
11年目の被災地を走る " 旅先で『日常』を走る ~spin-off④~ "
① いざ出発、往路の車窓から
2021年10月16日土曜日午前10:00。私は、上野駅発の特急ひたちに乗車した。
車内はけっこうな混雑ぶりだ。予約していた指定席の隣の席も埋まっていた。私は仕事がら頻繁に出張するのだが、特急や新幹線の隣の席に人がいることは久々だ。やはり、この度の緊急事態解除で人の動きが活発化しているのだろうか? 土日を使って、コロナ禍に見舞われて以来久々に帰省する人も多いのだろう。
電車は上野駅を発車すると水戸までノンストップで走る。
余談だが、私は今から23年前に仕事で茨城県全域の6店舗を担当しており、常磐線の特急で移動することも頻繁にあった。当時は特急も『スーパーひたち』と『フレッシュひたち』に分かれていたな、などとふと記憶の扉が開いてしまう。
いわきに向かう車内で、私は旅の行程を確認した。
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土日の公休を利用した、一泊二日の旅。向かうは東北地方だ。今回は、10年前に起きた東日本大震災の被災地をめぐる予定にしている。
福島県いわき市には一昨年の8月、岩手県の釜石から北の地域はその年の9月に訪れたことがあるので、今回はその間の地域に足を運ぶことにした。
まずは福島第一原発のそば、帰宅困難地域のあたりに向かう。私の母は福島県出身で、多くの親戚が福島県に住んでいる。福島といっても彼らが暮らしている場所は沿岸部ではなく内陸部の方なので、津波の被害はなかった。
しかし住まいのちょうど東側の沿岸部で原発事故があり、親戚たちは不安で眠れぬ夜を過ごしてきたと聞いた。
子どもが生まれたばかりだった従兄は妻子を山形に疎開させた。また別の従兄は自衛官として被災地の復興のために尽力して、挙句に鬱病を発症した。また、母は五人姉妹の三女なのだが、彼女の姉妹たちが緊急避難という口実で変わるがわる東京の我が家を訪ねてきては泊まって行った。
これに関しては、彼女たちは主に観光目的だったと後に供述している。
そんなことがあったので、私はこの10年間福島の特に原発事故の被害に遭った地域に思いを馳せることが多かった。去年の3月に帰宅困難区域が緩和され常磐線が全線復旧した事を受け、機会があったら福島県の帰宅困難区域ギリギリを攻めて走りたいと計画していたのだ。
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電車は水戸を過ぎ日立を過ぎ、いわきに近づいてきた。
いわきには2回足を運んだことがある。
2012年に津波ですべてが流されてしまった沿岸部に赴き、その惨状に愕然とした。そして復旧工事が済んだ一昨年に再訪し、営業再開した塩屋埼灯台に登ったのだ。
当時のことを思い起こしつつ、湯本駅を過ぎたあたりで通過する車窓越しに黙祷を捧げた。
いわき駅で各停に乗り継ぐ。乗り継ぎ時間は4分。駅のトイレに寄る余裕すらない。ちなみに、この電車を逃すと次の電車は3時間後だ。
乗っている乗客の数に不釣り合いなくらい多くの車両を連結した電車は、定刻通りに出発し、原発に向かって走り出した。車窓を眺めていると、不意に一昨日のことが脳裏によぎった。
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仕事で会った、保険会社の代理店の方から聞いた話だ。
震災の直後、彼は東京から応援で被災地に赴いて保険の審査請求を行った。被災者の多くは証券も何もかも海の向こうに流されてしまっているのだが、なんとか審査を通して保険金を支給できるように取りなした。すると被災者の方々は、彼の手を取り涙ながらに感謝の言葉を述べたそうだ。「ありがとうございます。これでなんとか生きていけます。」と。
彼はその言葉を励みにして今でも仕事を続けていると、少し照れながら、そして誇らしげに語っていた。
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1時間ほど電車に揺られていると、去年の3月まで不通だった区間(富岡〜浪江間)に入った。
今日、私はこの区域内を探索するのだ。富岡駅の手前で車窓から福島第二原発が見えないかと目を凝らしたが、線路が海岸からひとつ丘を越えたところを通っているため、見ることができなかった。
さらに10分ほどで、最初の目的地である双葉駅に到着した。10人くらいの乗客とともに下車した。エレベーターで改札階に上がり改札を抜ける。駅舎は去年再建されたばかりで真新しいが、無人駅だ。改札口には切符回収箱とSuica読み取り機が一台ある。
階段を降りてロータリーに出る。
② 東日本大震災・原子力災害伝承館を走る
駅前で、注意書きの看板を発見した。
まだ立ち入りに制限がある区域が多いようだ。気をつけて進もう。
ロータリーには、私が向かおうとしている『東日本大震災・原子力災害伝承館』へのシャトルバスが停まっていた。Googleマップによると片道2.7kmくらいだったので、そこまで走って行こうかとも考えていたのだが、バスが走る道の両側は帰宅困難区域というデリケートなエリアなので、おとなしくバスで行くことにした。往復乗車券は350円だった。
バスには大学生と思しき3人組とおっさんにアラサーくらいのお姉さん、そして私。大学生のひとりが運ちゃんに「追っかけであと3人来るのですが、タクシーはつかまりますか?」と聞いている。運ちゃんは「タクシーは呼んでもすぐには来ないよ。連れの人たちはあと何分くらいで来るの?5分くらい?それなら待つよ」ということになった。親切だ。
ほどなく、後発隊の3人は無事に現れた。どうやら改札にSuicaを通す際にトラブルがあり、遠くの駅の駅員さんとオンラインでやり取りをしていたらしい。
定刻より5分遅れで、バスは出発した。
バスは出発から5分もかからずに、伝承館前に到着した。同乗した大学生たちは、待ち構えていたガイドとおぼしき方の案内を受けている。
あたりを見渡す。伝承館と地域交流センターが建っている公園と、道を挟んだ先にある作業員用のホテルが目立つ。というか、駅前はともかくこの辺りになると、他に建物はない。『前田建設』と書かれたのぼりが何本も並び、はためいている。
今日は土曜日だから工事はあまり行われていないようだが、公園の一部がパーテーションで覆われていて、その奥からは工事をしているような音がする。
私はひとまず海に向かうことにした。海に向かって一直線に歩き、防潮堤の階段を上りきった。その上から太平洋を一望する。
海沿いだけではなく川の両岸にも防潮堤が築かれている。津波は海岸から川を遡上するのだ。2011年3月11日、私も職場で被災したのだが、様子を見に行った駅に設置させているTVから流れていたのは、八戸の川を遡上していく津波の映像だった。
フクイチが見えるかな? と海岸の右側に目を凝らすが、それらしきものは見えなかった。天候が良くないので、あまり先までは見通せない。ついに雨が降ってきた。屋内に移動しよう。
せっかく東北まで来たので走ることにする。防潮堤を降りたところでランニングアプリをセットし、スタートした。
道の向こうに大学生たちとガイドの集団が見える。これから防潮堤を上るようだ。私は、防潮堤沿いを進む。
このまま直進すると帰宅困難区域に入るようだ。右折し、元来た道に戻る。見渡す限り、人も車もない。
ほんの400m走ったところで、右手に伝承館の案内板が見えた。
左手に建つ伝承館に視線を移す。
「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語が目についた。これはなにかの冗談なのだろうか?
小松理虔氏の著作『新復興論』に、原発事故による賠償金を手にした双葉郡の住民たちがいわき市に流れ、元々いわきに住んでいた人たちと軋轢が生じているという記述があったことを思い出した。
彼らは元々原発マネー頼りで暮らしていて、原発事故後ひさらに自分たちが生まれ育った土地を賠償金に変えてしまった。帰宅困難区域が解除されても、ここに戻ってくる人は少ないだろうなと思った。
伝承館には寄る気にならず、地域交流センターに入る。入口で検温と消毒を済ませ、備え付けの名簿に自分の住民・氏名・電話番号を記入した。
入口付近にある土産物屋的なスペースの奥に、フードコートを見つけた。双葉に降り立ってから初めて開いているお店を発見し、若干興奮する。この先の道のりでもう開いている店に出会うことはないかもしれない。ここでランチを摂ることにする。
フードコートには先客が3組おり、市の職員らしき方がせっせと空きテーブルを消毒してまわっている。店舗に進んで浪江焼きそばの食券を購入し、カウンターに出した。
焼きそばは10分ほどで提供された。
手早く食べ終わったところで、帰りのバスの時刻となった。私を入れて二人の客を乗せて、バスは双葉駅に戻った。
③ 帰宅困難区域と解除区域の境目を走る
双葉駅から上り電車に乗り込んで、夜ノ森駅に戻った。この駅も真新しい無人駅だ。ここで降りたのは私ひとりだけだった。
海側の出口に出る。駅前にロータリーがあるが自動車はまったくなく、先に見える街道にもほとんど車の往来はない。
ロータリーと道路に沿って鉄柵が設置されており、この柵を越えてはならないと注意書きの看板が立て掛けられている。
トイレに行きたくなって、待合室に入る。木の香りを漂わせる、新築の建物だ。トイレもきれいだった。もちろん、誰の人影も見ることがない。
駅周辺の観光スポットが書かれている看板の案内によって、ひとまず桜並木に向かうことにした。
もちろんこの時期に桜は咲いていないが、じっくりとその光景を肉眼に焼き付けたいと思い、ここはランニングではなくノルディックウォークで進むことにした。リュックからノルディックポールを取り出し、手早く組み立てるとすぐにスタートした。
まずは、ロータリーと線路に対して直角に伸びる通りを進む。
左手には駅前の商店群や自販機が設置されているが、柵に阻まれて利用することは叶わない。右手に抜ける道も立ち入り禁止だ。なぜか人の営みが消えてから10年以上経っているとは思えぬほどに、生活感の欠片がそこかしこに存在している。
交差点まで進んだところで、道の向こうに警備員が立っていた。
歩行者と軽車両は、これ以上まっすぐには進めないのだ。私は警備員に目礼をして、右に舵を切った。ところで、あの警備の人は今日一日で何人の人と遭遇したのだろうか? なかなか孤独な仕事だ。
両側一車線づつあるかなり広い道路を進むが、通行がまったくない。私は車道の真ん中を堂々と進んで行った。
左手には商店やヨークベニマルがあるが、もちろんここにも鉄柵が立てられている。
打ち捨てられている状態の車も散見される。
しばらく進んだところで、右側の鉄柵が途切れていることに気づいた。人気はないが、公民館のような建物や住宅もある。この辺りはまだ居住制限がありそうだから、誰も住んでいないのだろうか?
ようやく向こう側から車が何台かこちらに向かって来た。そのまま右側の道に抜けていく。その目の前の道に、桜並木が現れた。
このまま進むと夜ノ森公園があり、かつて地域の人たちの憩いの場となっていたようだ。しかし今行ってもほとんど誰もいないのだろう。
私は往来する車を追うようにして、交差点を右に曲がった。じつは夜ノ森から一駅先の大野駅までノルディックウォークで移動しようと計画していたのだ。
駅周りの帰宅困難区域解除状況はざっと確認して来たのだが、無事に辿り着けるルートがどこなのかなんて親切に解説しているサイトなど見つけられなかった。
なので、行き当たりばったりで進むことにした。おそらく、このルートを行けばおそらくたどり着けるだろう。
鉄柵が立てられてない道を、軽快に進んでいく。左手は工事中でクレーン車が置いてある。右手には新築っぽいアパートがあり「入居者募集中」の懸垂幕が張られている。しかし、部屋を探している人がここ通るとは到底思えない。
交差点に差し掛かる。左手にガソリンスタンドを見つけた。夜ノ森に来てから初めて、営業している店を見た。店員さんがひとり働いている。警備の人以外で初めて、人の姿を確認した。
角を右に曲がり、車道とは柵で区切られ一段高くなった歩道を進む。
歩道の道幅は1.5mくらいあるが、なぜかバカでかい街路樹が等間隔で鎮座していて、歩行の邪魔をしてくれる。この木を切り倒すと何かの祟りでも起こるのだろうか? それでも、なんとか街路樹をかき分け進む。
歩道の右側に線路が現れた。
線路は切り通しになっており、歩道よりも10m近く低いところを通っている。さらに進むと、夜ノ森駅に戻った。先ほどと逆側の、内陸側の出口だ。
見渡す限り、駅舎にもホームにも人の姿はない。新築の廃墟的なロケーションに遭遇するのも珍しい。左手にはマッサージの看板を出した住宅なども見えるが、人気はない。車の往来は多少ある。行けるところまで行こうと、さらに前進する。
向こうから人が歩いてくる。夜ノ森駅を降りてから初めて住人らしき人の姿を発見し、心のなかで胸を撫で下ろす。この先は少し人気がある集落があるのかもしれない。しかし、その淡い希望はいとも簡単に打ち砕かれた。
交差点を直進すると、歩道には脇の墓地や草むらから様々な枝が伸びて来て、行く手を遮る。
そして、その枝の合間をクモの巣が張っている。ちょっとしたジャングル状態だ。この道を人が通るのは久しぶりなのだろう。
その先に看板が見える。
なんと。もはやここまでか?
いや、この道を直進し続けて山道に入れば、歩行者でも大野駅まで行けそうだ。ここまで来たら引き返すわけには行かないのだ。
左に曲がり、山道を登る。
ノルディックポールを持ってきて良かったと心から思った。どれくらい上りが続くのか、見当もつかない。しばらく登ると、集落が現れた。
歩道はインターロッキングされ、沿道にもなかなかの豪邸が並ぶが、どこも暮らしている様子はない。
道端に「使用禁止」の立て札が立っている。
目を凝らすと、生い茂った草木の隙間から滑り台やブランコの存在が浮かび上がってきた。
ここは児童公園のようだ。10年放置されただけで自然に還ってしまうのか…
さらに坂を登っていくと、広い道に合流した。大型トラックがかなりのスピードで坂を上がってくる。山道にしては舗装がしっかりされていている。普段からトラックの往来が多そうな道だ。しばらくはこの道を上がっていく。
右手には廃墟と化した養護学校があり、左手には広い空き地に土が積まれた小山ができている。
先ほど私を追い抜いていったようなトラックがこの土を沿岸部に運んで、土地のかさ上げに使うのだろうか?
しばらく進むと、右手に道が伸びていた。Googleマップを参照すると、ここを右に曲がるのが近道のようだ。右に進路を変え、緩やかな下り坂を進む。道の両脇に木立が聳え立つ。ここからしばらくは全く車の往来がなくなった。下り坂の途中を左に入る。道幅は狭くなる。
もう少し進むとかつては農地だっただろう荒地が広がり、緩やかな上がりになる。
この道に直角に通る道に突き当たる。右に曲がる。
高圧電線が左から右に向かって伸びている。この電線を左にたどるとフクイチが送信元になるのだろうか?もしもそうならば、この電線にはもう10年以上電気が通っていないということになる。
少し先で左に延びる細い上がり道に入り、道なりに進む。久しぶりに住宅街に出た。しかしここも人が住んでいる気配がない。倒れた灯篭が放置されている。
交差点に差し掛かったところで、右に曲がり広い道路に出た。
右手にはヨークベニマルがあった。
もちろん営業していないが、除染作業の事務所的な使われ方をしているように見え、何台か駐車している車両と数人の人影を確認した。
Googleマップを再度参照する。このまま直進すれば大野駅に到着だ。電車の時間も迫っているので、ペースを上げて進む。しかし、交差点を直進しようとしたところで再度行く手を阻まれた。
「歩行者および軽車両は立入禁止」。ご丁寧に警備員付きだ。
道を一本挟むだけでそんなに線量違わないだろ、と不満を感じつつも、大人しく左に進路を変える。
右手にツルハドラッグの廃墟を眺めつつ、鉄柵が立っていない交差点まで進む。
二つ目の信号の交差点で、ようやく右に入ることができた。かなり広い道。しかしここも両側に鉄柵が立っている。ここを右に曲がれば大野駅に入れるという交差点が近づく。
「お願いだから右折可になっていてくれ」と心の中で祈りながら近づいて行く。ここから夜ノ森まで10kmの道のりを戻るなんてまっぴらごめんだ。
交差点に差し掛かる。直行と左折は制限がかかっていたが幸いにも右折は大丈夫だった。さすがに駅にたどり着く道をすべて封鎖してしまったら、駅の営業を再開した甲斐がないからな。ラストスパートで、駅に続く直線をスピードを上げて進む。もちろんこの道も両側に鉄柵が立っている。
左手前に駅の看板が見えてきた。
「ようやく、どこへでも移動できる場所に戻ってきたのだ」と安堵する。
駅に入る前に、駅前右手に延びる、かつては大野駅のメインストリートだった通りの前まで行き、その様子を写真に収めた。
大野駅は橋上駅舎になっており、階段を上って改札口に向かう。ここも無人駅だ。思わず遠回りを強いられた結果、乗ろうと考えていた電車はすでに発車していた。改札外に設置された待合室で時間を潰すことにした。
待合室には大学生くらいの先客が一名。しかし、反対方面の電車が到着したのですぐに出て行った。
待合室のカウンターにはコンセントが付いていたのでipad を充電しておき、待ち時間を使って逆側の出口を見に行った。
こちらにはこじんまりとしたロータリーがあり、本数は少ないが定期就行の路線バスが通っているようだ。駅舎を含め駅一帯は真新しいのだが、バス停の標識だけがその表示すら読み取り難いほどの老朽化していた。
待合室に戻り、設置されていた大熊町の広報を読んだり、タッチパネル式の街案内で近隣の空間線量を調べたりして、時間を潰した。
④ 仙台に拠点を置き、宿泊する
17:42発の各停に乗り、原ノ町駅で乗り継いで仙台駅に到着したのは19:42だった。
明日は岩手県まで足を伸ばすので、ここに宿泊することにしたのだ。エスパルの地下飲食店街で牛タンと笹かま、宮城の地酒『伯楽星』を満喫した。
伯楽星の蔵元さんには一度直接お話を伺ったことがあるが、津波で酒蔵が全壊し内陸部に蔵を移転したそうだ。
大変な苦労を乗り越えて「究極の食中酒」と称される伯楽星をふたたび我々に届けてくれている。感謝。
この日は予約しておいた駅前の温泉付きカプセルホテルに宿泊した。宮城県も9月末で緊急事態宣言が解除され、駅近くのビジネスホテルはどこも宿泊費がコロナ以前に戻っていた。
それでも、土曜の夜にしてはまだ繁華街の人出は物足りない。
カラオケボックスのキャッチが手持ち無沙汰の立ちすくんでいた。震災からようやく生活基盤を回復させたところでコロナ禍とは目も当てられない事態だが、それでもお互い生きて行くしかないのだ。
⑤ リセットされてしまった街を走る
翌朝7:20初のバスに乗り込み、3時間ちょっとで陸前高田に到着した。
真新しい駅舎と観光協会が並んでいる。
現在放映中の朝ドラ『おかえりモネ』のポスターや、気仙沼のパンフがいくつも置いてある。
『おかえりモネ』の舞台は宮城県気仙沼だ。ここは岩手県だが、気仙沼文化圏に含まれるようだ。
建物を一旦出て、外階段を上って屋上から街全体を見下ろす。丘の下の更地に、ポツンと一棟だけコンクリートの建物が建っている。
後で知ったのだが、この丘は津波対策でかさ上げされたもので元は更地の高さだった。またあの建物は津波に耐えた建物だということだ。
沿岸部まで、ランニングで向かうことにした。さっそくスタートしよう。
駅前のロータリーを出て右に進む。そのまま橋を渡り、交差点を右に曲がると下り坂になる。坂を下り切った左手に新しそうな野球場があり、今まさに試合の真っ最中だった。
電光掲示板がゴージャスだ。
通りすがりに、石碑が目に入った。
津波が到来した際の、避難の道筋を示している。
突き当たりを右折し、道なりに国道に出る。進むと「道の駅」と書いてある建物があった。しかし、どう見ても営業している気配はない。津波でやられてしまったのだろう。
その先にもう少し進むと、どうやら本物らしい道の駅があった。
モダンなデザインの建物だ。ランニングアプリを一時停止にして、中に入る。
建物の奥は公園になっていた。その先に、この地のランドマークとなっている『奇跡の一本松』がある。そのすぐ下まで歩みを進める。
根腐れしたこの木をサイボーグ化して保存するというこの計画に、当時の私は猛烈に反対していた。この木を一本だけ残すことによって何の教訓にしたいのか? 費用が1億5000万円も掛かるのに。
初めて生で奇跡の一本松を見た感想は、至って普通だった。元々2kmに渡る松原があった土地に、そのうちの一本だけが残ってもそんなに見栄えがするものではない。
それよりも、後方に残る遺構の方が気になった。
ユースホステル跡のようだ。この建物が防潮堤の役目を果たしたおかげで、一本松は命を永らえたのだろうか?
続いて、海岸に沿って建てられている防潮堤に上る。
上が遊歩道のようになっていた。汗をかいた身体が浜風にあおられ、体温を奪われる。
海岸に目を向けると、大量の松が植えられていた。
樹齢何年かのかわいらしいサイズ。今後はこの場所で、松原の役目を果たしていくのだ。地域の人たちにとって昔から松原は大事な存在であり、これからも変わらないのだろう。そう思うと、一本松のサイボーグを見やすい場所に保存することにも意義があるのかなと、少し認識を改めた。
少し進んだところに、海に向かって設置された献花台があった。
黙祷する。
身体も冷えたし腹も減ってきたので、そろそろ道の駅に戻ろう。
道の駅は午前中から賑わいを見せていた。広田漁港の海産物を始めとして、地域の特産物が並ぶ。ちなみに、鳥取名物の『すなば珈琲』まである!
実家になにか送ってやりたいが、まずは腹ごなしから。
フードコートで海鮮丼とミニめかぶ蕎麦のセットを注文する。朝降っていた雨でテラスの椅子が濡れているので、屋内のスペースの奪い合いになっている。ようやくカウンターの空席を見つけて腰かける。
海鮮丼は新鮮で美味かったが、それよりも驚いたのが蕎麦の出汁の豊潤さだ。魚をさばく工程でふんだんに生じるアラを使っているのだろうか?なんとも贅沢だ。
満腹になったところで、シーフードショッピングを再開する。日曜日は休漁なので鮮魚はほとんど置いていないが、陸前高田の売りはワカメを始めとする海藻類や養殖の牡蠣など貝類なので、大した問題ではない。
私が何でそんなことを知っているのかというと、じつは以前働いていた職場が陸前高田の漁業復興に尽力していたのだ。
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壊滅状態だった漁業を建て直すためにバイヤーをひとり常駐させて養殖の再興に手を貸したり、定置網に掛かった魚を全量買い取りしたりした。そして早朝に採れた魚をトラックで飛行場に運んで、その日の夜には東京の店で提供できるようにしたのだ。
私は店で魚を受け取って、お客様に提供する役割だった。震災からの復興に貢献していること、また未利用魚と呼ばれる普段東京で口にするのは貴重な魚をお客様にその価値を説明しながら提供することによって産地と消費地をつなぐこと、この仕事にとてもやりがいを感じていた。
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思い出話が長くなってしまった。実家に送るものをチョイスしないと。さんざん迷った挙げ句、あかもく・灯台つぶ・カレイ(一尾180円!)を選び、クール宅急便で送った。
BRTの時間が近づいてきたので、駅まで再度走ることにする。来た道を戻るのも面白味がないので、3駅先の長部駅まで4km弱の道のりを走る。道の駅を出て、国道を先に進むと、気仙大橋に差し掛かる。
今は復旧しているが、この橋も津波で破壊されたそうだ。津波は川を逆流するので、この上流4kmの地点まで津波被害が大きかったそうだ。
橋を渡りきると、道はうねり角度も登りになる。
バテないように速度を抑えぎみに進む。「津波ここまで」の標識が目に入った。
津波の高さを身をもって実感した。
先を左に入ると気仙中学校跡の震災遺構があるらしい。
寄ってみよう。
道すがら、築数十年であろう建物の一群を見つけた。津波に襲われなかった証だ。
緩やかな坂を下っていくと、新設された防潮堤のすぐ奥に遺構はあった。
ガイドの案内がないと中には入れないようだ。
屋上のすぐ上に、津波到達ラインが引いてある。
来た坂をふたたび上る。
下からまっすぐ見上げると10mの高さは果てしなく感じるが、到達ラインのすぐ上の高さから坂の向こうを緩やかに見下ろすとさほどの高さには思えない。
津波の被害を受けるか否かの差は、本当に紙一重なのだな、と感じた。
そのままうねった道を上ったり下ったりしながら、BRTの時刻に10分ほど余裕を残して駅に着いた。
バス停のような作りだ。この道を以前は本当に列車が走っていたのか気になって調べると、どうやら震災後にBRTを通す際の臨時駅がそのまま正式な駅となった模様。寸断された元の線路の復旧は断念されたということだ。
⑥「海と生き続ける」と決意した街を走る
BRTで次の目的地に移動する。
かつては線路だった専用軌道を走るのだとばかり考えていたが、そんなことはなかった。一般道を走ったかと思えば、自動車専用道路に入ったり。ようやく専用起軌道の運行に落ち着いたなと感じたところで、気仙沼駅に到着した。
気仙沼駅からは引き続き上前地まで伸びるBRTの路線と、一ノ関に向かう線路が伸びている。奥のホームには列車の車両が止まっている。
久々に線路を見て、少し安心した。
駅前は震災の痕跡が感じられない、よくある過疎地に見えた。
ロータリーから道を挟んだ向こう側に、昭和的な佇まいの観光ホテルが建っていた。陸前高田に比べればかなり賑やかな駅前だ。南三陸きってのターミナル駅であることと、三陸全体でも屈指の人口規模があるゆえんだろうか。
さっそく海に向かって走る。ロータリーを抜けて、目抜き通りを左に進む。日曜日だからか沿道の商店はほぼすべてシャッターが閉まっている。
車の通行はそこそこあるが、通行人はまばらだ。向こう側から中学生っぽい一団が歩いてくる。どこかに遊びに行くのだろうか?
緩やかな下り道をさらに進んでいく。沿道に並ぶ商店に、かなり年季が入った建物が目立つようになる。
看板の文字が右から書かれているものまでいくつか見受けられた。そこまで歴史がなさそうな建物でも、いわゆる看板建築がかなり残っている。その隣の建物が取り壊されたのか空き地になっているところも多いので、正面のゴージャスな装飾と側面のショボさのコントラストが際立って味わい深い。
しかし、こんなに古い建造物が多数残っているということは、この辺りは津波被害が及ばなかったのだろうか? などと疑問に感じながら道なりに右に折れると、突然目の前の視界が開けた。
海面は見えないが、のぼりが何本も立っている。ここが目的地の内湾のようだ。
階段を上って高台に上がる。高台は内湾の形に沿って、海岸線よりも一回り大きく弧を描いている。
この高台の上と外側を使った形で建設された商業施設が、ずらりと並んでいた。
私が今立っているあたりは、どうやら『ムカエル』という一角のようだ。
この先には地域のミニFMスタジオや市の交流プラザ・周遊船のチケット売り場が見える。次の便は14:30に出航するようだ。今の時刻は14:20。「これは、乗るしかない。」 瞬時に判断し、チケット売り場へと急いだ。
1,600円のチケットを購入するとすぐに大嶋汽船の発着所に急いだ。
乗り場には三人のおっさんたちが等間隔でソーシャルディスタンスを保って立っていた。
先頭のおっさんが満面の笑みで非接触式体温計を私の手首に向けた。そして次のおっさんは満面の笑みを浮かべ、私の手からチケットを受け取った。さらに最後尾のおっさんが満面の笑みを湛えながら、私の手のひらにアルコールを吹き付けた。
素晴らしいコンビネーションだった。
さっそく、船に乗り込んだ。船は二階建てになっている。迷わず二階に上がる。客室内には入らずに甲板にスタンバった。いよいよ出航だ。
甲板には私のほかに老夫婦・カップル・親子連れ(父と幼女)がいる。老夫婦の爺さんの方が、出航と同時に餌をウミネコに撒いている。船内の売店で餌を売っているのだ。夥しい数のウミネコが船に伴走し、爺さんの鼻息が届きそうなくらい近くにたむろしている。
そばでその光景を眺めていた私も、その一味だと勘違いしたウミネコたちに取り囲まれる。思わず3歩くらい後退りする。
船内アナウンスは内湾にある魚市場の紹介を始めた。東北最大規模の漁港で、津波で被害を受けたものを3ヶ月で仮再建した強者である。その後施設を作り直し、国内有数の衛生管理を誇る設備を備えるようになったそうだ。
気仙沼は、古くからマグロなどの遠洋漁業が有名な港だ。
船は湾内を進み、大きな橋を潜る。
アナウンスによると、気仙沼湾横断橋とのこと。うねうねと続く三陸のリアス式海岸をショートカットして進むために、今年通されたばかりの高速道路だ。
この橋によって、ようやく仙台から宮古までが高速道路で繋がった。三陸の不便さを体感したわたしには夢の架け橋に見えた。
甲板上では、今度は親子連れの父親がかっぱえびせんをウミネコに振る舞っている。かっぱえびせんも売店で売っているのだ。娘にも餌付けさせようとしているが全力で拒否する幼女。ヒッチコックの『鳥』を観た以上のトラウマになること請け合いだ。
そして船は又も橋を潜る。
アナウンスによると気仙沼大島大橋とのこと。本州と繋がっておらず震災時に孤立した大島に新たに2019年に架けられた。気仙沼大島は「緑の真珠」と称された美しい外観を誇るが、その美観を乱してでも必要とされたのだろう。災害に見舞われた時にもどこへでも行くことができる道筋を死守することこそが、遠洋漁業の街で暮らす人たちにとって最優先事項なのだろう。
また、この橋が開通した日をもって、内湾から大橋への定期航路が廃止されたとのことだ。ドル箱路線を失った大島汽船の皆さまは、この周遊船以外に稼ぐ術はあるのか心配になる。脳裏に乗船時のおっさんたちの満面の笑みが浮かぶ。
船は大橋に沿って進み、湾の出口近くを大きく旋回して復路に入った。
西陽が低い角度で海面に当たり、その光がこちらに照り返してくる。
水面と私の間にウミネコたちが飛び回り、影を作る。
甲板の左側に気配を感じて振り返ると、カップルが餌をウミネコたちに投げていた。君たちの仕業だったのか。
45分ほどの航海を終え、周遊船は内湾に戻った。船を降りるとさっきのおっさん(3人目)が満面の笑みで出迎えてくれた。
けっこう時間がなくなってきたが、ひと休みしたくなってナイワンに戻り『アンカーコーヒー』に入る。
気仙沼は、この旅を企画している途中で急遽目的地に加わった場所だ。先日発行された雑誌『モノノメ』の巻頭特集に『10年目の東北道を、走る』という記事があった。その寄稿文の末尾を飾ったのが、この店とオーナーのやっちさんだった。
気仙沼の復興に伴って起こる様々な軋轢。古き良き時代に戻そうとする勢力が大勢であるが、流されたものは元には戻らないし、なにより津波に襲われるはるか前からこの地にも過疎化の波が直撃していたのだ。
そんな状況下で、やっちさんが新しい「気仙沼らしさ」を海外に開かれた内湾を拠点にして模索している姿にすっかり感銘を受けて、当初の旅程を変更して気仙沼に立ち寄ったのだ。
店内に入る。ほぼ満席の盛況ぶり。客層は全員若者だ。ここが都内のカフェと言われても違和感がないほど、若者たちの雰囲気やファッションも垢抜けている。私は、オーシャンビューのひとり掛けソファー席に座った。『モノノメ』の表紙を飾った三陸の美しい浜辺をイメージしたモクテル『ケセンブルー』がつい最近開発されたが、まだメニューには加えられていなかった。
私は、熟考の末『海のカレーセット』とブレンドコーヒーを注文した。昼飯は済ませていたのだが、ついうっかりとまたご飯ものを頼んでしまった。しかし過ぎたことを悔やんでも仕方ないのだ。
運ばれてきたカレーを、甘んじて腹の中に流し込んだ。
食後に運ばれてきたコーヒーには「カレーの後なので軽めの味にブレンドしました」と、店員さんの言葉が添えられた。
会計時、レジ横の物販スペースを覗く。Tシャツが1000円引きだ!安い。店員さん曰く16周年記念セールとのこと。もっとも当時の店はすべて津波に流されてしまい、仮設住宅のような形態の仮設店舗で営業を続けていたらしい。解体のため追い出され、完成したてのナイワンに移転したそうだ。目の前の平穏な雰囲気からは想像もつかない足跡だ。
結局、物販を含めて8,000円以上のお会計となった。まあ、財布の紐を緩めるならばこの機会しかないという絶妙なタイミングだった。悔いなし。
食後はまた走る。『風待ち地区』を通って魚の市に立ち寄るルートだ。
その後、南気仙沼駅から帰路に着く段取りになっている。
ちなみに風待ち地区とは、帆船を使っていた時代には風が吹かないと出航できないので凪いでいる時はここで風を待ったとのことだ。こういう場所は宿場町のように栄えたことだろう。
さっそく走ろう。
この風待ち地区には歴史ある建造物が多数存在し、それをリノベーションして観光資源にしようという試みがなされている。その物件を一通り回る。
回りながら思う。
この一帯は内湾近くといえども津波の被害を免れたということか?
被害に遭う遭わないは本当に紙一重なのだなと改めて実感した。
なにしろこの内湾では津波に重油タンクが倒され、街の至るところで大火災を引き起こしたのだから…
風待ち地区を走っている途中で、また中学生っぽい集団とすれ違った。
この街には中学生しか歩行を許されていないのだろうか? などとくだらない妄想にふけっているうちに海沿いの道に合流し、魚の市に到着した。
一階は海産物を売っていたり寿司屋が入っていたりしているが、一目散に2階に上がる。なにしろ帰りのBRTまであと20分しかないのだ。2階では『おかえりモネ』展が開かれているはずだ。2階に上がると大きなパネルが目に入った。
あそこか?駆け寄ると、それは今月公開された映画『護られなかった者たちへ』のロケ風景などが飾られたパネルだった。
この映画もまた、気仙沼でロケが行われたのだ。しかも『おかえりモネ』のヒロイン清原果耶がこの映画にも出演している。
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『護られなかった者たちへ』で清原果耶が演じる役は、仙台市の生活保護担当者だ。気仙沼など各地から困窮した被災者たちが仙台に押し寄せ、生活保護の発給処理はパンクしてしまう。思わず、コロナ禍での協力金支給を巡るゴタゴタを連想してしまうような状況。そんな修羅場の真っ只中で彼女は苦悩する。朝ドラとはまったく違う役回りを彼女は立派に演じていた。
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気を取り直してあたりを見回すと、右手の奥に『おかえりモネ』展の入り口があった。さっそく入る。
登場人物の紹介やロケ地のスナップ。オープニング映像の清原果耶になりきれる簡易セットなどが用意されている。私は急ぎ足で堪能し、滞在時間2分で会場を後にした。
外に出ると、驚きの光景が私を出迎えた。
海側一面に広がる夕日だ。時間がないのにしばし見とれてしまった。
さあ、先を急ごう。駅までの道のりを海岸沿いに走る。左手には一面の夕日が続く。
夕日がこのまま果てしなく続いていくかのような錯覚に陥る。さらに、うっすらと月まで見えてきた。
気仙沼の人たちはこんなにも美しい夕暮れを日常的に過ごしているのか?うらやましい。
交差点を左に曲がると、駅がその先に見えた。
一直線に道が伸びる。BRTの専用軌道の左側にもう一本同じような道がまっすぐに伸びている。その道をラストスパートしていると、向こう側からまたまた中学生とおぼしき集団が走ってくる。私と同じBRTに乗るようで、駅へ急いでいる。私も急がなければ。
私は無事に駅に着き、17:09発の便に乗車した。
これも後で知ったのだが、この駅周辺の一帯が、気仙沼で有数の大きな被害を受けた地域だという。確かに、夕日を遮るような建物はまばらだった。
さあ、ここから3時間半掛けて仙台に戻ろう。
⑦ 帰途に着きながら考えたこと
仙台に戻る道中、南三陸を越えたあたりで物思いに耽る。陸前高田の寂寥感と気仙沼の妙な明るさのコントラストについて。
陸前高田は市街地丸ごと流されてしまい、今後人が住む土地はまるまる嵩上げするしかなかったようだ。そして海沿いに伸びる防潮堤と、残される遺構たち。なくしてしまったモノたちへの断ち切れない未練が感じられた。
一方、気仙沼も多大な被害を被ったのだが、幸いにも駅から内湾の手前までの古くからの市街地は津波を免れることができた。また、三陸地域の核として人も交通も財政も他の被災地よりは強固だったのだろう。
さらに大事なことが、ここに暮らす人たちのメンタリティだ。復興に至る様々な軋轢の中で、気仙沼に暮らす人たちは「海と暮らす」ことを選択したのだと聞いた。両側に位置する陸前高田や南三陸とは一線を画して、防潮堤が低かったり意匠に工夫があったり、場所によっては防潮堤自体が存在しなかったりするのだ
かつては遠洋漁業が栄え内陸部に何本も線路が走っていた三陸のターミナル。彼らは、「ここからどこへでも行ける」という希望を失いたくなかったのだろうか? そのために、気仙沼らしく生きるために、決して小さくはないリスクを背負うと決意したのだろう。そういえばさっきお茶したナイワンは、防潮堤の上に建っていたのだった。
緑化されていたので、言われるまで気づかなかった。
柳津で列車に乗り換える。この辺りは昨日の帰宅困難区域と同じくらい閑散としているが、私は久々に線路を走る列車に乗れることに軽く興奮した。乗客はBRTから乗り継いだ2名(私含む)のみ。線路がある路線の方がBRTよりも過疎っている現実…
結局、終点の小牛田まで途中乗車のもう1名を含む計3名のみだった。
うつらうつらしているうちに、小一時間で仙台駅に到着した。
時刻は21時前。駅前の売店で萩の月と笹かまぼこを購入する。老いた父母へのお土産だ。孝行息子な私。新宿行きのバスは22:25に発車する。居酒屋で時間を潰すことにした。移動中にGoogleマイビジネスで調べておいた、バスセンターから近い店に直行する。
『金市朗』という店に入る。金華鯖が好評の店だ。まずは岩手の地酒『AKABU』のひやおろしを注文する。
ここも津波で蔵が流され、移転して復興した蔵元だ。応援の意味も多少はあるが、それ以上に味が好きで東京でもちょくちょく買って飲んでいる銘柄だ。
お通しは、山掛け鮪と茄子の揚げ浸しwith九条葱。
あしらいが目にも優しい。センスを感じる。
続いてクラッカーwithクリームチーズ。
飾られた花が付加価値を産む。美しい。チーズも甘くボリューミーで良き。
そしてメインディッシュの『金華〆鯖炙り』が到着。
醤油の他にわさび・おろし生姜・塩・ニンニクチップ・すだちが並べられ、好みの味付けで食べることができる。味は最高だった、脂乗りと凝縮された旨味を堪能した。
腹も心も満たされたところで、帰りのバスに乗るとしよう。明日も仕事だ。
被災地に暮らす方々と同様に、わたしにも日常は存在する。とはいえ、この旅を終えた私は被災地で今この時に目の前の課題に全力でぶつかっているすべての人たちと、心情的に接続されてしまった。
東京での暮らしを続けながらも、なんらかのかたちで東北の人たちに協力していきたいと誓った。それと同時に、彼らと交流することによって自分自身の暮らしも豊かにしていきたいと、心から思った。
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連載で被災地に触れた記事『東北三部作』のリンクを貼っておきます。
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