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エッセイなんて誰にでも書けるけど

昼食を作りながらYoutubeを流していると、パーカーさんの動画が出てきた。懐かしすぎてニヤニヤが止まらなかった。


高校生の頃によく見ていたチャンネルで、彼のエッセイ本が出た時には模試終わりに本屋さんに買いに行った記憶がある。相変わらず大学ぼっちの日常が淡々と投稿されていて、特段目を引く事件も爆笑ポイントもない。部屋が絶妙に汚くて、食生活のズボラさも健在だ。それでも、画面から伝わる確かな生命力に、また惹きつけられてしまう。



僕自身はぼっちで悩んだことがあまりない。友人の数は多くはないけれど、ありがたいことに一緒にいてくれる人が数人はいたし、興味を持って話しかけてくれる人もいた。けれど、僕はなぜかパーカーさんに勝手な親近感を感じてしまう。大変おこがましいけれど、それは人生の歯車がちょっと組み変わったら僕がパーカーさんで、パーカーさんが僕だったんじゃないか、みたいな感覚があるからかもしれない。村上春樹の小説の主人公たちにも同じような感覚を抱くことがあるけど、(画面上とはいえ)リアルに存在する人に「この人はもしかしたらもう一人の僕かもしれない」みたいなことを感じるのはパーカーさんだけだ。



彼の動画を見ていると、「エッセイ」というものを考えさせられる。ここでいうエッセイとは何か特別な文章を書くというよりは、自分の身の回りにある景色や感情をある種の「形」にする作業のことだ。それは必ずしも文字である必要はなくて、話す方が楽な人はラジオでもいいし、動画を撮るのが好きな人はYoutubeでもいいし、アートが好きな人は絵や工作物でもいい。なんなら友人とマシンガントークを繰り広げるのだって立派な表現だ。要は日常生活を繰り返す中でゆっくりと培われてきた世界観や考え、感情をなんらかの形にして吐き出す、それがエッセイの核心なのだと思う。



もちろんエッセイには上手い下手の差はもちろんあるけれど、それは編集者やらアドバイザーやらコンサルやら、今後はAIの力でずいぶん補えてしまう部分だから、組み立ての巧拙や表現の綺麗さはエッセイの本質ではないと思う。だからこそ、エッセイを書くこと自体のハードルは、決して高くない。



どんな人にも「エッセイを書く」可能性が開かれているからこそ、一見すると数字がものを言う世界のようにも思える。再生回数が多い動画は「面白い」とされ、売り上げが多い本は「読みやすい」と評されるからだ。しかし実際のところ、数字というものは意味を持つようで持たないし、持たないようで持つ、不思議な指標だと思う。



数字は、多くの人にとって「何かしらの魅力があった」ことを示してくれるけど、作品や表現の本質的な価値が数字だけで決められてしまうわけではない。数字の背後にあるのは、作り手がどんな景色を見て、どう感じ、どんなかたちで表し、何を伝えたかったのかということ。そこに共感したり、感動したり、あるいは自分の世界観が揺さぶられたりするからこそ、「エッセイ」には力が宿るのだろう。



 「エッセイ」を書く側に立つならば、誰にでもできることだからこそ、結局は日常の中で自分のなかに生まれる感覚や思いを素直に見つめるしかないのだ。そんな営みを続けていくうちに形作られていく自分の世界がある。そこから生まれる一篇一篇こそ、その人にとってかけがえのない証になるのだと思う。


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