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夢みたいなこと

 年齢ってなんだろう?

 今朝、ふと、考える瞬間がありました。

 そうして、そのことにとらわれることなく、その時々の自分を素直に生きていこうとあらためて考えました。

 どんな人でもそうだと思うのですが、今の瞬間何を考えてどうするか?できる事はそれだけしかないような気がするのです。

 そうして私は、その判断が甘かったために、大切なことを取りこぼしてしまいました。

 もうどうすることもできないような気がして激しく落ち込んでいますが、それでもやっぱり生きてる限り少しでも、明るい方を向いていたいので、今できることを精一杯やるしかないと、思い直しました。

 1人でじっくり考えなくてはいけないことがある、そんなふうに思う兄です。

 本当は疲れてしまって、逃げ出したくなるような気持ちもすべてのことに対してあるのですが、逆に、もっと踏み込んでいって何かを変えなくてはいけない、そういう気持ちも強くあります。

 そうして本当に安心して暮らせるような環境に身をおきたい。

 そのことばかりをもう何年も前から考え続けています。

 具体的にどうしたらいいのかが自分の中でハッキリしたら、多分すぐに動くような気がしています。

 そうして私がもたもたしていたからできなくなってしまったことがいくつもあって、ものすごく落ち込んでもいます。

 私がいろいろな新しい場所やことに向かってくることができたのは、多分自分が空っぽで何もないと思っているからような気がします。

 noteを書き始めた時も、正直何も深い事は考えていませんでした。

 そうして何もわからず、特別にできることもないのに書き始めてしまった。

 今振り返ってみると、よくそんな怖いことができたものだと自分でも驚いてしまうのですが、本当に何も考えていなかったからできたような気がしています。

 そのことを後悔したことも、本当はあります。

 そうして自分の置かれている状況の責任の重さに気がつくほど、もっともっと努力をしなくてはいけない、本当に自分がしたいことに向けて真剣に生きていかなくてはいけない、そういう気持ちばかりが強くなっています。

 こんなに混乱して、何もできなくて、自信がどんどんなくなっていくのに、それでもって、自分でも思います。

 そう、それでも男です。

 逆に、だからこそ、というか。

 そういう風に思えるようになった理由の1つに、私の子供がサッカーに夢中になっていた姿があります。

 ものすごく太ってしまっていて、徒競走もいつもビリで、体を動かすようなことを自分からはほとんどしていなかった私の子供が、なぜだかわからないけれど急にサッカーに夢中になって毎日朝5時に起きて走ったり、サッカーの練習をしたりしに行くようになりました。

 学校から帰ってきた後も、玄関にランドセルを置くと、すぐにサッカーの練習をするために外に駆け出して行きます。

 そして帰ってきた後は、サッカーを続けたいがために宿題やその日の課題をすぐにやって、寝る前は体幹を鍛えるためのトレーニングやストレッチ、エル体操などを必ずして、時間を決めて眠ってしまう。

 中学校卒業するまでそれは毎日続きました。

 1日も休まずです。

 太っていた体はみるみる痩せていき一年に7センチずつ背が伸びて、引っ込み思案だった性格はサッカーをするために積極的に変わっていきました。

 全部サッカーが好きだから、ただその気持ちだけでした。

 選手になったり、活躍できたりしたわけではありませんが、子供の内面はサッカーをすることで大きく成長したと思います。

 もっと早くからやらせてあげてればよかった、報われないことに一生懸命使い続けている子供を見ながらそう思いましたが、本人には言えませんでした。

 サッカーで活躍をする事はできなかったけれど、子供はそのことで強くしっかりとしたものを自分の中に育てることができました。

 それは多分、私が彼にどんなことを言ったり与えたりしたとしても身に付かなかったことなのだと思うのです。

 私も子供も自分たちが似ていると考えた事はほとんどないのですが、ちょっとだけ重なる部分があるのかもしれません。

 私が今している事は無謀なことで、普通の常識で考えたら違うと言われてしまっても仕方がないんだろうと感じて落ち込むこともたくさんあります。

 でも、だからこそ、もしも可能性があるのなら頑張りたい。

 そう思ってしまうのです。


 いろいろなことで傷ついていて、普通に生活できていないような毎日の中で、文章を書く事は私を強く支えてくれて、壊れたり逃げてしまったりすることを防いでくれています。

 文章を書き始める前は子供の存在が私にとってその力を与えてくれるものでした。

 けれども今は子供は自分の道を自分で作るために頑張っていて、それまでのようには私を必要としなくなりました。

 だから私は今までできなかった、自分を作ると言うことを始めてみようと思いました。

 子供を追いかけても、子供も私も不幸になってしまうだけでいいことなんてないと思います。

 だからそうしてみましたが、実際にやってみると、これがとても大変で、失敗の連続、なんだかとても情けない気持ちにばかりしかなれません。

 だけど、長い間、自分を全部後回しにして生活してきた私にしてみると、そういうふうに失敗しながらであっても、何かに挑戦できるという事は、ものすごくありがたくしあわせに感じられてしまうのです。

 ゆっくりと吟味しながら食料品を買いに行くことすら、なかなかできずにいたからです。

 家族や子供が喜ぶものよりも、今自分が食べたいもの、今の自分に必要なもの、そう考えて買い物をすることも今まではほとんどありませんでした。

 子供の学費を貯めるためにギリギリまで節約して生活していました。

 だから本もほとんど買ったことなかったし、身に付けるものも本当に必要なものだけをセールになった時に買うような生活でした。

 それでも子供がしあわせになるために努力している自分のことを私はとても好きだったので今回はありません。

 そして今、全部の状況が変わってしまって、また別の自分を作る必要に迫られています。

 だから混乱しているし、どうしたらいいのかわからないことばかりなのですが、それでも前を向いて進んでいたらいいこともありました。

 あからさまに揶揄をしてきたり意地の悪いことを言われたりされたりすることもあります。
 だけど普通に明るい気持ちで対応してくれて、親切にしてくれる人たちも確実にいることか、行動してみて分りました。

 やはり前向きな気持ちで行動を続けていくことはとても大切なのだと改めて思います。

 実際に自分が年齢を重ねてみると、子供の頃や若い頃と内面的には何も変わっていないことに気がつきます。

 いろいろな経験を経て少しはわかるようになったことやできるようになったこともありますが、『自分』というものは意外とそんなに変わらないものです。

 だから、外側の状況や年齢を考えるよりも、素直な気持ちで『自分』に付き合って、自分らしい気持ちで何かを書いて表現できたら、何か新しいものが作れるような気もしています。

 若いって本当に素敵なことだし、大きな意味を持っていると思います。

 勢いも力もある。

 だからそれに大きな価値があることは確実です。

 そしてただ、年齢を重ねることだけに意味があるとも思いません。

 それでもやっぱり、そういうことを越えて、その人がその人らしくあること大きな意味があると思うので、私は自分らしく何かを書いて証言していきたいと思っています。

 それは消して年齢とか立場とかではなくて、私という個人、だと思っていて、私だけではなくて、年齢や立場を超えてその人らしく生きて表現をすること、そのことに大きな意味があるような気がするのです。

 だから他の人の表現や文章にもたくさん触れたいのですが、余裕がなくてなかなか今はできていません。

 今はまず自分が落ち着いていろいろなことに向かっていけるような状況を作っていく努力をしなくてはいけなくて、それをどうしたら具体的に進めていくことができるのか分からなくなっているので、そこからまず解決したいと思っています。


 たくさんの人たちが、他の人との比較ではなく、自分自身を素直に生きてそれをしあわせだと思えるような、そういう環境が広がっていったらいいのになぁ、そんな夢みたいなことを考えています。

 

ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。