欠落を埋める。
どうしてこんな風になってしまうんだろう?
そういう思いがずっと、子供のころから繰り返し起こります。
自分は精一杯考えて、努力して、頑張っているのに。
どうして私の人生は、こんな風になってしまうんだろう?って、考えてしまう。
それはたぶん、どんな人でもあることなんだと思います。
私だけではなくて、ほとんどすべての人たちが、そう思っているんだと思うんです。
振り返ってみると、私は、両親の心の欠落を埋めるために、自分の意志とは関係なく、無理やりやりたくもないことをさせられていました。
間違った前提で、始まってしまった自分の人生のひずみが自分を苦しめていることに気づいいても、修正が効かなくて困っている状態が、ずっと続いています。
随分と、本当に随分と長い間です。
自分の意識の中では自分の責任じゃないのに、自分で引き受けるしかなくて、ものすごく不本意だと、ずっと思ってきました。
でも、そんなこと言ってるだけで、考えてるだけで、具体的に何もしなければ、何もできないまま時間が過ぎて、人生は終わります。
だから、なけなしの勇気を出して、思い切って行動しました。
なんにもないまんまで外に出て、じたばたしながらここまで来ました。
それは決して、誰かに誇れるようなものではなくて、苦しくて、かっこ悪くて、思い通りでもなかったけれど、なぜか大きな曲がり角に助けてくれる人が現れて、ここまでたどり着くことができました。
だから私は、人に感謝できるようになりました。
戦えるようにもなりました。
それが自分を成長させてくれました。
外に出たことで生きることにいっぱいいっぱいになった私は、他人と自分を比べるよりも、自分が今、どう考えて、どう行動するか?ということに、集中しました。
それでないと、生き抜いてくることができなかったからです。
人の顔色なんて、必要以上に見ている余裕はありませんでした。
それでも、どうしようもない場面でなぜか、救ってくれる人が現れて、こんな何もない私でも、何とか生きてこられました。
結婚した時、子どもを持つことも、家を持つことも、あきらめていたのに、親にお金を頼らなくても、ローンを組んで買うことができましたし、子どもを持つこともできました。
考えもしないことばかりでした。
結婚したのも、意外でした。
実家を離れるときは、何も考えていませんでした。
私が外で働いていたら、母を時々呼んで、息抜きをさせてあげられるかもしれないと思っていました。
残念ながら、結局それはかないませんでした。
実家を離れて初めて、自分以外の人間の欠落を埋める作業から解放されて、自分を生きることができるようになったのかもしれません。
だけど、残念なことに、結婚した相手の母親は、埋めさせたいタイプの人間でした。
自分でいくらでも、埋めることができるのに、自分自身の欠落を、周りの人間に埋めさせないと損だと思うような人でした。
はじめ、それに気づかずに対応してしまったために、今でもずっと困っています。
私が自分の経験で、嫌というほどわかったことは、自分の欠落を、他の人に埋めさせるのは、間違っているということです。
自分の欠落は自分で埋めて、他人に求めないために、努力しないと間違えます。
そして、欠落を埋めることよりも、可能性を追いかけることに努力した人だけが、何か新しいことをできるし、ほんとの意味で、ほかの人を助けることができるようになるのではないかと思うようになりました。
欠落は欠落のまま、自分にできることをやる。
完璧な人なんて、絶対にいません。
いない人にならなくても、みんなと同じように、足りないまんまでベストを尽くす。
その方が、健康的だと思います。