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第40回_澁澤龍彦「偏愛的作家論」_ジョルジュ・バタイユ「マダム_エドワルダ_目玉の話」(中条省平訳)_2024.11.17

片倉洸一の耽楽的音声記録
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快楽と至高性という命題を持つ2人の作品について自分でも思った以上の熱量で語る記録である。

intro
・何もないが40回
・何の音沙汰もない「Menace」、アップデートがノロノロ進む「xenonoutes2」「quasimorph」を脇目に、先行きがどうなるか不安のelinをプレイする日々
・習慣から外れる難しさ
・年末年始どうするか

1:澁澤龍彦「偏愛的作家論」(1972)
「私はもともと、スタイルの劃然と際立った作家に熱中する性癖があり、スタイルさえ見事に光っていれば、他のすべての欠点も容易に見逃すことができる、と思ってるほどの人間なのだ」

・澁澤が好きな国内作家の評論集―片倉が好きな埴谷雄高、夢野久作もあり。
・澁澤的な重要テーマの一つ―「文体―スタイル」を確立できているか。
・そんな中で澁澤からすれば異様な夢野久作―「そもそも夢野久作には、スタイルと呼べるような彼独自のスタイルがあるであろうか。少なくとも彼には、スタティックな文体、一般にひとがその特徴を容易につかみうるような、いかにも文体らしい凝った文体はない、といってよいだろう」
・夢野久作のスタイルについて―多様な作中文章、入れ子構造を得意とする久作にとっては根本的な文体というよりも様々な視点、形式を使い分ける自在性がスタイルなのではないか。
・作品を構成する重要要素―何を書くか、だけでなくどう書くかの次元の問題も等しく重要な構成要素。映像作品で言えば脚本に対する演出、色彩などの領域の問題。
・不満点―埴谷雄高は作家論になっておらず、サド裁判の際の様子、寛容さと不寛容さの両極さの思い出だけ。なんで作品について一言たりとも語らない?存在の革命、宇宙自体の革命次元まで思索を及ぼそうとした埴谷と快楽主義者の澁澤の間の隔たりを感じる。
・スタイルという点からの作家への興味が広がる読書だった。

2:ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ(1941) 目玉の話(1947)」
・澁澤や三島由紀夫が大いに愛好したであろうバタイユの有名作にようやく対面。全面性的描写満載の代物。

「マダム・エドワルダ」
・澁澤を踏まえて―バタイユのスタイルとは…内容は単なるエロだがそれを彩る描写がやはりエロだけでは済まさない。

ひとりぼっちで、猥褻な気分も高まり、酔いはきわまった。ひと気のない通りで、夜が裸になっていた。私も夜とおなじように裸になりたくなった。ズボンを脱いで、腕にひっかけた。夜の冷気に馬乗りになりたかったのだ。目もくらむような自由が私を包んだ。自分が大きくなったように感じる。手は…

・重要命題の「至高性」―「有用性や未来への配慮を一切欠いた純粋なエネルギーの消費」を発揮する瞬間の描写がバタイユ文学の対象。「マダム・エドワルダ」は娼婦との夜の時間とエロを通して人間としての限界を踏み越えて到達し、しかしそれは一瞬でしかなく「死への長い待機」に戻る光景を描く。

「目玉の話」
・遠い親戚の男女のわたしとシモーヌらの放蕩三昧、エロと死と球体の物への執着が延々描かれるある種の冒険譚。
・仲良し2人組は敬虔な娘、マルセルを巻き込み、さらに同学年の少年少女らと乱交、マルセルは精神を病んで精神病院に収容、それを2人組は救出し、マルセルは自殺、そして…シモーヌを買いたがっていたイギリス変態貴族エドモンド卿の庇護を受けてスペイン変態三昧旅行(闘牛で大興奮、教会の若い神父を襲って(性的な意味でも)殺したりしてるよ)という珍道中。
・片倉的には爆笑できる一品―エロというものに対する当事者と観衆の温度差
・作品内容に対して漂う妙な爽やかさ―冒頭にさりげなく挟まれる自動車事故と娘の首…「ばらばらになった体は、吐き気を催しそうな肉と、優雅な部分とに分かれ、そこから恐怖と絶望がたちのぼり、それは私とシモーヌが会うたびにたいてい感じる気持ちとよく似ていました」―さりげなく挟まれる「恐怖と絶望」という根源的な出発点
・「私」の求める至高性―単なる放蕩、肉の快楽などではすまない。
私が好むのは、人々が「汚らわしい」と思うものです。私は人とは反対に、普通の放蕩ではぜんぜん満足できません。なぜなら、普通の放蕩はせいぜい放蕩を汚すだけで、いずれにせよ、真に純粋な気高い本質は、無傷のまま残されるからです。私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです…
宇宙規模まで極まる「放蕩」。

・スペインで極まる至高性―シモーヌの「目玉」(oeil)「玉子」(oeuf)「金玉」(couille)といったものへの執着と「私」が望んでいたものの共鳴と絶頂の瞬間の実現。その後は急速な物語の中断、メタ視点とその後の草案の雑な放置。このへんのトーンダウンぶりもバタイユ的な「至高性」実現とその消費性の体現か?
・20年越しに改稿されていた本作。30歳と50歳のバタイユが描いた本作だが、結局は完結はならず。むしろ完結できないところが意図的に表現されたと考えるべきか。
・澁澤や三島、70年代に青春を過ごした世代へ多大な影響を与えた刹那、消費性の教祖的なものを感じられた。

outro
・チャペック的なロボットの伝統性―むしろ中世、近世のホムンクルス的な伝統を継ぐ人造生命体と考えた方がよさげ。その後の機械生命体みたいなのは20世紀的な変遷か。
・読書の有意義性を改めて実感―書く側だけでなく読書にもスタイルがあるとも考える。読む量、内容だけでなくどう読むかのスタイルも両立してこそ意義のある読書が成立するのではないか。

至高性という無意味なエネルギーの消費の方法はエロだけではないとも思う。

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