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【小説】推し認欲求

 お腹がすいているのに、ご飯を食べないで帰ることにしたのは、仕事帰りのお父さんと顔を合わせたくなかったから。
「お父さんには、まだ言わないでね」
「別にいいじゃない。おめでたいことなのに」
 さっき喜んでくれたお母さんは、ちょっぴり呆れ顔だった。

 薄暗くなった外は、異常な残暑が立ちのいて、秋らしい空気が心地よかった。遠回りして駅に向かうと、大きな公民館の前にある、インドカレーのお店に目が留まった。学生の頃から気になっていたけど、店構えが怪しげだから、一度も入ったことはなかった。おしゃれさんを気取っている女の子は、一人で入りにくいお店だ。しかも、ネオンライトの看板が光り、入店のハードルは日中より上がっていた。
 だけど、もしも遠くに引っ越してしまったら、この辺りに来ることは滅多になくなる。最後のチャンスかもしれない。
 よし、行ってみよう。
 そんな思いでハードルを乗り越えると、ドアベルが鳴った。エキゾチックな雰囲気の狭い店内は、スパイスの香りに満ちていた。
「いらっしゃいませー」
 入って右手にカウンター席があり、その奥に銀ピカの厨房ちゅうぼうがあった。いかにもインド人夫婦の、浅黒い肌をしたカップルが働いていた。左手のテーブル席には誰もいなかったけど、お客さんは、カウンター席の端に一人だけいた。女の人で驚いた。その姿は、社会でもまれた感のある、ずんぐりむっくりしたおばさまだった。
 私も、カウンター席の端に座った。おばさまの逆で、二人の間には三人分の席があった。
 メニューブックを見ると、1100円のディナーセットがお得だと分かった。ナンかライス、カレー、サラダ、ソフトドリンクの四点セットだ。カレーは五種類、ソフトドリンクは四種類から選べた。
「すみません」
「はい、ドーゾー」
 男の定員さんが注文を取りにきた。
「ディナーセットで、ナン、キーマカレー、マンゴーラッシー、にします」
「はい、わかりましたー。サラダも、つきますからネ」
「有難うございます」
「あと、ナンは、おかわりデキマス。カレーも、ダルカレーになりますけれど、おかわりデキマス」
 そんなに食べませーん、と思いながら、ぺこりと頭を下げた。

 本当に、おかわりなんて無理!
 お皿からはみ出るナンの大きさを見て、心の底からそう思ったけど、店員さんは「おかわり、自由デスカラ。いっぱい食べてくださいネ」とサービス精神が止めどなかった。
 だからこそ、残すのは悪いと思って懸命に食べた。ギリギリお腹に収まるか否か、苦しい状況だったけど、先客のおばさまは、ナンもカレーも、おかわりした。う、うそでしょ、とチラ見する私のことなど目もくれず、一心不乱に食べ続けていた。
 なんとか食べきった私は、おばさまよりも先にお店を出た。ナンを手づかみで食べたせいか、なんとなく手先に違和感があった。きちんと洗い流したいと思った。お支払いの前に、使い捨てのおしぼりで手をふいたけど、私はちょっぴり潔癖症だ。
 目の前の公民館は、電気が明るくついていた。

 公民館のトイレから出ると、広いロビーを走り回っていた男の子とぶつかりそうになった。若いお母さんらしき人に謝られて、「いえいえ」と頭を下げた。何かイベントがあったようで、小学校低学年ぐらいのちびっこが沢山いた。
沙樹さきちゃん? ねえ、やっぱりそうだ」
 出口に向かう途中で声をかけられた。目を向けると、カレー屋さんにいたおばさまが近寄ってきた。一瞬ぎょっとしてから、はっと気づいた。その人は、おばさまなんかじゃない。高校でダンスをやっていた時の、一個上の先輩だった。あの頃は、小さくて可愛らしかった。
「ええ! 杏奈あんなさん?」
「そう、覚えてる? びっくりした。カレー屋でさっき、隣にいたよね。もしかしてって思ったけど、ほら、なんか、雰囲気変わってるし。店のなか暗いし。それで、沙樹ちゃんの方が先に出ちゃったから」
「気づかなくてすみません。何年ぶりですか?」
 杏奈さんは、指を折って数えた。
「七年ぶりじゃないかな。随分変わったねー」
 杏奈さんこそ、と思ったけど、「そうですか?」と笑った。
「ちょっとさ、手を洗ってくるから待ってて」
 ここに立ち寄った理由は、どうやら同じだった。

 杏奈さんは、淡いピンク色のハンカチで手をふきながら、ロビーの長椅子に座る私の横にもどってきた。
「沙樹ちゃんは今、仕事してるの?」
「はい。アパレルで。まだバイトですけど」
「あ、だからモード系、おしゃれなんだね」
「全然、そんなことなくて。でも、もうじき社員になれそうだから、頑張ってます」
「え、いいよ。バイトが気軽で。私も似たような感じだよ。結婚しちゃえばいいし」
 玉の輿とは、今時めずらしい考えだな、と思って、曖昧あいまいに頷いた。
「ダンス部だった子と、今でも会ったり、交流ある?」
「ほとんどないですねー。大学の頃は、仲が良かった数人とライブに行ったり、推し活してましたけど」
 私が自嘲じちょう気味に笑うと、杏奈さんは何か思い出したように目を見ひらいた。
「握手会。聞いたよ。あの学祭がくさいのあとに、何人かで行ったらしいね。一回だけじゃなくて、けっこう通ったの?」
「はい、もう、どっぷりはまって」
 そう切り出した私は、レズじゃないと前置きして、女の子のアイドルにのめり込んだ日々をさらっと話した。杏奈さんは、けらけらと笑いながら、「バカだねー」と口では言ったけど、バカにしないで聞いてくれた。

 ことのはじまりは、ダンス部の一年生だった時に、アイドルグループの振りつけを秋の学園祭のステージで披露したことだ。先輩たちの前座で、一年生の七人だけだったけど、私たちはめちゃくちゃ気合いが入っていた。衣装にもお金をかけて、“完コピ” を目指した。
 すると本番は、大成功だった。前座なのに、申し訳ないほど盛り上がり、私たちより遥かに難しいダンスをこなした先輩たちのステージは、メインディッシュのあとの、デザートのようになってしまった。
 だけど、先輩たちはそんなことを根にもつタイプじゃなくて、アンコール用の演目を先輩たちが用意していたのに、実際にアンコールがかかったら、「さっきの一年生のやつで行こう」と三年生の部長が言って、演目は急遽変更になった。そうして、私たち七人がフロントポジションで、先輩たちはバックダンサーのように後ろに並んだ。七人のなかには涙ぐんでいる子もいて、最高に感動的なステージだった。先輩たちは、即興そっきょうで合わせたらしいけど、ひそかに練習していた気がする。

 次の年は、私たち七人が二年生になり、九人の三年生と一緒に、同じアイドルグループのもっと難しい振りつけに挑戦した。もちろん、衣装も髪形も化粧も、細かいところまで完コピして、たかが学園祭のステージに情熱のすべてを注ぎ込んだ。とっても楽しかった。
 本番は、期待通りの盛り上がりで、端っこのポジションだった私の名前も、クラスメイトの女の子が大きな声で呼んでくれた。本当のアイドルになった気分だった。うちわに装飾された沙樹の二文字を見つけた時、私は調子に乗って “ファン” を指差ししたけど、よく見ると、その人はお母さんだった。
 学園祭が終わり、楽しかった余韻よいんのなかで、二年生の七人で集まると、「本物に会ってみたいよね」という話になった。すぐにライブや握手会などのイベントを調べて、みんなで参加する計画を立てた。受験の三年生には声をかけなかった。

 実現したのは、年を越した一月の握手会だった。開催される会場は、誰も行ったことがなかったけど、最寄りの駅で降りると、“それっぽい人” がぞろぞろと同じ方向へ歩いていたから、迷わなかった。
 会場で目の当たりにしたのは、アイドルという世界の過酷かこくさだ。握手待ちの列を見るだけで、その子がどれくらいの人気なのか、ある程度分かってしまう。私は、とても握手会なんてできないと思った。ダンス部のみんなで開催して、私の前だけ滑走路かっそうろのように列が途切れちゃったら、きっと涙をこらえられない。
 私が握手したのは、そこそこ人気のある同年代の三人だった。彼女たちを熱心に研究するまでは、特に好きじゃなかったけど、繰り返し動画や写真を見ているうちに、つよい憧れに変わっていたから、夢のような体験だった。三人とも、互いに両手で握手して、二言くらい言葉をかわした。はじめて来たことと、応援していることしか伝えられなかったけど、はじける笑顔でお礼を言われて、手をぎゅっと握り返してくれた。
 舞い上がった私は、ちょっぴり潔癖症なのに、しばらく手を洗えないなどと、とんでもないことを思った。実際は、その日のうちに洗ったけど、「また行きたいね」と感動を分かち合った。

 次は、三ヶ月後の握手会に四人で行った。行かなかった三人は、どうやら熱が冷めていた。
 私も、これで最後だろうな、と思っていたけど、再会したアイドルの一人は、私の顔を見るなり、ぴょんっとジャンプして喜んだ。
「おかえりー」
「え!」
「前の握手会も来てくれたでしょ?」
「う、うん」
「この服もかわいいね。どこで買うの?」
 答えようとした瞬間、スタッフの人に肩をたたかれて制限時間になり、苦しまぎれに「またね」と言い残した。時間が全然足りないと思った。

 だけど、時間を上乗せするには、握手券を買い増す必要があり、高校三年生の私たちには厳しかった。
 受験を控えている上に、最後の学園祭のステージに向けて準備をしなきゃいけない。衣装などにお金がかかり、お小遣いはそれで吹っ飛んだけど、バイトをしている暇なんてなかった。
 だから、「受験が終わったら、また一緒に行こう」と四人で約束した。

 私は、おかえりーと出迎えてくれた衝撃が忘れられず、彼女のファン、彼女が “推し” になった。次から次へと人が流れてくるなかで、三ヶ月前にわずか十秒くらい会った人のことを覚えているなんて、“神業かみわざ” としか思えなかった。別の人と勘違いした可能性もあったけど、どこにでもいそうな顔がコンプレックスの私にとって、個性を認めてもらえたような気持ちだった。

 ふうちゃんへ――
 私は、一ヶ月に一回くらい手紙を書いた。SNSにコメントもしたけど、気持ちは直筆の手紙の方が伝わると思った。誰でも回覧できるメッセージじゃなくて、ふうちゃんにだけ伝えたいこともあった。悪口などがないか、スタッフさんが目を通すらしいけど、それは仕方がないとして、本人に届くと信じて書き続けた。

 やがて、あの約束をかわした四人が、それぞれ志望校に合格すると、約一年ぶり、三回目の握手会に行った。
 握手券を多めに買った私は、ふうちゃんにだけ会うつもりで、ドキドキしながら列に並んでいると、折り返し地点で、ふうちゃんの小さな顔が人の隙間から覗いた。もとからその猫っぽい顔立ちが好きだったし、動画や写真で見るよりも、実物の方がかわいいと改めて思った。
 そうして、私の番がやって来ると、ふうちゃんは目が合った瞬間、「沙樹ちゃん! 沙樹ちゃんだよね?」と驚くべきことを言った。
「え! そうだけど、どうして?」
「だって、いつも手紙くれるじゃん。ちゃんと読んでるよ。ありがとう」
「なんで私だって分かったの?」
「うーん……十秒で覚えてくれたとか、洋服を褒めたこととか、書いてあって、きっとあの子だなーって思ったから。当たりだね」
「うん、大当たり。凄すぎる」
 ふうちゃんは、えへへと笑ったあとも、途切れなく話を続けてくれた。その一回で握手券を六枚使ったから、一分くらいお話ができた。

 握手券を一枚買うお金があれば、インドカレーのお店でお腹いっぱい外食ができる。六枚分となれば、お上品なレストランでコース料理を堪能たんのうできる。
 ふうちゃんとのお話は、私にとってそれ以上の価値があった。恋愛対象は男の子だけど、しばらく恋愛なんてするつもりなくて、ふうちゃんのことを追いかけていたかった。

 大学生になると、バイトをはじめてお金に余裕ができた。握手会だけじゃなくて、全国各地で行われるライブにも行った。最初の頃は、例の四人で集まったけど、次第に私ともう一人、二人きりになった。推しが違ったから、妙な対抗意識は生まれなくて、とっても仲良しだった。

 その友達は、推しの八月の誕生日に、大好きな少女漫画を贈ったらしい。
「この前の握手会でね、届いたよ、面白かったよって言ってくれて、本当にちゃんと読んでくれたから、ここがいいよねって、共感し合えたの。ありえなくない? ヤバいよね」
「ヤバイね。めちゃくちゃ忙しいのに、いい子すぎる」
 友達は、この上なく幸せそうだった。私は、プレゼントもちゃんと届くなら、ふうちゃんの誕生日に贈りたいと思った。

 プレゼントに関する注意事項をチェックすると、「中古品と定価が一万円以上の品は、お受けできません」と書いてあった。
 一万円以上とは、税抜きなのか、税込みなのか。
 電話して、スタッフさんに問い合わせた。なぜかというと、ふうちゃんに絶対に似合う、どうしても贈りたい、と思ったワンピースが、税抜き9800円だったからで、「消費税分が超えても大丈夫です」と言われてほっとした。
 最初のプレゼントが、上限額ギリギリなんてぶっ飛んでいるけど、ふうちゃんと仲良くなったきっかけの一つが服だから、服以外に考えられなかったし、これだ!という物を贈りたかった。

 十月の誕生日の前に、手紙を添えてスタッフさんにたくしたあと、しばらくふうちゃんに会えるイベントはなかった。届いたことを確認できず、スタッフさんの検査を無事に通過したのか心配だった。

 十一月のはじめ頃、私のもやもやは続いていたけど、ふうちゃんがSNSに投稿した自撮じどり写真を見て跳び上がった。胸より上を写したふうちゃんは、私が贈ったワンピースを着ていた。すぐに写真を保存して、その日のうちに百回くらい見た。Aラインのシルエットは隠れていて、肩回りから胸元しか写ってなかったけど、似たような服ではない確信があった。私は天才か、と思うほど似合っていた。

 十二月の中頃に会うと、開口一番お礼を言ってくれたから、着ている写真を見たことを興奮気味に伝えた。
「あ、気づいたよね。他の人には内緒だよ」
 そうして、イベントに来てくれるだけで嬉しいからと、自制をうながしてくれたけど、優越感が最高潮に達した私は、止まらなかった。
 その日の帰りに寄り道して、クリスマスプレゼントを物色すると、また一万円近い服を買った。

 それから、ことあるごとに服を贈った。贈る理由を強引に作り出すこともあった。
 ふうちゃんに似合う服はないか、常にアンテナを張っていたから、アパレルショップが立ち並ぶ通りによく出没して、あちこちの店員さんと仲良くなった。
 次第に、ファッションそのものに興味がわいて、自分に何が似合うのか研究するようになり、かわいいを卒業して、かっこいいを目指した。

 季節がめぐり、年齢を一つ重ねても、ふうちゃんへの行きすぎた情熱は冷めなかった。友達には「プレゼント攻撃」と笑われて、不愉快ふゆかいに思うどころか、いい気になっていたけど、贈った物が写り込んでいる写真を期待したところで、報われることは少なかった。

 そういうご褒美ほうびを求めちゃいけないと、自分に言い聞かせていた頃、遠方の握手会に一人で足を運んだ。その日のふうちゃんは、ステージ衣装じゃなくて、ちょっぴりロックテイストな私服を着ていた。
「ふうちゃんがそういう服って珍しいね」
「うん。はじめて着るの。どうかな?」
「すごく新鮮。いいと思う」
「良かった、沙樹ちゃんにそう言ってもらえて。ありがとう」
 その日初めての握手を終えて、列から離れると、遠くから見た他のメンバーも、それぞれ個性豊かな服装だった。
 休憩を挟んで二回目、三回目と、続けて行く準備はできていた。どんな話をしようか考えていると、側に立っていたおじさまたちの話が聞こえてきた。
楓香ふうかが、握手会で着てくれるとはね」
「いやー、そりゃ嬉しいよ」
「握手した瞬間、鼻血が出そうになった。ぶち撒けなくて良かった」
 そんな気持ち悪い冗談を言っているおじさまは、ふうちゃん推しの人だった。常連だから、顔は知っていたけど、どことなく品がなくて、楓香と呼び捨てにしているのも嫌だった。
 その日の二回目以降の握手は、わざわざ一人で遠出したのに、全然楽しくなかった。

 なんで私の贈った服は、握手会で一度も着てくれないの……
 もちろん、口に出さなかったけど、帰りの電車のなかで、じんわりと涙が出てきた。耳にした話によれば、あのロックテイストな服は、下品なおじさまからのプレゼントだ。褒めたのはお世辞で、あまり似合ってないと思ったけど、それは主観にすぎないから、ふうちゃんがどう思っているのか分からなかった。嫌でも着たなら営業の一つだし、“お客さま” からのプレゼントは、嬉しいけど迷惑な部分もあるのかもしれない。

 眠れない夜を過ごして、次の日にやっと、身勝手な自己満足に気づいた。推して、推して、押しつけて、私はまさに “攻撃” していた。私を見て、認めて、喜ばしてと、ふうちゃんに迷惑をかけていた。一見するとみつぐようなことをして、ご褒美を求めちゃいけないと思いながら、よく知らないおじさまに、激しく嫉妬しっとしているのだから、本当は見返りを浅ましく、欲張りに求めていた。
 その先にあるゴールは、いったいなんなのか。ふうちゃんと友達にでもなりたいのか。
 さっぱり分からなくなったから、プレゼントという攻撃は、もう終わりにしようと思った。

 やがて、ライブや握手会に参加するのは、友達と予定があった時だけ、数ヶ月に一回くらいになった。冷静に近場を選んで、こんなに遠くまで来たよと、アピールすることはなくなった。
 推し活中心だった土日と祝日が、がらりと変わり、その頃から、平日休みのアパレルショップでバイトをはじめた。大学三年生なのに、まともな就職活動をしないで、今度はファッションに熱を上げた。どうやら私は、一つのことにのめり込んでしまうタイプだ。

 お店での仕事は、お客さまの顔を覚えるように心がけた。わずか十秒の出会いでも大切にして、ふうちゃんの神業を完コピしたかった。そのために、お客さまの特徴をメモに書き残した。決して悪口を書かず、お客さまに見られてもいい言葉を選んだ。なぜかというと、ふうちゃんがそういう努力をしているから。休憩中もぼんやりしていないと、握手会で教えてくれた。
 そのお陰で、二回目以降のお客さまに感動してもらえるようになった。先輩方や、店長さんにも褒めていただいたけど、おかしな勘違いなんてしなかった。
 推し活を引いた私は、ふうちゃんにちょっぴり近づいて、はじめて本当のファンになれた気がする。

 大学四年生の夏、引き抜きのようなお声がけをいただいて、バイトするお店が移籍になった。同じブランドの系列店で、家から通う距離はこれまでとあまり変わらなかったけど、気ままな一人暮らしを計画した。

 移籍した初日の、最後のお客さまは、同年代の男の子だった。閉店間際に来店して、どことなく緊張していた。長身で清潔感があり、なかなかモテそうだったから、彼女さんにプレゼントかな?と思った。
 声をかけると、「はい、彼女に」とのことで、150cmくらいで細身という、小柄な彼女さんに合う服を一緒に選んだ。
 きっと彼女さんはこの服を着て、二人は一緒にデートするんだろうな。

 とっても幸せそうな印象だったけど、彼は二ヶ月に一回くらい来店して、買った商品にプレゼント用のラッピングを求めた。服のサイズが合うのか気にかけているのに、彼女さんは毎回一緒じゃなかった。使うご予算は、必ず一万円以内というこだわりがあった。
 もしかして、と私は察した。余計なことを言わなかったけど、ある時、彼が恥ずかしそうに推し活を打ち明けてくれたから、それをきっかけに私たちは仲良くなり、連絡先を交換した。

 大学を卒業したあとも、同じブランドの系列店を回ってバイトを続けた。お父さんは、そのことを頭ごなしに怒ったけど、やり甲斐があり、どのお店に行っても人間関係に恵まれて、とっても楽しかった。一人暮らしが実現した。

 お世話になって三年くらい経った九月の中頃、本社から偉い人がやって来て、「来年から社員になりませんか?」とお話をいただいた。ゆくゆくは、どこかで店長をお願いしたいとのことで、びっくりしたけど光栄に思った。系列店は、全国のあちこちにあるから、ひょっとすると、かなり遠方のお店を任されるかもしれない。

 それをまず、お母さんに伝えようとして実家に帰った日、カレー屋さんで杏奈さんとばったり再会して、公民館のロビーで長話をした。バイトが気軽でいいと言われたけど、私はこれまでの経験を活かして、もっと前に出てみたかった。責任あるポジションで活躍してみたかった。
 振り返れば、高校のダンス部は目立たないポジションが多かったし、推し活はアイドルを陰で支えるというか、舞台にすら立たないポジションだし、人生で一度も、大勢のなかでセンターポジションに立ったことがない。中心的な役割をになったことがない。

「だから私、店長になりたいんです」
 ひとしきり思い出を語ったあと、杏奈さんにそう宣言すると、彼女はピンク色のハンカチで目頭を押さえた。
「なんだか私も、頑張ろうと思った。実は最近、辛いことがあって、今日はやけ食いだったんだけど、ここで沙樹ちゃんとお話ができて、すっごく元気をもらった。ありがとう。沙樹ちゃんは、私のアイドルだ」
「いやいや、そんな」
「ねえ、握手してくれる?」
 杏奈さんは、ハンカチを膝の上に置いて、両手をぱっとひらいた。
「おー、まさかの」
 照れ臭くなったけど、はじめて推される側で握手をかわした。ありのままの私を認めてくれたことが嬉しかった。色んな神業を完コピできても、私という存在は、他の誰かのコピーではないから。
 二人きりの握手会は、閉館間際の静かな会場だった。


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