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褐色細胞腫闘病記 第5回「鼻血とヌートリア」

朝の光が柔らかい。風のにおいもどこか初秋めいて、絶好のサイクリング日和だ。朝からお弁当を仕込む。一人分作るのも家族分作るのも一緒なので、4人分拵える。

「お姉ちゃん、ひとりでサイクリングなんて寂しくないの?」
「うん、自転車せっかく新しく買ったし、ちょこっとその辺ぶらぶらするだけだから」
私は久しぶりのサイクリングにちょっとウキウキしている。

出張先の彼氏から電話がある。
「俺が一緒に行けたらよかったんだけど、無理すんなよ」
「お弁当に春巻き作ったんだよ」
「ぼーっとしてその辺の犬とか鳥とか狸に食われんなよ」
おいおい、どんだけ田舎なんだよ私の住んでるところは。

私の家の近くには大きな川が流れている。土手の上に自転車ロードがあるので、そこをまっすぐ走る。川風がとても心地いい。自然と鼻歌が出る。

「ハぁーバーぁライトがぁ朝日にかわぁ~るぅ♪ そのときぃ~いちわの~カモメーがーとーんーだぁぁぁ~~♪」
…いや我ながらあまりにもこの歌は古すぎないか。しかもここは海じゃねぇ。ここにいるのはカモメじゃなくてでっかいサギとドバトだ。
でもいいんだ細けぇことはいいんだよ。今日は朝から久しぶりに体調がいいんだから。

土手に座って川を眺める。私は河川が大好きだ。川のせせらぎに光が反射し、柔らかい色と水影がさらさらと流れる。川をずっと見ているとなんだか嫌なことが全部流れていくように感じる。
河川敷でゲートボールをしている老人たちがいる。みんな元気そうだ。楽しそうな嬌声がここまで聞こえる。
自分で作ったお弁当を広げる。我ながら旨そうだ。ちょっとお昼には早いけど、食べようっと♪
「いただきまーす♪」

春巻きを頬張っていると、土手の向こうの草むらに何か蠢いている。
あれ、まさか本当に狸かしら笑えるわ、と思っていたら、違う。
あれは間違いない、ヌートリアだ。え、何? あれってこんなところにいる生き物なの?
私は戸惑ってじっと見つめる。目が合う。ヌートリアはすっと隠れる。
急に野生動物に囲まれる自分を想像して怖くなり、急いでお弁当をかきこむ。

その時。
お弁当のごはんが、赤く染まる。
みるみる私の手が血で染まる。え、何。なんでこんなところでまた鼻血?
幸いタオルを持ってきていたので、鼻を抑えながら土手に寝そべる。
口にのほうに血が回ってくるのがわかる。血の味がする。気持ち悪い。
口のほうに回った血をタオルに吐き出す。
その時、ゲートボールをしていた老人の一人が叫ぶ。
「おい、あそこに血を吐いてる人がいるぞ!」

いえいえ、ちがいますただの鼻血ですと言っても聞こえやしない。
誰かが救急車を呼んでいる。やめてってば。違うんだってば。やめて。ただの鼻血で大げさにしないで。
その時、救急車に乗っていれば、血圧が異常値を叩き出していただろうということはすぐに判明していたはずだ。
でも、私は新しい自転車を置き去りにするのが嫌だったし、気分良く出かけてきた一日を台無しにしたくなかった。
私は鼻血が止まったのを確認して、自力で帰宅した。

「あれ、もう帰ってきたの?」
母が怪訝な顔で私の顔を見る。
「あれ、こうこ、何それ血の跡よね」
「あ、なんでもないから」
私は川辺にいたヌートリアよりも素早く自分の部屋に隠れる。
エアロビクスで倒れ、サイクリングで鼻血を出し、私はこれからどうしたらいいんだろうか。

その日の夜、私は再び鼻血を出した。
さすがに不安になる。きっと鼻がどうかしているのだろう。近々耳鼻咽喉科に行こう。
私は家族に隠れて鼻血の処理をする。
彼氏から電話がある。
「どうだった? 楽しかった?」
「うん…なんか、鼻血がね、」と言いかけてやめる。
「はなぢ? あはは。なに言ってんの?」
「あ、なんでもない。ところで、ヌートリアを見たよ、びっくりしたよ」
彼氏はそれは気のせいだと笑う。違うんだよ絶対いたんだよと言いながら、私の鼻血も、毎日の具合の悪さも気のせいだったらどんなにいいだろうと、言いようのない不安の靄が私を包み込み始めているのを、ゆっくりと、だけど確実に心に感じ始めていた。



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