花と奏
この日、都内の区立中学校では入学式が執り行われた。式は午前中に終わり、教室で新しい教科書が配られて下校となった。
風が少し強く肌寒かったが、いつもくすんでいる空が青々と輝いていた。校庭の桜は満開で、空の青とピンクのコントラストが鮮やかだった。中学生活が始まったというのに、花の心は空のようにスッキリと晴れてくれない。花の母はやたら機嫌よくあれこれと話しかけたが、花はその半分も聞いていなかった。二人はバスに乗った。徒歩で通える学区内のA中ではなく、隣区の中学校にいわゆる越境入学をしたからだった。
「知っている子がいなくて不安でしょうけれど、あなたなら大丈夫よね?」
何が大丈夫なんだろうと花は思ったが、口にしなかった。母から越境入学の話が出た時、言う通りにした。その手続きは簡単ではなさそうだったが、母は「あなたのためだから」と言って何度も役所に足を運んだ。それを今更になって、嫌だの不安だの言っても仕方がないのだ。
花が降車するバス停に着いた。そこはA中の近くだった。花は何となく嫌な予感がして、バスから降りるとその予感は的中した。
「あっ、花だ。花~!」
キャアキャアと声をあげながら、6人の女子中学生が花に駆け寄ってきた。母は花に(先に帰るね)と目配せして家の方へ歩いて行った。花の母が遠くに行ったのを見届けると、少女達は花を取り囲んで頭のてっぺんから足の爪先までを眺め回した。
「へぇー。花の学校ってセーラー服なんだ。いいね。真面目って感じ。花に似合ってるじゃーん」
「……そっちのブレザーも可愛い」
「うふっ、うちんとこ今年から制服が変わったからね。結構イケテルでしょ。ほら、制服も今風にしないと生徒がどんどん他所に流れちゃうからさあ」
ドンッ!
他の子がひじ打ちをした。
「痛っ!あっ違う違う。変な意味じゃないんだよ。あのさ、私達これから奏の家に行くの。奏のお母さんに、制服姿見せに来てねって言われたから。花も一緒に行かない?」
花は咄嗟に「塾だから」と言って断ったが、それは嘘だった。
「塾!さすが真面目ちゃん!じゃあねー花」
ブレザーの少女達はゲラゲラと笑いながら走り去った。
(奏の家……私も行きたかったな……)
花はそう思ったが、すぐに首を横に振った。本当に誘う気ならば偶然に会った今ではなく、もっと前に話したはずだ。セーラー服の白いリボンを触りながら、これで良かったのだと花は思った。
(あんなブレザーなんか、全然羨ましくない)
翌朝から、花のバス通学が始まった。
ひとりでバスに乗るのは初めてで、通勤時間帯のバスがこれほど混んでいるとは知らなかった。20分間バスに揺られて中学校前のバス停に着いたが、登校しただけで花はへとへとになった。
新しいクラスの子達は、小学校の同級生達よりも少し大人びて見える。
(でもそれは気のせいだ。まだ良く知らないから、そんな風に思うだけ)
花はクラスの中で目立たないように、浮かないようにと心を砕いていた。
「朝見かけたんだけど、バスで通っているんだね。仲よくしよう。よろしくね」
そう言ってくる子が何人もいて、その度に「ありがとう。よろしくね」と笑顔を作った。
その笑顔は強張っていなかったか?目は笑っていただろうか?親切そうに近寄って来る子ほど、何かがあると態度が急変するのを花は知っていた。たったひとつ、ヘマでもしようものならば……
(疲れる。中学も、バス通学も……)
花の心は初日にして折れそうになっていた。やっとの思いで一日を終え、帰りのバスでは運よく座る事が出来た。流れる外の景色をぼんやりと眺めているうちに、花はうとうと眠ってしまった。終点まで乗り越したら大変だから、バスでは絶対に眠らないようにと母から何度も言われていたのに。
ハッとして目が覚め、慌ててバスを降りた。辺りを見回すと、降りるべきバス停からふたつ先の見覚えのある場所だった。
「ああ、よかった。終点まで行かなくて」
花はほっとして、自分の家に向かって歩き出した。すると、道を隔てた向こう側をふらふら歩く女の人がいた。それは奏の母だった。奏の母は花の視線に気付いて立ち止まり「花ちゃん」と声をかけてきた。花は、ペコリと会釈をした。
「花ちゃん、どこに行くの?」
そこは奏のマンションの近くだった。花は少し恥ずかしく思いながら、バスで寝過ごしてここまで来てしまったと話した。
「そうだったの。バス通学は大変ね。花ちゃん、良かったらうちでお茶でもいかが?」
花は迷った。遅くなると母が心配すると言って断ろうか。でも同級生達は昨日、奏の家に来ているのだ。
「じゃあ、少しだけ」
「花ちゃんが来てくれて、奏も喜ぶわ。お母さんには私から電話してあげるからね」
奏の家は、この辺りでは一棟しかないタワーマンションの最上階にある。花は一度だけ奏の家で遊んだ事があるが、自分の住む狭いアパートとの違いに啞然としたのだった。奏は家の中よりも外遊びが好きな、活発な子だった。だから、ひとりで本を読むのが好きな花と奏は、仲良しというほどでもない。でも利発で可愛い奏はクラスのアイドル的存在で、花も奏の事が好きだった。
奏の部屋は、女の子らしいもので溢れていた。ファッション雑誌やぬいぐるみ、流行りの洋服。まるで奏がそこにいるように、何もかも奏が使いかけのままにしてあった。学習机の横にある赤いランドセルだけが、違和感があった。たった一日、中学校に通っただけなのに何だかとても遠い存在に見えたのだった。
奏の母が香りのよい紅茶を淹れながら、奏の遺影に話しかけた。
「奏、今日は花ちゃんが来てくれたのよ。嬉しいわね」
リビングテーブルにはクッキーやキャンディ、チョコレート等、様々なお菓子がずらりと並べられた。
花は、たどたどしい手つきでお線香をあげた。作法が解らないのだった。奏の遺影は満面の笑みをたたえていた。習っていたジャズダンスの発表会の写真だった。
「奏はね、花ちゃんの事いつも褒めていたのよ。花ちゃんはお勉強が出来て、絵もお習字も上手ですごいんだよって」
「そんな事ないです。奏だって勉強も運動も得意で、ピアノが上手で、私なんかよりもずっと……」
すると、奏の母の表情が曇り、それを見て花は言葉が続かなくなった。
「昨日は入学式の帰りに16人も来てくれたの。制服姿だと皆、お兄さんお姉さんになったみたいで何だか不思議な感じね」
「知っています。昨日、偶然会ったから」
「そう。あのA中の制服をね、いただいたの。奏の棺に入れてあげてって……」
そう言って指差す方向を見ると、A中のブレザーが壁に掛けてあった。誰か解らないが、この春中学生になるはずだった奏に、せめて制服を入れて送ってあげてという意味なのだろう。その制服が、棺に入れられる事なくそこにあるのだった。
「奏は私立中学に行くはずだったの。中学受験をして合格して、制服も出来上がっていたのよ」
「私立中学?」
花は知らなかった。中学受験をする子は6年になると遊んでいる暇がなくなり、公立組とは距離をおきだした。誰がお受験をするかなどと、興味本位で探り合いをしていた。越境入学さえ花は母親から固く口留めされていた。花はきっとお受験をするのだろうと勝手に噂されて、親子共々嫌な思いをしたのだった。
「奏がこんなブレザーなんて着るわけがないのに。本当に余計なお世話……」
奏の母の声が震えていた。そして思いつめたように言った。
「花ちゃんお願い、教えてちょうだい。一体誰が、誰が奏を苛めていたの?」
「苛め?奏は苛められていたんですか?」
「花ちゃんじゃないって、解っているの。奏は花ちゃんの事が本当に好きだったから。でも、誰に苛められていたのか解らないの。どこにも証拠がないのよ」
「知らない。私、なんにも知りません。誰かが奏が苛めていたなんてまさか、信じられない」
「なぜ教えてくれないの?だったらどうして奏は、自殺なんかしたの?」
「えっ……」
カナガ ジサツ
悲鳴のような声をあげて泣く奏の母。花は茫然と立ちすくんでいた。
「奏は、病気って……」
「ご近所にはそういう事にしたの。だって遺書はないし、誰かと何かがあったなんて聞いていなかった。でも、絶対にそうなのよ。そうでなければどうして奏があんな事を…」
小学校を卒業した、最後の春休み。
奏が急死したと、花は自分の母親から聞いたのだった。花の母親も人づてに聞いて、実は前から持病があったとか何とか曖昧な内容だった。
「葬儀は近親者のみで弔問や香典も一切受けないって。余程のショックなのよ。無理もないわ。奏ちゃんは大切なひとり娘ですもの。本当にお気の毒。かける言葉が見つからない」
等と言って、母親達も目を潤ませていた。
奏は両親が留守の間、家にあった薬という薬を全部飲んだ。それらは危険な薬ではなかったけれど、吐いたものが喉に詰まってしまい、窒息死したのだと言う。
「私だって信じられない。お友達は皆優しくて、私が寂しいだろうっていつも遊びに来てくれるの。毎日、毎日、いろんな子達がね。でも、その中の誰かがきっと、奏を、奏を……」
奏の母親は、狂ったように泣き叫んでいた。花はこの場を逃げ出したいけれど、どうする事も出来なかった。足ががくがくと震えていたし、逃げれば犯人と疑われるかも知れない。
「私、何も知らなかった。ごめんね。ごめんね奏。知っていたら私にも何か出来たのかな?でも、知っていたら絶対に、奏を死なせたりしなかったよ」
花はしゃくりあげながら遺影の前で呟いた。それを聞いて奏の母は、少し冷静さを取り戻したようだった。
「ああ、花ちゃん。ごめんなさい。せっかく来てくれたのに本当にごめんなさい。この事お願いだから誰にも言わないでね。お母さんにも、お友達にも絶対に言わないでね」
「絶対に、誰にも言いません」
「ありがとう。私、まだ信じられなくて。奏が、もういないなんて、信じられなくて」
花は、黙って頷いた。
奏の母と花がマンションを出ると、外はすっかり暗くなっていた。
「花ちゃんのお家に電話するのをすっかり忘れていたわ。遅いから心配しているかも知れない」
「大丈夫です。寝過ごして終点まで行っちゃって、歩いて帰って来たって言いますから」
「そう。……上手に嘘をつくのね」
花の身体が硬直した。奏の母親はそれを見逃さず、微笑を浮かべながら言った。
「花ちゃん、また奏に会いに来てね。高校生になっても、大学生になっても、大人になってもずっとよ」
「また、来ます」
「桜、そう、桜が咲く頃がいいわ。春になったら必ず奏の事を思い出してちょうだいね」
大きな桜の木の枝が、街灯の光に照らされて浮かび上がっていた。花にはそれが、手招きをする大きな幽霊のように見えて恐ろしくなった。
花の目に涙が溢れ、ぼろぼろと零れ落ちた。桜の木が滲み、そこに奏の笑顔が浮かんでは消えた。
「奏、一体何があったの?クスリをたくさん飲んだなんて、奏がそんな事をするなんて」
昨日偶然出会った、元同級生達の顔がよぎった。
「あの子達……ううん、そんなはずない。私にはちょっと意地悪な時もあったけれど、奏とは仲良くやっていたもの」
でも、と花は思い返した。
「花もお受験するんでしょう?」とあの子達に絡まれた事があった。その中に奏もいた。奏はその場では何も言わなかったけれど、後でこっそりと花に「さっきはゴメンね」と言いに来たのだった。
そして「花、私立に行かないの?A中だと今と同じ子ばっかりだしつまんなくない?」と言うので、花は母からの口留めを忘れ、つい言ってしまった。
「うちお金がないから受験なんてできないよ。でも、A中には行かない。越境するの。行けるかどうかまだ決まってないけど」
「エッキョウ?へえ~!」
奏は大きな瞳をいっそう丸くして花を見ていた。そして
「いいなぁ。私も花とエッキョウしたーい」
と言って花にじゃれついたのだった。
(あれはどういう意味?解らない。解らないよ奏……誰にも何にも言わないで死んじゃったら、何にも解らないよ)
帰宅すると母親が「遅かったじゃない!どうせバスで寝過ごしたんでしょう!」と怒っていた。
「うん……終点まで寝ちゃって」と言いかけると「終点!だから眠っちゃダメってあれ程言ったのにどうして……」と母親は呆れながらくどくど𠮟りつけた。
花は小言を聞き流しながら、この日の出来事を誰にも話さない、絶対に話さないと心の中でずっと繰り返していた。