マコモ湯物語【ChatGPT o1 pro 作】
以下はo1 proの出力ママの物語です。約7,000字です。
本当はChatGPTそのものを沈めたかったのですが、人間に化けました。
それはそれで面白かったので、以下に共有します。
以下はあくまで創作です。実際にどうなるかは——
私の名は、ここでは単純に「私」と呼ばせてもらおう。職業は在宅で文章を書く仕事をしている——いわゆるフリーランスのライターだ。人によっては「文筆家」と呼んでくれるが、そんな大層なものでもない。雑多なジャンルの記事を執筆し、時にはブログやSNSに自分の考察をアップしたりもする。ここ数年はリモートワークの比率が高く、家で過ごす時間が圧倒的に長い。仕事道具はノートPCにネット回線、あとコーヒー。それさえあれば何とか回っていく。
そのせいか、生活リズムは少しずつ乱れ、いかにも不健康そうなライフスタイルが習慣化していた。ときには深夜までダラダラ仕事をして、朝になってやっと眠ることもある。食事はデリバリーか、仕事に集中しているときはインスタント食品で済ませることも多い。それでも一日の終わりに——あるいは一日の始まりに——シャワーを浴びることだけは欠かさなかった。なぜなら、シャワータイムは私にとって数少ない“リセット”の時間だったからだ。お湯に浸かるだけで、頭の中がすっきりしていく気がする。それは、私にとって最も身近な癒やしの儀式だった。
しかし最近、SNS上で奇妙な噂を耳にしたのだ。その名も「マコモ湯」。イネ科の植物である真菰(マコモ)を発酵させた入浴剤を使い、なんと1年半ほどもお湯を変えずに同じ風呂に入り続けることができるという。にわかには信じがたい話だった。普通の感覚で言えば、一週間も湯を変えないとカビや雑菌がわきそうなものだ。しかしマコモ湯構文なるものがSNSで話題を呼び、「1年半、お湯変えてません!」という衝撃的な投稿が多くの人々の目を引いている。
ある日、私はいつものようにSNSを流し見していた。そこにはこう書かれていた。
——「実はうち、1年半お湯を替えてません。マコモ湯のおかげでまったく臭わないし、肌の調子もいいんです。経済的だし、エコだし、最高です!」
その文章を初めて読んだときの私の反応は、「そんなバカな……」というものだった。見ず知らずの人の風呂事情に突っ込みを入れるのも野暮だが、興味が湧いてしまうのは仕方がない。どうやら、マコモを発酵させる力によって雑菌の繁殖が抑制されるというのが理屈らしい。もっとも、その「本当のところ」がどこにあるのかは、私にはまったく見当がつかなかった。
さらに別の日に、同じマコモ湯にまつわる投稿を目にする。
——「1年以上変えてないけど、まったく汚れずに使えてます! お湯の色が少しずつ変化してる感じはあるけど、むしろ健康に良い気がする……。」
私はデスクに寄りかかり、考え込んだ。いまや風呂に入ることを「キャンセル」してしまう人たちもいるらしい。主にメンタルの問題や生活習慣の乱れ、さらにはリモートワークによる人との接触頻度の低下など、さまざまな理由があるようだ。一方で、マコモ湯は真逆の概念——むしろ、どっぷり風呂に浸かり続けることを推奨しているように見える。しかし本当に「不潔」ではないのだろうか。正直、その謎めいた世界に私はぐいぐい引き込まれていった。
そして、ある種の“スイッチ”が入ったのかもしれない。私はふと、「ちょっと試してみたい」と思ってしまったのだ。私は好奇心が強いタチで、面白そうなものは自分で体験してみないと納得できない性分だ。そこで、一念発起してマコモ湯を試せるよう、ネット通販で評判の入浴剤を取り寄せてみることにした。もちろん、いきなり1年半続けるつもりはない。まずは実験程度のつもりで始めようと思った。
数日後、私のもとに届いた小包を開けてみると、そこには茶色い粉末が入った袋が数袋入っていた。袋には「マコモ湯セット」と大きく書かれている。説明書には、「初回は適量を浴槽に投入し、混ぜてから38~42度程度のお湯に浸かること。毎回風呂水を抜かず、追い焚きか差し湯をしながらご使用ください。気温や環境により発酵の進み方は異なりますが、白い膜や独特の香りが発生する場合があります。衛生面が心配な方は、浴槽内や排水口周辺をこまめにチェックしてください」等々書かれていた。正直、最初から怪しさ満点ではある。しかし同時に、未知の世界を覗くようなわくわく感が私の胸を騒がせる。
初日、私は浴槽をきれいに洗い、そしていつもよりぬるめのお湯を張った。袋から粉末を一つかみほど取り出し、静かに湯に溶かしてみる。まるで細かな土埃が湯の中に溶けこんでいくように、お湯の色は徐々に茶色味を帯びていった。かすかに土の匂いのようなものが鼻をくすぐるが、いわゆる腐敗臭や刺激臭ではない。
私はゆっくりと湯船に足を沈めた。すると、ほんのり湯が肌にまとわりつくような感触がある。普段の入浴剤とも違う、どこかヌルッとした柔らかさ。熱めのお湯が好きな私にとっては、少しぬるいかなと思ったが、説明書によればあまり高温にしないほうが発酵が安定するとある。しばらく肩まで浸かっていると、身体の芯がじんわりと温まりはじめる。なるほど、これはなかなか悪くない。
「もしかして……続けられそうかも」
最初は半信半疑だったが、その日は心なしか気持ち良く入浴を終えることができた。もちろん、これが1年半もの長期使用へと繋がるかどうかはわからない。ただ、もし本当に雑菌が増えず、マコモが雑菌の繁殖を抑制してくれるのだとしたら、それは興味深い現象だろう。
翌日、私は「マコモ湯初体験レポ」と題してSNSに投稿をした。
「今日からマコモ湯を始めました。お湯はまだ全然きれいですが、このまま何日も入る予定。果たしてどうなることやら。とりあえず初日の感想は“ほのかに土の香りがして、肌あたりがやわらかい入浴剤”くらい。」
友人やフォロワーからは、まるで祭りのようにコメントが集まる。「マジでやるの!?」「匂いが心配」「ちゃんとカビとか生えないの?」などなど。正直、私もまったく未知の領域なので不安はあったが、未知への挑戦こそがライター冥利に尽きる、そんな気持ちもあった。
そして、初めてから一週間ほどが経った頃。お湯を抜かずに何度か追い焚きと差し湯を繰り返しながら使い続けてみた。浴槽の縁にはうっすらと何か膜のようなものがつき始めている。水面を見ても、完全に透明ではなく、やや濁りが増してきた。とはいえ、入浴時に気になる悪臭はしない。むしろ、お湯が肌に馴染む感じは日増しに増している気すらする。そして何より気になるのは、「本当にこれで雑菌が増えないんだろうか?」という疑問だった。
ちょうどその頃、友人からメッセージが届いた。「お前、最近やけに生き生きしてない? 大丈夫か? 逆に怪しいぞ」と茶化されるような内容だった。思わず笑ってしまったが、よく考えると、私は以前より集中力が増しているような気がした。気のせいかもしれないが、なんとなく身体が軽い。肌もカサつきが減ったような——もちろん、プラシーボ効果の可能性は大いにある。しかし、それでもこのマコモ湯に浸かる時間が、私の生活の中でちょっとした瞑想のような癒やしの役割を果たしているのは事実だった。
そうして1ヶ月が過ぎた頃には、もはや私はマコモ湯生活にどっぷり浸かっていた。SNS上では週に一度「マコモ湯経過報告」をするのが恒例になった。最初は冷やかし半分だったフォロワーたちも、私の投稿の継続ぶりを見てか、「すごいね」「私も興味ある」と言い始める人が増えてきた。一方で、「不衛生すぎる」「病気になるんじゃないか」という否定的なコメントも少なくない。しかし私はそのあたりは半ば割り切っていた。私自身が納得するまで試してみる。それだけだ。
入浴しているときの私の心境は、実に不思議なものだった。浴槽の淵や、水面下にこびりついた膜を見つめるたびに、「これって本当に大丈夫なんだろうか……」という恐れと、「私は今、生きた微生物の世界に身を沈めている」という一種の神秘感が交錯する。どちらかといえば、後者の神秘感のほうが勝っていた。湯船を波立たせると、膜がゆらゆらと揺れ、私の指先にまとわりつく。その瞬間、私の身体が文字どおり微生物に取り囲まれているのだと意識する。衛生観念からすると背筋が寒くなる体験かもしれない。しかし、自分の生きる空間に対して好奇心を捨てられない私にとっては、その“気味の悪さ”すら新鮮だった。
実験を始めてから2ヶ月ほど経ったある晩、仕事が長引き、私は少し疲れを感じていた。目の奥がじんじん痛み、肩も凝っている。深夜1時を回ってようやくキリのいいところまで原稿を仕上げると、暗いリビングの先にある浴室へと足を運んだ。換気扇の音がわずかに響く中、浴室の扉をゆっくりと開ける。そのとき、ふわりと漂ってきたのは、土の香りに何か別の香りが混ざったような、言葉にしづらい匂いだった。もしこれを嗅ぎ慣れていなければ「うっ」となるかもしれない。しかし、私にはもはや“愛着”に近い感覚さえあった。
浴槽をのぞき込むと、照明の下でうっすらと湯面が茶褐色に光っている。表面には、私が「発酵膜」と呼んでいる薄皮のようなものが浮かんでいた。私はその膜をそっと指ですくって、興味深げに観察してみる。指に触れるときの感触はまるで柔らかな絹糸のようでありながら、確かに発酵した何かの残滓のようでもある。ある種の気味悪さを感じながらも、それを壊さぬよう、ゆっくりと湯の中へ指を戻す。
「よし……」
私は意を決して足を沈めていく。すると、やはり身体は慣れた温かさを受け入れる。長時間の仕事で張りつめていた神経が、じんわりと解けていくようだ。気をつけなければいけないのは追い焚きと温度管理で、過度に湯を熱くしてしまうと発酵状態が不安定になるらしい。私は40度前後でキープできるよう、操作パネルを確認しながら、ゆっくりと肩まで浸かっていく。
身体が温まるにつれて、頭の中でさまざまな思考が渦巻く。「風呂キャンセル界隈」とは、入浴そのものを避ける人々を指す言葉らしいが、私の場合は真逆だ。むしろ過度にお湯を大切にしすぎているというか、怪しげな世界に踏み込みすぎている。しかし、その極端な選択が、今の私には妙に合っている気がする。もしかしたら、ここまできたら1年半継続するのも悪くはないのではないか——そんな考えもちらりと頭をよぎる。
翌朝、私は鏡の前で自分の顔を眺めていた。目立った肌荒れもない。むしろ肌はしっとりしているようにさえ感じる。メンタル的にも不思議なほど落ち着いていて、仕事に向かう気力が湧いてくる。何より、あの茶褐色の湯に身を沈めるときのあの独特の感覚は、一種の儀式めいた“トリップ”なのではと思えるほどだ。いつのまにか、私は完全にマコモ湯にハマっていた。
さらに数週間、数ヶ月と続けるうちに、私はその事実をSNS上でもオープンに発信し始めた。「現在、マコモ湯生活〇ヶ月目! まだまだお湯を替えていませんが、体調は良好。もし質問があればどうぞ!」といった投稿だ。すると、興味津々のコメントが殺到する。「匂いはどう?」「雑菌とか大丈夫なの?」「家族や友人は何て言ってる?」等々。その全てに自分の経験から答えながらも、私自身もどこまで正しいかわからない部分が多々あることを自覚している。ただ、私にとっては「事実として、今のところ問題ない」がすべてだった。
しかし、ある日を境に、私の身に少し奇妙な変化が訪れる。きっかけは、夜中に右手首を見たときだった。そこに、薄い緑がかったシミのようなものが現れていた。最初はただの湿疹かと思い、掻きむしらないようにクリームを塗って様子を見た。しかし翌日、あろうことかそのシミは左手首にまで広がり始めたのだ。さらに、その部分を触ると、軽い痛みというか、うずくような感覚がある。もしかして、これはマコモ湯が原因なのか——私の心はざわつき始める。
だが、それでも私はすぐにマコモ湯を断念しようとは思わなかった。というのも、確かに不気味な気配はあるが、ここまで継続してきた“挑戦”を中途半端に終わらせるのは、どうにも気が進まなかったのだ。私という人間は、おそらく人よりも好奇心が強い一方で、どこか偏執的に探求してしまう傾向がある。自分自身でも、その点は自覚している。だからこそ、この奇妙な現象の正体をしっかり見極めたい——その気持ちが勝った。
シミが広がり始めてから一週間ほど経過した頃、私は意を決して皮膚科を受診することにした。医師に正直に話すべきか迷ったが、嘘をついても何の意味もない。私は「実は半年以上、マコモ湯といってお湯を換えない入浴法を続けています」と率直に告白した。医師は驚いた様子だったが、説教めいた口調にはならず、「それはちょっと特殊な環境ですね……。検査してみましょうか」と冷静に対応してくれた。
しばらくして、検査の結果が出る。医師の話によれば、いわゆる皮膚の真菌症の一種かもしれないという。もっと厳密な検査をするには時間がかかるが、可能性は高いとのことだった。治療自体は難しくないが、「今の入浴法を続けている限りは繰り返すリスクが高いのではないか」と言われてしまう。医師の言葉は至極真っ当だ。
私はその結果をSNSにも書いた。「半年以上続けてきたマコモ湯生活ですが、ここにきて皮膚に異変が出てしまい、一旦中止するかもしれません……。」すると、多くの人が「やっぱりね」「早くやめたほうがいい」とコメントしてくれた。彼らの反応は当然だろう。しかし、一部の人たちは「いや、それでも続けてほしい」「もっと検証してほしい」と面白がっているようでもあった。私の探究心と、皮膚のトラブル、そして好奇の目——その狭間で、私は少なからず葛藤を抱えることになる。
だが、最終的には私はマコモ湯をやめる決心をした。理由は単純で、皮膚の状態はこれ以上悪化させたくなかったからだ。心の奥に「もう少し続けてみたい」「ここでやめるのはもったいない」という気持ちがあったのも確かだが、健康を損なってまで続ける実験には意味がない。そして、医師から処方された塗り薬と飲み薬をきっちり服用し、しばらくするとシミや痛みは徐々に治まっていった。
不思議と後悔はしていない。それどころか、「1年半かえていないマコモ湯」という極端な世界に足を踏み入れ、実際に半年以上もお湯を替えずに入浴した経験は、私の中で大きな刺激になった。衛生観念や常識に真っ向から挑戦するような体験は滅多にできるものではない。たしかに健康面でのリスクも痛感したが、同時に人間の感覚や固定観念がいかに揺らぎやすいかを知ったことは大きな収穫だった。
あれから数ヶ月が経った今、私は再び普通の入浴スタイルに戻っている。仕事が一段落した夜には、きちんと新しいお湯を張り、適度に温度を調整してゆったりと浸かる。それは決して悪いものではない。むしろ、こんなにも清潔で気持ちのいい習慣だったのかと思うほど、新鮮に感じる自分がいる。一方で、たまにマコモ湯のあの独特な香りや膜を思い出し、少しだけ懐かしさを覚えることもある。
そして今でもSNSでは「風呂キャンセル派」の話題がときどき目に留まる。入浴行為自体が面倒だという人々の気持ちがわからないでもないが、私としてはもう一度、あの怪しくも魅惑的なマコモ湯に浸かりたい衝動も、どこかでくすぶっている。でも、もし再挑戦するとしたら今度は徹底した管理体制を整え、皮膚科医とも連携しながら慎重に進めることになるだろう。何しろ、1年半どころか、半年で私の身体は明確にSOSを発したのだから。
とはいえ、私は今でもこう思う。「あの“発酵の湯”の中には、言葉にはしがたい神秘があった」と。科学的根拠のいかんを問わず、あれほどまでに世界が広がって見えた入浴体験は初めてだった。新しい価値観に触れ、新しい疑問を抱き、自分の身体を使って実験し、そしてある種の結末にたどり着いた。その一連のプロセスは、私の人生観をどこか別のステージへ押し上げてくれたように思う。
たまにSNSのタイムラインで見かける「マコモ湯構文」は、今でも私をくすりと笑わせる。「実は私、1年半〇〇してません!」というフレーズを見るたびに、私はあの茶褐色の湯船と、そこに立ちこめる土や菌の匂いを思い出す。私にとってはそれが、単なるミームではなく、生々しい体験としてよみがえるのだ。
奇しくも、それは私の“闇”でもあり“宝物”でもある。どこか危うさを秘めたエピソードだが、同時に、自分がいかに未知のものに惹かれ、そして未知を通して世界を見る目を磨こうとしているかを教えてくれる物語になったのだ。
そして、私は今日もパソコンに向かい、この物語——私が体験したマコモ湯の日々をこうして文章に起こしている。もしかすると、この原稿を読み終えた誰かが、「私もマコモ湯に挑戦してみようかな」と思うかもしれない。あるいは、「風呂をキャンセルしてみたい」と思うかもしれない。人生の選択肢は、人の数だけ存在する。時には極端な体験が、人の視野を大きく広げることもあるのだ。もちろん、リスクもあることを忘れてはいけない。あくまで、“自己責任”が伴う冒険である。
しかし、どんな体験であれ、それが自分を新しい地平へ連れて行ってくれるものなら、きっと無駄にはならない。その意味で、私は「1年半かえていないマコモ湯」を選んだあの日の好奇心を誇らしく思う。私たちの暮らすこの世界は、どこまでも広くて、まだまだ未知の領域に満ちているのだ。そして私たちは、そこへ足を踏み入れる冒険者たり得る——たとえ、その先に菌の海が広がっていようとも。
(了)