ライラックぽん もう一度
アサリ食む細葱散らし酒蒸しで
「潮干狩り、行ったらしいよ」
「そっか」
そんなのどっちでもよかった。
そんなの関係なしに私は今とても落ち込んでいるのだ。
どうしてあんな失敗しちゃったんだろう?
私の意識はそこにしか行かない。
本当に本当に、ほんとに落ち込んでいる。
だからこの際、母親が好きな人と一緒に潮干狩りに行って、信じられない量のアサリが家にあるなんてどっちでもいいことだった。
妹はなんだかとても気になるらしくそのことに異常な位興奮している。
そんなの関係ないと思いながら、厳しい家計の足しにするため、私はアサリを水で洗って、新しく作った塩水につけて、砂抜きをするようにアサリを入れた大きな鍋に晒しの布巾をそっとかけ、暗がりを作ってあげた。
冷蔵庫に入れた方が良いのだろうか?
かなり考えたのだけれど、迷いに迷ってそれはやめた。
でも今日はなんだか暑いからやっぱり入れたほうがいいのかな?
そう思ってやっぱり冷蔵庫に入れた。
この大量のアサリを使って、どんな料理を作ろうか?
仕事の失敗は気になるけれど、食いしん坊の私、少ない家計をやりくりして家族3人の献立を常に考えている私にとって、思いがけない収穫は大切にしなくてはいけないと思ってしまったのだった。
大粒のアサリが蓋付きの中位の大きさのバケツにたっぷり入っていた。
だから家にある一番大きな鍋と2番目に大きな鍋と3番目に大きな鍋と、大きめのボール、中くらいの大きさのボール、などなどに分けて入れ、丁寧に水洗いして、砂抜きのための塩水を作り、ひとつひとつにサラシでできた布巾をかけて冷蔵庫にしまったら、我が家の冷蔵庫の中身はアサリでいっぱいになってしまった。
鍋やボールの隙間に、それまで入っていたなけなしの食材を詰め込んで、支障がなそうなものは、野菜室や冷凍室に移して、大量のアサリを全部詰めたらヘトヘトだった。
ご近所におすそ分けしようか?
でも、今の時間お家にいる人はほとんどいないはず。
仕方ない。
アサリが入っていたバケツも丁寧に洗ってベランダに干した。
今日はとてもお天気が良くて風もある。潮干狩りには最高だっただろう。
夕方近いこの時間家にいる事はほとんどなかった。
仕事で失敗して辞めざるをえなくなり、私はぼう然としながらこの時間を家の中で過ごしていたのだ。
そんな時、母がこれから一緒に生きていきたいと考えている恋人と潮干狩りに行き大量のアサリを家に持ち帰り、ヘトヘトだと言ってシャワーを浴びて寝てしまった。
ひのあたる浅瀬の浜で、こんなにたくさんのアサリを時間をかけて取り続けたら、それはもうへとへとだろう。
ただでさえ、毎日いろんな仕事を掛け持ちしながら一生懸命働いている。母のことを考えると、今母が寝ている事は当然だと思った。
そして凄く心配しているのに、何も言わないでいてくれる、そのことに感謝もしていた。
母が私をとても心配してくれている事は、母の仕草や母の気配で嫌と言うほど感じていたけど、自分のことさえ支えられなくなっている今の自分は他の誰かに心遣いをするような余裕はなかった。
母は私のことを恋人に相談したのだろうか?
それはわからなかったけれど、かなり前から計画していた潮干狩りをしたことで、母はヘトヘトに疲れて何も考えずに今眠っている。
私を気にかけて、少し寝不足になっていたことも本当は知っていた。
疲れ果てて眠りこけている母の顔を見たら、なんとなく思い詰めていた気持ちが緩んでいくのを感じた。
健やかな母の寝顔。
今日のお出かけはとても楽しかったのだろう。
よかった。
そう思った。
あの大量のアサリ、砂抜きが完了して、美味しくいただけるのはいつになるのだろうか。
明日の朝食の味噌汁は絶対アサリにしよう。
スパゲティーのボンゴレに出来るように、ワインで蒸して、冷凍しておこう。
それよりも酒蒸しにして、ネギをちらして食べてみたい。
亡くなった父の好物だった。
だから、母のいないところで作ったほうがいいかもしれない。母が仕事に行っている間にそっと作って食べてしまおう。
そんなことを考えた。
空は少しずつ夕暮れに近づいて、私も少し眠たくなった。
気が張っていて眠れてなかった。
少しだけ眠ってみよう。
そう思った。