人生に偶然性を受け入れると、人に優しくなれる
「努力は必ず報われる」という言葉について、どう思いますか?
仕事や部活、勉強などで努力した結果、良い成果を収めたことのある人は、「その通りだ」と思うでしょう。
逆に、自分なりに一生懸命努力したのにも関わらず、不甲斐ない成績で終わってしまった経験がある人は、「そんなことない。努力は当てにならない」と思うかもしれません。
では、仮に努力が当てにならないとするなら、何が成功の条件なのでしょうか。
パッと思いつくのは、運です。もっと言えば、運命、偶然性。
「自分が成功したのは、運が良かったんだ。偶然の賜物なんだ。」
「自分が成功することは、運命で決まっていたんだ。だから自分が頑張ったとか、全力を尽くしたとか、そんなことは関係ない。」
もし成功者がこのように語っていたら、やけに謙遜する人だなと思うかもしれません。しかし、僕はこの考え方を持つことが、楽に生きるために必要だと思うのです。
そもそも、一般的に成功とは何かを考えてみます。例えば受験では、偏差値50とか、55以上の学校に合格すれば成功とみなされるでしょうか。
しかしその場合、ざっくり半数以上の人は受験に失敗していることになります。
仮に成功のラインをもっと上げていけば、成功者はほんの一握りで、ほとんどの人は失敗者ということになります。
ここで注目したいのは、「成功者」という地位の危うさです。
受験というカテゴリーで見ても、高校受験時の秀才が大学受験でも成功できる保証は一切ないし、他のカテゴリー(例えばスポーツ)から見れば、いくら秀才でも甲子園球児からすると失敗者なのです。
ほんの一握りの成功者が、その地位の危うさに怯えながら「自分の成功は努力の賜物だ」と宣伝する。そして、彼の得意分野では「失敗者」である人の得意分野を認めようとしない。
努力によって成功がもたらされると考えると、人に優しくない社会になってしまうと考えています。
では、「成功は偶然、運命によるものだ」と考えるとどうでしょうか。
自分が受験で成功したのは、たまたま現代の日本に生まれ、学校に行ける環境で育ち、教育にお金をかけてくれる両親がいて、たまたま「勉強を頑張れる」性向を持っていて、無事受験会場に辿り着き、さらにたまたま運が良くて合格したからだ。
このように考えると、自分が成功したのは、いろいろなもののバランスがたまたまうまくいったからだと認識できると思います。
そして失敗者に対しても、「自分がその人であった可能性」を考えることができるようになります。
自分はたまたま運良く成功したが、失敗する可能性も全然あった。
そうすると成功者、失敗者の区別なく、あらゆる人を「自分がなり得た姿」として認識できるのです。
ならば、自分にも期待せず、頑張れない自分を責めることなく、相手にも期待せず、相手に優しくなれるのではないでしょうか。
自分のことも相手のことも、等身大の存在として受け入れる。そんな社会になったら素敵だなと考える、今日この頃です。
最後までご覧いただきありがとうございました。これからもよろしくお願いします。