秒速5センチメートルが心に残る理由を、聖地に行って考えてみた
ゆきが積もるタイミングで行きたい場所がある。
家からは距離にして40km、車で1時間。それほど遠くはない。
その場所とは、アニメ映画『秒速5センチメートル』の聖地のひとつ、栃木県にある岩舟駅。
岩船駅は、佐野ラーメンで有名な佐野市のとなりの栃木市にある。
電車の数は1日に上りと下り各6本(2021年1月)。
通勤と通学にしかほぼ使われないような田舎によくある無人駅だ。
『秒速5センチメートル』の舞台で、東京と栃木で遠距離恋愛をしている中学生の男女が、1年ぶりに、大雪の中、逢った舞台になっている。
出典:IMDB
映画では、この画像のように駅のまわりに雪が積もっている風景がとても寂しげでうつくしく描かれている。
「このキレイな景色を1度みてみたい」、その上で「秒速5センチメートルがどうして記憶に残るアニメになっているのか考えてみたい」と思っていた。
ちょうど4年ぶりに東京に大雪警報が出て、その舞台となった場所も雪がふっていると確認できたので、現地に行ってみることにした。
『秒速5センチメートル』とは?
『秒速5センチメートル』とは、『君の名は』で有名な新海誠監督が作った3つ目のアニメ映画だ。2007年に公開されると、音楽のように流れていく美しい風景描写と切ないストーリーで多くの人を虜にした。
テーマは、男女のこころの距離。
時間と物理的な距離によって、こころのあり方がどう変わっていくのかが描かれている。
あらすじは、以下の通り。
このあと高校・社会人とストーリーは続くのだけど、この経験が貴樹のこころに残ってしまう。
高校では、明里と手紙をだしあうけど自然消滅。それでも貴樹はうまく気持ちの区切りをつけられず、ガラケーで下書のメールを大量に作ってしまうし、社会人になっても距離を近づけることができずに恋人と別れてしまう。
物語のクライマックスでは、貴樹の高校から悶々とした社会人生活になるまでの軌跡と明里の高校から結婚が決まるまでの軌跡が対比されるようにカットが流されていき、最後、踏切で貴樹と明里がすれ違うという描写でアニメが終わる。
当時、2人が再開せず、現実的な終わり方をしたことで、幼馴染という名の幻想を抱える多くのアニメ好きから、うつアニメなどと言われることが多かった作品だ。
ゆきの積もった風景を期待して現地に行くも・・・
ということで、「いざ、雪の積もった景色へ!!」と2人が再会した岩舟駅に行ってはみたものの……、
うわあ、積雪0センチメートル……
わざわざ2人が会えた23時すぎに来たのに、雪はなく、霜がすこしおりているだけ。
しかも近くで道路の工事をしているし、金髪の大学生4人組が駅に入っていくし、ただの地方駅の日常風景になっている。
電灯は蛍光灯ではなくてLEDになっているせいか、刺さるような光になっていて、ちょっと風情もうすれている。
正直、予想とはだいぶ違うものになってしまったけど、せっかくここまできたので、映画の舞台になった場所を見てみることにした。
主人公がおりたホームからは、正面に田んぼが広がる。田んぼの向こうには住宅街。
映画では、もっと家がすくない印象だったけど、アニメの舞台は95年と今から30年前だし、ロケハンも2005年と約20年前。雰囲気はだいぶ変わっている。
貴樹が、到着が4時間遅れたことに気落ちしながらおりていった階段。
映画では車掌さんがいるが、いまは無人駅になっている改札。
SUICAの登場は2001年、舞台はそれよりも前の95年ということを考えると、昔は有人だったのか、それとも切符を箱に入れるだけの無人駅だったのか気になる。
2人が再開したベンチ。
映画では、駅のホームにあるようなプラスチックのイスで、石油ストーブもあったけど、いまの駅は木製のベンチイスだけになっている。
ちょっとずつ映画と駅で絵は異なるけど、時代によるものなのか、新海監督が意図的に変更しているのかは分からない。
2人が駅を出たあと、どういう所を歩いたのか雰囲気を味わってみることにしたけど、駅の近くはコンビニすらない住宅街だった。
しばらく駅のまわりを歩いてみたけど、あまり田んぼや畑はなく、まわりには家が多かった。
昔ながらの家もあれば、新しい家もあったので、時代が進むにつれて、宅地開発されていったのかもしれない。
しばらく「2人がこころを重ね合った桜の木はどこかにないかな」と歩きまわり、「やっぱり存在しないよな」と思っていたところ、とうとう見つけてしまった。
天高くそびえる大きな木!!
……うん、でも、これは桜の木ではないし、そのモチーフでもない。ただの、よく分からない木だ。
深夜のテンションで「これがあの桜のモチーフになった木だ!!」と一瞬だけ思ったのだけど、あきらかに違う。
2人が夜を越した納屋も探したけど、似ている建物も見つからなかった。
ここまで2人の軌跡に思いを馳せて歩きまわった訳だけど、ひとつ疑問がでてきた。
それは、どうして貴樹が、このときの経験にとらわれてしまったのか、ということ。
明里は、ここでの経験にとらわれることなく、高校では彼氏を作り、社会人では最終的に結婚している。
一方、貴樹は、アニメにしろ小説にしろ漫画にしろこのときの経験がきっかけで、恋人と深い関係を築けないでいる。
アニメでは、3年つき合った恋人から「心が1cmも近づかなかった」という理由で振られているし、マンガでもほぼ同じだ。
新海誠の書いた小説では大学生から社会人になるまで3人とつきあい、どれもうまくいかずに終わっている。
貴樹が恋愛でうまくいかなかった理由ーーつまりは「こころ」を誰かに近づけることができなかった理由について、新海誠監督の考える「思春期の男女の恋愛観」と、貴樹と明里がこの場所で再会するときに渡し合う予定だった手紙の違いから、ひもといていきたい。
新海誠の描くこころの重なりあいについて
『秒速5センチメートル』の前に、新海誠は2つの作品を作っている。
ひとつ目の作品が個人で作った、『ほしのこえ』。ふたつ目の作品がスタッフをたくさん向かい入れて作った『雲の向こう、約束の場所』だ。
この2つの映画に描かれている新海誠の恋愛観は、『秒速5センチメートル』につよく反映されている。
まずは、『ほしのこえ』について見ていきたい。
『ほしのこえ』
出典:IMDB
ひとつめの作品『ほしのこえ』は、2002年に公開されたSFの短編アニメ。
自分達ではどうしようもない世界の流れによって、少年少女が別れてしまうことをテーマにした作品だ。
このアニメ、パンフレットで少女が大事そうに抱えているガラケーがキーアイテムになっているのだけど、2022年にこのアニメを見るとガラケーが気になってストーリーに集中できなくなってしまう。
「いやあ、まさかスマホができるなんて、2002年当時は思いもしなかったよなあ」とちょっと感慨に浸ることもできるし、時代の移り変わりの早さも実感できる。
それにしても2002年のパソコンやインターネットが普及しきっていない状況で、ひとりでこのアニメを作るあたり新海誠のすごさを感じる。
ポイントとしては、アニメの最後、メールが届くのに8年以上かかるようになった世界での少女と恋人である少年(青年)のモノローグ。
「思いが時間や距離をこえることがあるかもしれない。一瞬でもこえるなら、ぼくは何を思うだろう。みかこは何を思うだろう」
「私たちの思うことはひとつ。ねえ、のぼるくん。私はここにいるよ」
セリフだけ抜け出してみると、抒情的というか文学的というかかなりポエミーである。
ただ、このセリフには、新海監督の価値観が分かりやすく反映されている。
思春期の男女の恋心はかけがえのないものということ、その恋心が叶わないがための哀愁が美しいということ、そして、なんらかの奇跡によって、2人が重なることができればとても救いがあるということ。
2作目の『雲の向こう、約束の場所』では、『ほしのこえ』よりも大幅に広がった世界を舞台に、少年少女の葛藤が描かれる。
『雲の向こう、約束の場所』
出典:IMDB
ふたつ目に公開された『雲の向こう、約束の場所』は、2004年に公開されたディストピアSF長編アニメ。舞台の設定は村上龍のディストピア小説『5分後の世界』の影響が見られる。
戦争により北海道(作中名:エゾ)と本州で分断された日本を舞台に、思春期の少年少女の想いの尊さと、別れと再会することのできない切なさを描いた作品だ。
舞台設定が複雑で、登場人物の心情モノローグでストーリーが展開していくため、ストーリーの全体像を把握するのがむずかしい
とくにオープニングでいきなりあらわれる塔については、みんな意味ありげに見つめたり語ったりするのに、なかなか存在意義が明かされないので、「なんだ、あのそびえ立ったtowerは……?」とヤキモキしてしまう。うん、むずかしいアニメだ。
出典:IMDB
この作品では『ほしのこえ』と同じく、思春期の少年少女の想いのかけがえのなさ、どうしようもない事情によって男女が別れることになってしまった切なさ、再会のよろこびが描かれている。
この映画からは、新海誠が2つの価値観を持っていることがわかる。
ひとつ目が、少年少女の一緒にいたいという想いは世界と同じくらいの大きさであるということ。ふたつ目が、わかれてしまってからふたたび出会うには世界を変えるような大きな力が必要だということ
ちなみに、『雲の向こう、約束の地』では、「世界の多重構造」、「いなくなった大事な人に出会うには代償が必要になる」という設定が取り入れられているが、この世界観の設定は『星を追う子ども』『君の名は』『天気の子』にも用いられている。
おそらく2022年秋公開の『すずめの戸締まり』でもこの手法が使われるんじゃないかなと思っている。勝手な予想だけど。
出典:IMDB
で、この2つの作品を見ると、3つ目の作品である『秒速5センチメートル』でも同じ価値観を表現しようとしていることがわかる。
それは、思春期の少年少女の想いのかけがえのなさ、世界のせいで別れることになってしまった少年少女の哀愁のうつくしさ、少年少女が再会したときの奇跡のすばらしさ。
この3つの要素が詰まったのが、最初の25分である。
貴樹と明里の出会いと別れと再会、こころが重なり合う瞬間が描かれている。
出会いと別れを描いたのちの、こころが重なりあったシーンの風景と心情描写は美しい。
そして、その美しさの後に電車で別れるシーンが訪れることで、別れの切なさが際立ち、ものすごく胸を打たれる物語になっている。
また、中学生の貴樹と明里が電車で別れるシーンで映画は終わってもよさそうなものだが、さらに物語が続いていく。少年と少女が再会し、別れ、また日常が続いていく。
その続く日常の中で、貴樹は過去にとらわれてしまう。これはこころが重なりあった奇跡の代償だと思う。
新海誠は、「別れてしまった男女が重なりあうことは奇跡で、その奇跡には代償がある」という表現をよくするので、秒速5センチメートルでも同様のことをしたんじゃないかと思う。
とはいっても、これはストーリー外のものすごく抽象的な考え方にすぎない。
もうすこし作品に即して、貴樹が過去にとらわれてしまった理由を考えていきたい。
おそらく、貴樹と明里が作中に渡しあう予定だった手紙にヒントがあると思う。
秒速5センチメートルに出てくる手紙について
秒速5センチメートルでは、岩舟駅で再会するときに渡し合う予定だった手紙がある。その2人の手紙の違いについて見ていきたい。
まずは明里の手紙について。
明里は、貴樹を待っているあいだに駅の待合室で手紙を書いていた。手紙の内容は映画では断片的にしか出てこないけど、新海誠の書いた原作小説にはその全文が載っている。その一部を引用するので見てほしい。
遠回しではあるけれども、別れのあいさつである。
小学生のときは同じ場所で同じ時をすごし、同じ風景を見ることで、2人のこころは重なっていた。
ただ、東京と栃木で暮らしの距離が離れ、同じ風景を見れなくなったことで、互いのこころにズレが生じようとしていた。
そのこころのズレが起こりそうなタイミングで起こったのが貴樹の転校だ。さらに会えない距離になり、こころのズレは修復することができなくなってしまう。
そのこころのズレが予想できた明里は、これまでの思い出と関係性に区切りをつけ、前を向いていこうとしていた。
映画では、「貴樹くんはきっと大丈夫」と声をかけてわかれることになるが、それは貴樹へのさようならに代わる言葉だったように見える。
一方で、貴樹はというと、2週間かけて明里に渡す手紙を書いた。枚数は、アニメでは4枚、小説では8枚。
明里の1枚と比べると、さすがに書きすぎなんじゃないかと思う。
小説では「人生ではじめてのラブレターだったと思う」と貴樹は語っているが、ちょっと愛が重すぎる。
そのラブレターに何を書いたか気になるところではあるが、残念ながら内容を確認できない。
というのも、明里に会いにいくときに、乗り継ぎの電車を待っている小山駅でなくしてしまったからだ。
このようにジュースを買うためにコートから財布を出したときに、財布と同じポケットにしまっていた手紙も落ちてしまい、その落ちた手紙が強風で吹き飛ばされ、線路の向こう側へ消えてしまった。
遠いところに住む恋人と会う日なのに関東では見たことのない100年に1度レベルの大雪に見舞われるし、電車は3時間以上も遅れるし、手紙は吹き飛ばされてしまうしで、さすがに貴樹がかわいそうになる。
どうしたらここまでよくないことが起こるのだろうか。普段の行いが悪すぎたのだろうか。
もしかすると、普段から先生に告げ口をしたり、学校の図書館に実話ナックルズを10冊ほど忍ばせたり、給食時間に放送室からアンダーグラウンドなHIPHOPをかけたりするなど、悪事に手を染めていたのかもしれないが、このことは映画でも小説でも言及されないので真偽は不明である。
新海誠の書いた小説では、この失くしてしまった手紙の内容について、貴樹の独白で「くわしくは覚えていない」と書かれている。
ただ、明里とは異なり、貴樹はお別れの言葉を書いていなかったことだけはわかる。というのも小説で社会人となった貴樹が夢の中で渡せなかった手紙に「さようなら」を書きたそうとしている描写があるからだ。
貴樹は明里への手紙を書いてるときに、もう2度と会えないかもしれないと思いつつも、気持ちの整理をつけることができなかった。できれば、明里との隙間を埋めて、あの頃のように同じ風景を見たかった。
だから貴樹の手紙の内容は、ほとんど明里と離れてからの自分のすべてを書いたのではないかと思う。
知ったことや経験してことのすべてを明里に教えて、離れていた時間にできてしまった隙間を埋めることで小学校のときのようにこころを重ねようとした。
もちろん、それは関係が終わるかもしれないと分かった上での悪あがきだったのかもしれない。それでも何もせずにただ離れていくことはできなかった。
もしかすると大雪で電車が遅れず、手紙を渡すだけだったら貴樹も明里とおわかれすることができたかもしれない。
ただ、幸か不幸か奇跡が起こり、電車が4時間以上遅れた大雪の日でも明里と再会でき、桜の木の下でこころを重ね合わせることができてしまった。
そのせいで貴樹のこころに明里の断片が根を張り、過去にとらわれてしまった。
出典:IMDB
さようならするということは、自分の意志で現在を過去にすることで、未来へ進むことである。
現在を自分で終わらせることができなければ、うまく未来へ進めず、後悔がでてくる。
だから、さようならのできた明里は貴樹との関係を過去にできて、できなかった貴樹は過去にとらわれてしまった。
人生において、恋人、両親、友達、うまく別れることができずに、思い出がこころに根を張り、前をむけないことはよくあることだ。
初恋であれば、ほとんどの人が何もできずに自然に終わっていき、「あのとき、ああすればよかった」と1度は後悔を抱えることになる。
秒速5センチメートルは、初恋が叶うという救いと初恋が散ってしまい過去にとらわれるという現実が描かれている。
だからこそ、多くの人の心に残り続けるのだと思う。
ただ、この映画の1番いいところは、最後のすれ違いのシーンである。
思い出の呪縛、過去からの解放について
出典:IMDB
秒速5センチメートルは、大人になった貴樹と明里が電車ですれ違うシーンで幕を閉じる。このとき明里は結婚しているが、貴樹はまだ中学生の頃の明里の幻影がこころに残っている。
このシーンについて新海誠はパンフレットのインタビューでこう語っている。
恋愛でも、勉強でも、仕事でも、家庭でも、うまくいってない時ほど過去の光っている思い出を眺めてしまう。
思い出の光は、眺めているうちにどんどん明るさを増し、太陽のように大きく丸い輝きを放つようになる。
そして大きな輝きで目は眩み、暗い現在を見ることができなくなる。過去をのりこえて、現実のつらさを受け入れ、前を向くことは、ほんとうにむずかしい。
でも、主人公は、偶然という奇跡によって過去を乗り越え、前を見るようになる。現実では起こりにくい、過去との遭遇によって、思い出の呪縛から解放される。そんな現実でも起こりそうな奇跡に救いがある。
僕たちは過去に生きてしまうことが多い。
でも、この映画は、そんなどうしようもない過去を乗り越えられるかもしれないと思わせてくれる。
2度と会えない人とすれ違うことのできた最後のワンカット、それは現実にもありえる希望なのである。
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