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褐色細胞腫闘病記 第6回「奇跡の確定診断」

やはり、何の異常もなかった。
耳鼻咽喉科からの帰り道、私は車の中で心底落胆していた。
「いやあ、どこにも傷はありません。綺麗なものですよ。わはは」
禿頭の医師のどこか揶揄したような目つきと笑い声が蘇る。
〈鼻血を出すのはタマってる証拠〉という俗説を流した奴に名乗り出てほしい。一発ぶん殴りたい。

珍しく今日はなんだか寒い。
家に帰って熱を測ってみる。38.0の数字が出る。喉も痛い。
どうやら風邪を引いたなこれは。悪寒がしてくる。なんだかやんなっちゃうなあと思いながら、ピアノの生徒に今日はお休みしますと連絡を入れる。
それを見ていた母がすかさず「なんで今日仕事休むの?」と聞いてくる。
「なんだか熱があるみたい」体温計を母に見せながら答える。
「じゃ、宮田先生のところに行きなさいよ。お薬もらってきなさい」

宮田先生というのはかかりつけの、私がそれこそ幼稚園くらいのころから通っている近所の小さな町医者である。70歳を過ぎた宮田医師だが、どこでも診断がつかなかった母の肥大型心臓病を見抜いた医師で、母はこの医師を心から信頼している。
そうだな、宮田先生の顔を見ればちょっとは元気が出るかもしれないな。
市販の風邪薬を飲むよりは処方薬のほうがいいだろうしな。
軽い気持ちで私は自転車でその小さな病院に行く。

「おー、こうこちゃん、久しぶりだね。いくつになった?」
「やだなあ、先生、私30歳とっくに過ぎたんですよ、いくつになったとか聞かないでくださいよぉ」
「お母さんが言ってたけど結婚近いんだってね。おめでとう。よかったなあ、もらってくれる人がいて」

ああ、なんだろう、すごい癒されるなこの感じ。やっぱり小さい頃から診てくれてる先生っていいなあ、と和んでいると、ふとクラっとめまいがする。
「あれ、どうした? 気分悪い? 今日は熱があって来たって問診見たけど、それだけ?」宮田先生が脈を取る。
いつも優しい老医師の顔が、見たことのない表情になる。
「こうこちゃん、脈、速すぎるけど、今苦しいよね?」
「あ、はい、まあ、苦しいといえばずっと苦しかったかもです」
先生が看護師に大きな声で指示する。
「バイタル測って!  早く! こうこちゃんはこっちのベッドに寝て!」
血圧を測る看護師の顔も厳しい表情だ。
「先生!   220-195です! 」
ええええなんですかその数値は。嘘ですよね。血圧計、壊れて…ないですよね、さすがにここは病院ですもんね。

「こうこちゃん、この数値はね、本来なら入院しなければならない数値だよ。急にこんなになったってことはないよね。昔から血圧はずっと低かったと思うけど、これはいつからなの?」
…ああ。そういえば、家で測ったときいつも高かったっけな。でも血圧計が壊れていると思い込んでいたんだ。いや、思い込もうとしていたのかもしれないな…
私は家で測った血圧の数値をすべて思い起こす。気にしていないと言いながら、実はしっかり数値を記憶していた。私は口頭ですべての数値を伝える。先生は数字をカルテに書き込みながら、何やらうんうんぶつぶつ唸っている。
そして、顔を上げ、意を決したように私に告げる。

「血圧を下げる薬をゆっくり点滴するからね。徐々にラクになるよ。ただね…その歳でこの血圧ね…ちょっと気になることがあるんだけど、血圧落ち着いたらおしっこ採らせてもらっていいかな。採血もするね。それと、CT撮らせてもらうね」
近々宮田先生の長男がここを継ぐらしく、偶然にもこの病院に初めてCTが導入されたばかりだった。いやでもなぜ血圧が高くてCTを使うんだ。訳がわからない。

CTを撮影したあと、宮田医師が深刻そうな顔で私を診察室に呼ぶ。
目の前に私の内臓が映し出されたCTの画像が吊される。
「ここね、副腎っていう親指くらいの小さな臓器なんだけど、こうこちゃんの左の副腎ね、今直径25センチ近くあるんだ。これ、白いの、腫瘍なんだ」
は? 何を言っているのかが全く理解できない。
「一日も早く、大きな病院に行って。こうこちゃん、いつから具合悪かったの。私のところに早く来てくれたらよかったのに…」
「え~っと、あの、なんで副腎というものが、大きくなっているのですか?」なんだか狐につままれたようだ。
宮田先生の顔をじっと見る。
ぎょっとする。先生の目に涙が溢れている。えっ。どうしたの先生。

「 "褐色細胞腫" っていう病気があってね。こうこちゃんはその病気の可能性が高いんだ。それでね、もうすでに肝臓にも転移しているようなんだよ」
かっしょく? サイボーグ? なんやそれカッコええやんけ。
宮田先生が体ごと前を向く。
「この病気はね、ほっんとうに珍しい病気なんだ。大きく腫瘍化した副腎がね、血圧を上げるホルモンをたくさん出すんだよ。でもなかなかわからない。珍しすぎてこの病気はすぐには診断されないんだよ」
「え、どうして宮田先生はすぐにわかったんですか」
「実はね」 
宮田先生の涙が瞳からもう零れそうだ。

「私の母親が褐色細胞腫で亡くなって、つい半月前に葬儀をあげたばかりなんだよ」
「ええっ」
「でも褐色細胞腫だったって判ったのは、解剖後だったんだ。ずっと血圧が高くてね。具合が悪いつらい、暑いっていつも言っててね。でももう90歳で、いろいろ具合が悪いのは仕方がないと思っていたところが私にもあってね…医者の私ですら、まさか内臓に腫瘍があるとわからないで死なせてしまった…」
宮田先生がうつむく。私は言葉を失う。

なんて偶然なんだろう。
後年、この話をすると偶然にしては話ができすぎていると信じてもらえないが、語弊はあるが宮田先生のお母様の前例があったから、私はここで確定診断していただけたんだと思うと、なんだか目に見えない何かの力を感じていた。

後日、尿検査で異様という言葉をも凌駕するほどのカテコールアミン(※1)の数値が出た。平常値の200倍。そのとち狂った尿検査の結果と宮田先生の紹介状を持って大学病院に出向いた。



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※1 副腎髄質から出るホルモン(アドレナリン・ドーパミン・ノルアドレナリン)の総称。アドレナリンとノルアドレナリンには心拍数、血圧の増加および上昇、血管収縮、細気管支の拡張、代謝を促進させる特有の効果がある。私が暑がっていたのは代謝が上がっていたため。
通常、カテコールアミンは危機を感じたり闘ったり逃走していたり焦ったりしているときに出るホルモン。

注:  褐色細胞腫の症状の出方は千差万別、個人差が大きいです。中にはまったく無症状の方もおられます。当闘病記に記された症状はすべての褐色細胞腫の患者に当てはまるものではありません。



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