日常を彩る「好奇心」
最近の個人的な悩み、それは「好奇心が薄れてきているのではないか」というものです。
今までの人生の中で、好奇心が一番強かった時はいつかと考えると、それはきっと小学生の頃だったと思います。
あらゆるものに疑問を持ち、毎日新しい発見ばかりで、時には好奇心のあまり周りに迷惑かけたり、周りや自分自身を傷つけたり。
もちろん、いまさら小学生の頃のような「圧倒的な好奇心」を取り戻せるとは思っていませんし、取り戻そうとも思っていません。
なんなら、日常生活の中で好奇心が薄れてきて困ることはそんなにないです。好奇心がなくとも、そんなことにはお構いなく毎日は進んでいきます。
では、僕が「好奇心が薄れている」ことに悩んでいるのはなぜかというと、好奇心が薄れることによって、「退屈だ」と感じることが増えたからなのです。
とはいっても別に毎日が暇で暇でしょうがないというわけではなく(社会人の先輩方からしたら大学生は暇の極みかもしれませんが)。
授業と課題、バイト、遊び、ちょこっと就活と、忙しくはないが暇とは言い切れない毎日を過ごす中で、ふと退屈だと感じることがあるのです。
退屈については、國分功一郎教授の『暇と退屈の倫理学』に詳述されています。
僕が理解している範囲でざっくり説明すると、現在の人間が退屈せずに生きることはできないので、退屈と向き合う必要があると述べています。
「退屈だ」と感じると、人は「自分がやるべきことはこれだ!」と自分に信じ込ませ、没頭しようとします。仕事や自分磨き、もしかしたら就活も当てはまるかもしれません。
しかし何かに没頭していても退屈は感じます。例えば、「自分磨きのためにジムに通っているのに、使いたいマシンがなかなか空かない」という時です。
そしてその退屈を受けて、また新しい「やるべきこと」を探し、さらに退屈するというループにハマってしまうのです。
このようにループにハマるのではなく、日々の退屈さを受け入れながらその中に楽しさを見出すことが重要だとされています。
そして、退屈さの中に楽しさを見出すことに必要不可欠なのが、好奇心だと思うのです。
一見退屈に見える毎日でも、好奇心あふれる人が見ればワクワクの宝庫になる。
それはまるで、家と保育園、小学校の往復しかしていない子どもが決して退屈しないのと似ているように思えます。
回りくどくなってしまいましたが、僕の悩みは、「退屈の中にワクワクを見出す好奇心が薄れているのではないか」ということになります。
ある人が好奇心についてこういっていました。
「自分が興味ないことでも、一旦見たりやってみたりして、魚の骨をどんどん育てていくんだ。大きく育った骨で世界を生きていると、自然に身が集まってくる。」
自分の文脈にない要素を取り入れ、骨(アンテナ)を伸ばしていく。その状態で世界と対すると、今まで見えなかった世界が見えてくるということだと思います。
まずは、身の回りの人に好きなこと、ハマっていること、熱くなれることを聞いてみることから始めたいと思います。
最後までご覧いただきありがとうございました。これからもよろしくお願いします。