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スターシードの子どもたちは生まれた時から大人のハート ②ー1 (長女が生まれて)



長女誕生  

二人目の長女が生まれた病院も新しくて綺麗で開業医のクリニックでした。

最初は別のクリニックを受診していたけど、強迫神経症(潔癖症)があったから途中の妊婦定期検診にはなかなか行けなくて初回以降はたぶんほとんど受診しなかったのです。

予定日が近づいてきたので受診しようとしたら、妊婦定期検診をうけていないからという理由で出産を断られてしまいました。
予定日間近になっていたから慌てて他の産院を探して受け入れてくれたのが娘の生まれたクリニックでした。

2回目も帝王切開を余儀なくされてショックでしたが、もう他に探す時間もなくそこしかありませんでした。

帝王切開の当日は、またあの恐ろしい手術が蘇り手術台にのったら全身ガタガタ震えてきました。

背中の麻酔も恐怖で震えっぱなしで、手術が始まってもずっと全身震えが止まらなかったのです。

看護師に落ち着かないと赤ちゃんも怖がるから、と言われたけど、そんなことできるわけがない! 
無理 無理 無理 無理 
無理ーーーーーーーーーー!

赤ちゃんが取り出された瞬間はめちゃくちゃ震えまくっていたから、娘もずっと怖くてたまらなかったのだと思います。

産声というより、叫び声みたいに ギャーン、ギャーン、とギャン泣きの声でした。

1回目の帝王切開では、どんな風にされるのかわからないから固まった緊張感止まりだったけど、
2回目は、1回目の恐ろしいまな板の上の状態を全部がわかっているから耐え難い恐怖になりました。

幸い、娘の時は産湯が見れたのですが、手荒な看護師の対応に赤ちゃんは怖がって泣きまくりでした。

クリニックでは帝王切開を除けば当時の普通レベル対応で、母乳も直ぐにオーケー、術後の痛みも半減でした。

術後のあの恐ろしい痛みがまた襲ってくると思って半身麻酔が切れてくるといつ激痛がくるかと怯えていましたが、全然、1回目のような激痛にはならなかったのです。

痛み恐怖の潜在意識が変化していました。

命の本質(生命の実相)に繋がっていた時期でしたから、妊娠中は「甘露の法雨」という光の言葉で書かれた真理の詩のような内容を何度も何度も読み上げていたし、腹帯のさらしに写経をして巻いていて(当時はまださらし腹帯使用が残っている時代でした)本気で良くなることを信じて色々と真理の実践をしていたので、怖かった痛みは和らいでいました。

痛みも恐怖心ですから、恐怖の度合いで痛みの度合いも変化するのです。

全ては、自分の潜在意識が現しています。

当時はまだ宇宙情報に届いていなくて、その方法がその時のベストなご縁でした。


長男の時は術後トイレにも行けず痛み止めが切れたら起き上がることもできなかったし、二、三日はあまり歩けなかったけど、長女の2回目は回復もずいぶん早かったです。

なるべく早く動くように指示されていたので、トイレは最初から自分で起きて歩いて行きました。
めちゃ痛かったけど・・

術後、早く起き上がれて赤ちゃんのいる保育室まで娘を見に行きました。

娘は、私を呼ぶようにギャーギャー力強く泣いていました。
元気な泣き声というより、母親と離れた状態の悲痛な叫び声のようでした。

泣き叫ぶ声を聞いたら母乳がポタポタ出始めたので、
その翌日2日目から授乳開始になりました。

母になって始めての授乳でした。


長男の時に閉ざされた母子のふれあいは当然のように全部ありました。

術後、産院の個室に入って寝ていたら、直ぐに赤ちゃんを連れてきてくれておくるみに包まれた我が子をポンと枕元に並んで寝かしてくれました。


長男は母子同室でしたが、長女は母子同室ではなかったので、それだけは良くなかったです。

同室にしてほしい、と切に頼みましたが、聞き入れてもらえなかったです。


当時は母子別室の方が良いとするような古い概念がまだまだ強く残り、命の本質を誤認している医療の定義や考えからは解き放たれていない進化途上の中途半端な時代でした。

母子別室の方が母親の体に負担がかからないように、ゆっくり休められるように、という理由ですが、

命の本質からは、全く真逆です。 

母性本質の根本を履き違えている地球人感覚の一つです。

赤ちゃんと一緒にいる方がずっと安心して休まるのです。

赤ちゃんも一緒にいると全然泣かないけど、離れたらギャー、ギャー泣き叫ぶ意味が、病院側には全くわからないし、看護師の女性が全然わかっていません。

「こんなことがなんでわからへんのやー」と思いながら、母子の本質を私は実感していました。

時々長男が面会に来ていて、保育室のガラス越しにへばりついて、くいいるように赤ちゃんを見つめていた姿は今も鮮明に覚えています。

赤ちゃんのことが 
かわいくて かわいくて 
愛おしくてたらない
という感じでした。

毎日の母子同質タイムは、楽しみで楽しみで待ち遠しかったです!!

部屋に来る時はピタッと泣き止まっていて、嬉しそうな微笑みを浮かべてすまし顔でやって来ます。


「来たきた! 私の宝もの」

て感じで、直ぐに抱っこして数時間の母子水入らず時間中はずーっと抱っ子したままでいました。 


なんとも言えないあったか~い幸せに包まれて、
  
  スヤスヤ スヤスヤ 
   ふわふわ ふわふわ 

柔らかい心地いい安らぎの時間がいつも流れていました。 


あんなに心地良い穏やかな優しい時間は、あの時が最高でした。

毎日毎日光輝くひとときは、私と赤ちゃんだけの誰にも邪魔されない天の祝福だったと思います。


娘のことを
「なーな」と呼んでいました。 
「なーちゃん」とも呼びました。
私と長男だけの呼び名でした。


クリニックなので、退院のお祝い料理はめっちゃ豪華でした。


真っ白いドレスを着せてステキに退院しました。




退院してからの赤ちゃんとの暮らし 


退院直後しばらくは長男が実家に預けられていたので、夜以外は赤ちゃんと二人だけの暮らしでした。

新築戸建ての部屋には二階と一階にベビーベッドがあって一つはもらったものでもう一つは長男の時に使っていたものですが、とても便利でした。

朝起きて母乳を飲んで、お昼前後にはキッチンでベビーバスの沐浴をして、日中はゆったりと過ごせていたような気もします。


退院直後の生後2週間をすぎた頃のことです。

毎朝起きたらなーなを抱いて一階のベッドに移動するのですが、その日は朝早くよく寝ていたからそのまま二階のベッドの柵をしないで一階に降りて、少し離れた特別な部屋で自分の潔癖症対処をしていたら時間がやむおえず長引いてしまい、やっと二階に戻れたら、
なーなはベッドの下の床に落ちていたのです。

エーッ!

落ちてるー!


まさか、こんなに動くなんて・・・

長男はおとなしくて絶対にベッドから落ちるなんてなかったから、ベッドの柵も月齢か上がるまではしなくてよかったのですが、

娘はお腹でもよく動いて活発だったし…

落ちてしまいました

退院した直後だったからまだそんなに動かないと思っていたのです。

落ちてからけっこう時間が経っていたのか、床にうつ伏せになって泣き疲れたみたいで、
力なく「ふにゅ〜」と小さな声を出しました。

なーな!


慌てて抱き上げました。


床に落ちている小さな赤ちゃんなーなを見た瞬間

びっくり通り越して

一瞬言葉も出なくて・・


ごめんよ ごめんよ
早く戻れなくて・・

こんなとこに落ちてしまって・・

痛かったなー

どうもないかなー

よっぽど動いたんや・・

ずっとこんな状態で待ってたんや・・

誰もいなくて不安でこわかったなー

さみしかったなー


泣いて呼んでも届かないから泣きつかれてしまっていたみたいで、

小さな体を何度も何度も撫でて抱きしめていました。


よく眠っていてもいつものように一階へ一緒に降りるか、せめてベッドの柵をしておけばよかったのですが…ハプニングがおきる時はそういう何かがいつもとは違ってしまってるんです。


赤ちゃんが眠っている間に、普段はなかなかできない私の潔癖症作業をしていたから、

その間めちゃきつくてしんどい状態になるので、強い不安みたいな焦りみたいな波動を感じて起きてしまい、その波動に共振して強くバタバタ動いているうちに落ちてしまったのだろうと思いました。


強迫観念波動は普段の日常波動とは異なり自分を縛る強いエネルギーなので、硬くて重い波動になります。

頑張りまくるし、作業に集中する緊張感が続きマイナスエネルギーが強いから、離れていても赤ちゃんには恐怖感で全部通じてしまったのでしょう。

生まれて間もないから、やっぱりエネルギーは完全に繋がっているんだ、てことをあらためて実感しました。


寝返りをした頃、なーちゃんは時々コットンをくわえて遊んでいました。

他にもユニークなポーズやクセや動き方があって、明るくておもしろくてとーっても楽しい赤ちゃんでした。

午後は学校から帰った兄と遊ぶ毎日ですがこんなハプニングがありました。

つかまり立ちをしていた頃、ベッドの外にいたお兄ちゃんに届きたくて、両手を広げ柵から勢いよく乗り出した瞬間、頭から畳の床に向けて逆さま(?)に落下しそうになったのですが・・・

赤ちゃんなーなは、くるりんと前回りに空中で一回転してみごとに赤ちゃん着地をしたのです。

回転不足はなく、完璧な空中回転でした。

着地もしりもちをつかずに上手くピタッと決めました。

赤ちゃんオリンピックがあったら、アクロバットベビー部門のメダル候補です!


最初の子の時は離乳食を色々とたくさんこまめに作っていましたが、二人目では家族と同じ食事から柔らかくして食べることが多く、おかゆもあまり食べないから7ヶ月くらいでいきなりご飯を食べ始めました。
(どこにでもある子育ての景色かな…)


自宅では、強迫観念家事に追われてしまうので、産院でのようなゆったりしたふれあいはだんだん少なくなってしまいました。

あの頃は、まだ右掌ヘルペスの為の手袋をしてたし、とにかく頑張ってしまっていました。

特に自分ペースの自分軸ではなくて、「〜しなければいけない」だらけの封建的な潜在意識の中にはまっていたから、夫の為の家事をしなければいけないという昔のご主人さま中心の「主婦主婦」呪縛でした。

今なら絶対にそんなことに無理しないし、家事よりもまず自分ファーストで赤ちゃんと思いっきりゆったりと過ごしますよ!


敏感な娘はそういうストレスを感じてよく下痢をしていたから、退院した直後はしょっちゅうベビーバスでおしりを洗っていたのを思い出します。

皮膚がデリケートで拭いたら痛いからお湯でそっと洗ってました。

頻繁に下痢を繰り返した時はそっと洗ってもすぐまた下痢して・・
また洗って・・
何回も止まらなかった時もあり、とうとううっすら血が滲んできて赤ちゃんなーなは痛くて泣きまくり・・

大きくため息をついてなんとかしようとするのをあきらめたら、追われる焦りの波動から抜け出せてだんだん下痢も治まっていったような記憶も残っています。


退院後一ヶ月は、当時の夫が夕食を作りましたが、「一ヶ月だけ作ってやる」と、高圧的で義務的で、マニュアル的な会社のルールみたいに一ヶ月間と勝手に決めて一ヶ月でピタッと夕食作りは終了しました。

彼なりの前向き協力のつもりだったと思いますが…

彼の方がせかせかしていて、普段も強迫観念が強い人で、支配的な縛るエネルギーを吸い取られてしまう関係性でした。


今から思えば私はエンパスだから、彼から受ける支配的なネガティブ波動がかなり影響していたのだと思います。


産後あんなによく出ていた母乳は、だんだん出が惡くなってきて数ヶ月後には混合になって、1歳になったからということで母乳を終わってしまったように思います。


最初の夫との結婚はお見合いで、エネルギーを奪われるような感覚から逃れよう離れようとしたけど、母親が気に入りすぎて強い思い込み押し付けに「NO」と言い切れず、結局自分の望まない親の為の呪縛的な結婚をしてしまったという結果でした。
昔の家と家の結婚でしたから、幼少期から親の敷いたレールの被害者意識プロセスの最終地点でした。

大学は父親が喜ぶ為の選択をして、それまでも幼少期からずっと両親の為のお利口さん人生を選択してきた典型的な他人軸自己犠牲(地球体験)シナリオでした。

そんな結婚でしたから、私は夫を潜在的に全身拒否していたし、二人目は不可能だと思っていたけど、命の本質へ導かれはじめて奇跡的にその時だけ不思議な調和の力が働いたみたいで念願の女の子が生まれたのです。

赤ちゃんがどうしても降りてこないといけない時は、上で大きな力が働いて調整をすると知人が言ってました。

その1年後には子ども達から背中を押されて離婚が成立しました。

なーなは母の私を離婚へ導いて、
次の光のステージへ進む為に生まれてきてくれたような赤ちゃんでした。

(同じ頃、長男は父親に離婚メッセージを伝えていました)
  

これ以上、子どもの為に我慢と忍耐と努力の家庭生活(良い主婦の自己犠牲)を頑張るなという子どもたちからのメッセージでした。


長男と共に命の本質へ繋がって、そこになーなが降りてきてステージが進みました。


こうして文字にしていると、めちゃくちゃかわいかった赤ちゃん時代を再び感じることができて嬉しくなります。



退院後、長男&長女の愛と光のステージがはじまります。

この時のことは別の記事に書いてみます。


兄と妹の幸せふれあいは、
前の記事「スターシードの子どもたちは生まれた時から大人のハート ①(長男が生まれて)」
長男のハッピー妹育て
にも書いています。



関連記事として、帝王切開で生まれた第一子と第二子から3番目の子の自宅水中出産体験記をブログの一番最初に投稿しています。

https://note.com/tanoshiiuchuujin/n/na6a950b415d8

https://note.com/tanoshiiuchuujin/n/nca7b9087fdc0


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🍀幸せをありがとう
🍀叶うからねがう




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