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【俳句】弟の句をよむ 令和七年冬

 本稿は、弟の句をご紹介するシリーズ物の第三段である。続けてご覧いただく方が多くいらっしゃることは、兄弟共々何よりの励みであり、読者諸賢に心より感謝申し上げる。

 第一段は昨年春、第二段は同年秋――
 そして、今回は冬である。選び出した句は、冬の情景を写実的に切り取っている。あれこれ妄想しがちな筆者は、相も変わらず俳句に疎い為、句に添える解釈は、初学者の感想に過ぎないことをご承知おきいただきたい。
 親愛なる弟の句を一人でも多くの方にご紹介できれば、本望である。

凍空を断ち割る朝の駒ケ岳

弟作

 まず目に浮かんだのは、空の青さと冠雪の白さの壮大な対比である。句中に示されていないが、山頂付近には雪が積もっているのではないか。朝の凍空は、地表に放射冷却をもたらす晴れであろう。
 駒ケ岳とは、甲斐のそれか、木曽のそれか、全国に幾つもあり、共通する点は、何かしら馬の形を思わせる要素である。駒の原義は、子馬こまである。
 遠方からは、冠雪が馬の形に見えるのかもしれない。そう仮定すれば、空を断ち割る駒ケ岳は、白馬が颯爽と駆け上がる姿であろう。

湯豆腐を掬ふ女将の真顔かな

弟作

 先の句に続き、こちらも対比の妙を感じた。豆腐の軟と真顔の硬、そして前者の白さと後者の髪色である。その髪は、まさか下品に染め上げた色ではあるまい。和服と調和する黒であろう。艶やかな色が目に浮かぶ。
 自ずと美人を連想するのは、男にありがちな悪癖であり、筆者もご多分にれないが、この句から思い描く理想は、些かふっくらしたご婦人である。短めの足で構わない。日本人に適した和服は、男女共にそのような体形がよく似合う。

御手水に元日の日を満たしけり

弟作

 元日の神社は、人も溢れんばかりか。句が示す初空は、ハレの日に相応しい。高度の低い太陽に向き合えば、夏の頃よりそれが眩しく感じられるであろう。
 太陽が木々などに遮られず、吹き放しの手水舎に眩しい時間帯が訪れ、水盤から掬い取った水に日差しが跳ねる瞬間、柄杓ひしゃくの椀はさながら光に満たされる。
 句が切り取ったのは、吉兆と思しきほんの一瞬であり、写真では捉えられないかもしれない。或いは実際に見ていないかもしれない。それを表現し得る魅力が、文学にはある。

寒月や除染地帯の廃厩舎

弟作

 筆者は、福島県の除染特別地域に思いをせた。かの大震災から十四年が経とうとしている。国土の一角を見捨てない為に、今も危険を顧みず、除染作業に従事されている方々がいらっしゃる。真の国士である。
 日本人として、除染地帯から目を背けてはならない。折に触れて新たな情報を集め、想像力の目で見ることを意識したい。この句の詠み手、弟も同じ思いであろう。
 句の主役たる寒月が、灯りの消えた厩舎きゅうしゃと悲しいほど響き合う。


 句のご紹介は、最後にもう一句ある。
 ここまでご覧になり、お気づきの方もいらっしゃると思うが、冬の代表格の一つ、雪の季語がなかった。甲府盆地という、雪が滅多に降らない地域に住んでいる為か。
 筆者であれば、恐らくそうはならない。一句目の解釈で堂々たる冠雪を思い描いた通り、直接的な表現を用いて、真っ先に雪の句を詠むであろう。その白さばかりが思考を埋め尽くし、他人の句を参照するか、歳時記に頼らなければ、雪の他に冬の季語が即座に思い当たらない。冬を連想する心象風景は、はらはらと舞い落ちる白が際立つ。

 だが、古代中国の五行説では、冬に黒を配する。青春、朱夏、白秋、玄冬の玄とは、黒のことであり、玄妙な黒と言おうか、その色には奥深さがあると捉えられる。今日では、赤や黄みを帯びた黒を玄色と呼ぶ。
 青春が人生の春を例える通り、玄冬も人生の冬を例えているが、冬は始まりの幼年期か、終わりの老年期か、主に二通りの解釈がある。即ち、冬春夏秋の順か、春夏秋冬の順か――

 筆者は、前者であろうと思う。幼年期が冬という考えである。
 医療が発達した今でこそ、当たり前のように成人まで生きるが、七つまでは神の内と言われた通り、かつては多くの子供が命を落とした。人生の厳しい冬であろう。玄という黒は、まだ地中にいるような闇を暗示しているのではないか。先の見えない状況から這い出た先に、思春期の青い躍動がある。
 敷衍ふえんすると、創造の根源たる玄は、始まりの色と言える。この世の始まりも、玄に満ちていたのかもしれない。

 筆者の推測では、人類が始めて使った色も、恐らく黒に分類される。それが何かと言えば、火を囲む暮らしの中で生じたすすである。煤を集めて色材としたことが、絵画や文字の始まりであろう。

 即ち、黒を配された冬は、ただ暗いのではない。新たな創造に繋がる希望をはらんでいる。
 そこで、最後の句をご紹介したい。

大寒の山に槌ふる刀鍛冶

弟作

 本稿を大寒期に執筆している今、外に目を向けると、横たわる遠方の山々は綿雲の下で黒みがかっている。
 筆者の親族は、県内の山地で営む某鍛冶師かじしと縁がある。熱した鉄につちを振り下ろす姿は、男が惚れるほど勇ましく、武士を思わせる。火の粉が散り、甲高い音が鳴る。静かな冬は、音が一段と響き渡る。鉄になった山を直接叩いているように。
 それは、山を起こし、春を呼ぶ儀式の一環とも捉えられる。鉄に命を吹き込む技も、同様ではないか。
 黒い鍛冶場に赤い炎の情景は、明確な創造意志と春隣を象徴している。


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