
第7回 短歌読書会――穂村弘『短歌という爆弾』小学館文庫
前回(第6回)に引き続き、「3 構造図」を節ごとに解釈しながらまとめていきます。
液体糊がすきとおり立つ――入力と出力 p.195
スピリタス烈しき酒は澄みとほり壜に不在を装ひて立つ
”入力”と”出力”
入力:外界を感受すること(感受)
詠うべき対象をどのように捉えるか
ex.見る
短歌を読み慣れていない人にもその魅力が理解しやすい
出力:感受したものを実際に言葉で表現すること(表出)
捉えた対象をどのように詠うか
ex.言葉で写す
ある程度歌を読み込んでいないと伝わりにくい
現在はシンプルな入力型の作品が力を感じさせる時代である。=ジャンルとしての短歌固有の力の衰弱
原子力発電所は首都の中心に置け――心を一点に張る p.206
作者の想いのすべてが一点に込められていることで、万人に迫るような力になる。
廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て
最後に置かれた「来て」の二文字のみによって、相聞歌として成立している
この歌からは、確かなものは何ひとつないというメッセージが読み取れる。
→作者の想いのすべてが「来て」の一点に張られている
生理中のFUCKは熱し――ホームランとファールチップ p.214
いれてあげてもよくってよぶぶぶぶっぶぶぶ鳥肉を吐き出すおんな
⇒”失敗作”
にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった
⇒”成功作”
「心を一点に張る」ことに関連しているように思う
歌の中の要素や語彙の大胆な組み合わせによって、歌として当たるかどうかのホームランとファールチップが発生する
吊輪びちびちと鳴りだす――身体という井戸 p.221
限りなくつらなる吊輪びちびちと鳴りだすだれもだれもぎんいろ
最終的にはひとりの作者の有する身体的な実存感覚に根ざしていることに起因している
〈余談〉
ひな:結局、実存感覚ってどう説明したらいい?
コト:チョムスキーの言語学の赤ちゃんの話を思い出した。ユニバーサルグラマー(普遍文法)。参照URL↓
https://www.nihongo-appliedlinguistics.net/wp/archives/9615
ピアノの上でしようじゃないか――マンモスの捉え方 p.230
手をひいて登る階段なかばにて抱き上げたり夏雲の下
実存肯定に根ざした身体的な実存感覚がオノマトペとは別の表現に結びつくケース
=作品内部のデータの意識的な欠落を利用して逆に詩的実感を強化するという手法
5W1H(いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どのように)のデータの明示が意識的に避けられている
↑データを明示することで、どれもが歌謡曲的なわかりやすさでまとまってしまう
=想像の余地をつくるということ
ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ――灼熱の心 p.238
答案また問題文は繰り返し読みて間違ひなきを確かめよ
全体を俯瞰すべき教師が一点のみにしか視野がない
ただの眼前の局所にのみ、全身で本気で没入する
ex.局所主義
目の前の事象に対する限度を超えた意識の集中が、日常的な認識のフレームをばらばらにして、聖なる見境のなさといったものを生み出している。
真面目過ぎる「過ぎる」部分が駄目ならむ真面目自体(そのもの)はそれで佳しとして
詩的な世界を開くためには「真面目自体(そのもの)」には何の意味もなく、「過ぎる」部分にこそ生命が宿る。
次回は残りの4節と終章をやります。
短歌という爆弾は次回で最後になります。