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成人式には行かなかったけど、大人のふりはできるようになった
今日は成人の日だ。成人式は1月の第2月曜日と定められているらしく、去年は8日だった。僕の大学は1月4日から新年最初の授業が始まるので、僕が二十歳だった去年は、年末年始に帰省し、4日の授業に間に合うように東京に戻り、また6日から帰省して成人式に出るという怒涛のスケジュールだった。今年は成人の日が13日と遅いからここまでバタバタしないかもしれないけど、年末年始の休みも長かったからあまり変わらないのかな。
成人式に出たと言ったが、実は僕は高校の同窓会には出たけど成人式には出ていない。こう書くと中学時代に嫌な思い出があった人みたいに見えるかもしれないが、決してそんなことはない。ただ、今でも仲がいい人とは繋がっているし、わざわざ行かなくてもいいか、と思ってしまったのだ。高校の同窓会の会費が高めだったことも、他の同窓会や成人式に参加しない言い訳になってくれた。
高校の同窓会は、昼の1時ごろから始まり、3時には終わる予定だった。その後は皆さんにお任せします、ということだ。ホテルの宴会場を貸し切る、というパワープレイによって、会場はとても広く、ごはんもおいしかった。ただ、シャイボーイ日本代表の僕にとっては、料理を配膳したりお皿を片付けてくれるホテルの従業員の方々が僕らのことをどう思っているのかが気になってしかたなかった。「同窓会でわざわざホテルの宴会場貸し切るなんて」「若造のくせにうるさい」みたいなふうに思われているのかな、とふと考えてしまう。
2時間の同窓会のうち、最初の1時間は決められたテーブル内で話し、あとは席を立って自由に歓談、と決められていた。最初のテーブル分けは事前に共有されていたのだけど、幹事の人はこの席順を決めるのにとんでもない労力をかけたんだろうなと想像できる席順だった。テーブル内で誰一人として孤立しないよう、みんなが必ず一人は友人(と呼べなくても少なくとも会話ができる人)と同じテーブルに配置されていた。さらに、高校時代に付き合っていたけど卒業後別れた人とか、部活内の女子争いの結果気まずくなっている人たちはさりげなく離れたテーブルに配置されている。こういうことをちゃんと考慮してくれる人には本当に頭が下がる。
同窓会は楽しかった。僕はお調子者キャラの友人がいて、上京仲間として今でもたまに会っているのだが、彼と一緒のテーブルになったおかげで和やかに話ができた。もちろん違う土地で違う大学に入り違うコミュニティに属する人たちが急に集められるわけだから、すごく親密に話すのは難しいけど、それなりにはどうにかなる。後半はテーブルを立って、昔の部活の仲間と話したり、昔付き合っていた人を横目でチラチラ確認したりと、同窓会らしいことも一通りできた。
2時間の同窓会が終わると、すぐに帰る人もいれば、仲が良かった友人同士で集まって二次会をどうするかの相談を繰り広げている人もいる。正直どっかの二次会に参加しても良かったのだが、まあいいかと思うことにしてそのまま帰った。同窓会のテンションで忘れていたけど、本来僕は飲み会が苦手だ。慣れないことはしないほうがいい。
家に帰ると、母から「ずいぶんとやつれてるねえ」と言われてしまった。やつれてるってなんだ、せめて疲れてるくらいにしてくれと思いながら、体にうまく力が入らない自分のことも自覚していた。楽しかったけど、とんでもなく気疲れしていたみたいだ。2時間の同窓会でこうなるくらいなら、他の同窓会や成人式に行かなくて良かったと心から思った。
二十歳を迎えた時に思ったのだが、大人は大人のふりをしているだけなのだ。社会人は社会人のふりをしているだけなのだ。中高生からしたら二十歳なんてとんでもなく大人で、賢くて冷静なイメージがあったけれど、いまだに中高生と同じようなことで悩み、苦しみ、また同じようなことで喜んでいる。結局のところ、人間というのはそう簡単に変わらないようだ。きっと死ぬ間際になっても今と同じようなことを考えているのだろう。
その意味で、「成長」とは表面上のことに過ぎないし、言い換えれば表面上の取り繕いが上手くなるということなのかもしれない。大人になればなるほど、表面のバリアだけが分厚くなり、いいことも悪いことも簡単には内側に通さなくなる。だからこそ、そのバリアを突き抜けてくる悲喜こもごもの感情を、より深く、豊かに受け止められるようになるのかもしれない。良くも悪くも、それが「大人になる」ということなのだろう。新成人のみなさん、おめでとうございます。