
走り出したい、しゃがみ込みたい
最近の東京は暖かい。暖かいはさすがに言い過ぎかもしれないけれど、少なくともとても寒いという感じはしない。冬ってこんなもんだったっけと思う。そうこう考えているうちに春が来て、桜が咲いて、うだるような暑さの夏が来て、銀杏が町中を埋め尽くす秋が来る。そして、冬にはまた寒い寒いだの意外と暖かいだのを言い合うのだ。
当たり前だけど、日本には四季がある。東京の四季と、生まれ育った北海道の四季はちょっと違う(東京は夏が長すぎるし、北海道は5月に桜が咲いて、10月後半には雪が降る)けど、やはり四季があることには変わりはない。僕は海外に行ったことがほぼない(3歳が最初で最後だ)から、四季がない暮らしがどのようなものか想像もつかないけど、衣替えや灯油のことで頭を悩ませなくていいから、穏やかな国民性になるんじゃないかと思う。そういうことにしよう。
春には春の、夏には夏のにおいがある。秋の空と冬の空の色は、同じようでちょっと違う。特に春の空気に身を包まれると、なんとなく胸がザワザワしてきて、不安になる。あのちょっと甘い緑のにおいを鼻から吸い込み、柔らかな日差しに照らされ、草花ば芽吹く地面に立っていると、言いようもない不安に囚われる。走り出してしまいたいような、その場にしゃがみ込んでしまいたいような、そんな不安。
毎年この季節になると、僕は色々な人にこう質問してまわる。「春ってなんか不安になるよね」と。大抵の人は「なんでなんで?」と説明を求めてくるか、「ごめんわかんない…」と困った顔をしてくるかだけど、たまに満面の笑顔で「わかる」と言ってくれる人がいる。想像つかないかもしれないけど、こんなに嬉しいことはない。
四季があることのメリットは、内省的になれること。そして季節の変化の感じ方を人と共有できることだ。同じように感じる人もいれば、全く共感できない人もいる。でも、みんなで季節のおいしいものを食べたらみんなが幸せになる。そういうものだ。
中学生くらいの厨二病真っ盛りの頃、本気で思い悩んだことがある。人はみんな同じ世界に生きているのか、それとも一人一人別の世界に生きているのか。
どちらでもない、というのが僕の現時点での答えだ。人類みな兄弟と素直に言えるほど世界は単純ではないし、みんながみんな別々の世界に生きているなんてあまりに救いがない。
切り取り方の問題なのだと思う。ありふれた日常の中の同じ風景でも、それをどう切り取るかは人によってまちまちだ。そして各々が切り取った世界の断片で、自分の世界を構築していくから、他人の世界と自分の世界がひどくかけ離れて思えるのだ。
僕の生きる世界を構成する世界の断片を紹介しよう。味噌汁(さつまいも入り)は汁物界の王者だ。電気ポットが沸騰する直前になると、波の音みたいな音を出す。冬場にトイレの便座が温かいだけで幸せになれる。入浴剤入りの湯船に浸かると癒されるけど、僕はのぼせやすいから調子に乗って長居しない。いいことがあったらケンタで和風カツバーガーを買って食べるといい。
生きることが寂しいとは思わない。確かに人は本質的には一人ぼっちで、自分と丸ごと同じ世界を共有する人なんて存在しない。だからこそ、世界の小さな断片を理解し合える相手を、僕たちは求めてしまうのだと思う。そこに生まれるあたたかな共有の瞬間こそ、生きることの楽しさであり、美しさだ。