」
 にこっと白い歯を見せた万葉が、部屋を出ていった後――
 嬉し涙をこらえ、丁寧に包み紙を開いた。箱の中に収められた八つの丸いチョコレートは、“本命” としか思えないほど、ぬくもりのある出来映えだった。

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