自分でも読めない「書きなぐったメモ」みたいな文書
今年の夏は、特別なことはしなかったけど、毎日が充実した夏だった。
今年は、少し心に余裕ができたからか「埋める言葉」だけじゃなくて「届ける言葉」が使えるようになった。きっと、自分の変化に気が付けたからだと思う。今更だよね。もうひと言、がいま出てきた。
今年もそわそわする季節(秋)がきた。心がふわっと、少しだけ浮いてしまうような季節。秋は嫌いじゃないけど好きでもない。もう一度言うね、嫌いじゃないけど好きでもない。
ふわっとしている心を優しく包むように(自分で)、最近あったことをメモしようと思う。
・今朝、好きな作家が誕生日を迎えたことをInstagramで長文投稿していた。長文投稿って普段読む気になれないけど、この投稿はなぜか読んでしまった。そんな文章をぼくも書けるようになりたい
・先週は毎日忙しかった。ちょっと立て込んでしまった時、心に余裕がなくなってしまって素っ気ない態度を出してしまった瞬間があった。本当にごめんなさい、、もっと心に余裕を持てるようになりたい
・ずっとやりたかった「まちを取材する」ことがいまできている。すごく楽しい。それと同時にすごく難しい。いろいろと自分の甘さが出てしまっている、けどやり切るよ。楽しみにしていてね
(半年前に先輩の編集者に言われた、危うさ。の意味に、少し気が付いた気がする)
・次を考えている。今年は植物的発送で根を張って耐え忍ぶことにしていた。もちろんやり切る。でも、先を見ていないわけじゃない。
その上で助言が、道標が欲しい。そう、いままでとは違った動物的発想がほしい
・可変的でありたい。そう執着するのは、環境や状況で人の考え方や見え方はコロコロ変わってしまうことに振り回されたくないから。(これは他人だけでなく自分にも)
うん、きっと大丈夫。まだいける
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文章中に作者の気配を感じる、そんな文書がぼくはすきです。知らない人からしたら、なんだこれって感じだろうけど。ここに残しているのは脳ミソをだだ漏れにしているだけ。でも、ぼくの言葉だから。ぼくの声を知っている人だけに届けば十分なのさ
また今度