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「思いやり」と温情主義―ポストモダン終焉期の実相〔12-2〕

7 ポストモダン終焉期の諸相

(1) 〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉低下の弊害

私は,県教委及び教員免許必修科目を担当する教育系大学講師の職員歴を含め,高等学校の教員を29年間勤めました。学校での専門教科は国語(大学では「教育課程論・教育方法論」,県教委では人事管理,研修管理,生徒指導,総合的な学習の時間,キャリア教育,特別活動,産業社会と人間,学校図書館(学)などが担当)でした。

教職の晩年を迎えるにつれ,私の胸中に巣食っていた憂虞(ゆうぐ)は肥大していきました。「児童生徒に限らず,(私自らをも含め,)教職員及び保護者を含めた大衆の〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉が年々低下しているのではないか?」と。児童生徒,教職員及び保護者等については校内や家庭訪問等の「対話」から,また大衆についてはホームページやSNSを通じて発信される「ブログ」,「メッセージ」などから,それを窺い知ることができました。――特に,「ブログ」に表現される言表群や言説には強い危懼(きぐ)の念を抱いており,当塾のブログシリーズで,その〈相対化〉に挑んでいるところです。(☞ 【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】を参照のこと。)――

冨山 数学も英語もそうなんですが,ものを考えたり,ものを分析したりするときの,ある種の言語能力ですよね。その基礎的な言語能力というのは,別にどこに行こうが共通マターです。だから,高等教育までで,ちゃんとやっておくべきことは,そっちだと思うんです。
 いわゆるウンチク学問っぽい教養は,その後でいいんじゃないか,と私は思っていまして。シェイクスピアがこう言ったとか,それもいいんだけど,英語もちゃんとできないのにシェイクスピアを語っている場合か,と思うわけです。
 ところが,日本の大学というのは,そういうウンチク教養学校になってしまっている。特に文系学科は。それが生きる力だ,なんていう評論家もいるんですが,言語能力がないんですから,生きる力はない。

「なぜ経団連会長は「大学は,理系と文系の区別をやめてほしい」と大胆提言するのか」>今の日本の学生にこれだけは求めたいこと:経団連・中西宏明会長×経営共創基盤(IGPI)冨山和彦CEO 就活対談#2,「文春オンライン」編集部,2019.5.29 …c

山氏の歯切れの良い言い回しが素敵ですね(笑)。冨山氏の見解は「言語能力=生きる力」であり,だからこそ「共通マター」と読めそうです。私の憶測になりますが,私は,上記の冨山氏の言表群から,「言語能力」に育成の比重を置いていない日本の教育を憂慮する思いを感じ取ってしまいます。したがって,現状として,国民の「言語能力」は低いと仰りたいのではないかと…。ただし,冨山氏の「言語能力」の定義は,他のここでは引用していない文脈から,例えばビジネス界の特定領域の共通言語としてのニュアンスも含有している節があるので,一概に母国語としての「言語能力」とは言い難いのですが,本ブログではその点には触れません。

さらに,その母国語と論理的な思考(力)との連関性にかかわる指摘が茂木健一郎氏にありますので,次に引用しておきます。

母国語で考える方がより深く考えられますし,母国語を筋道立てて使えるようにならないと,物事を論理的に考えることはできません。

茂木健一郎(2019.4):『本当に頭のいい子を育てる 世界標準の勉強法』[キンドル版],第2章,英語を話す人の八〇%は第二言語として話している,検索元 amazon.com

今回,本ブログでは深入りしませんが,早(幼年)期の英語英才教育は考えモノです。

本論に戻します。これらの引用を併せて考察してみるに,私たちの〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉の低下は「感性・情緒」の欠落を招くだけではなく,論理的な思考力や創造性の低下を齎(もたら)すと言って過言ではありません。最悪の場合,私たちの「感性・情緒」が近未来では持たないであろうAIの「感性・情緒」に近似し,論理的な思考や創造性などを欠いてしまえば,それは世界をAIに乗っ取られるとかのお道化たレベルの話ではなく,現実的に私たちの〈尊厳(dignity)〉を喪失する,恐ろしい話になるのです。

「そんなことにはならないよ。」

「本当にそう言い切れますか?」


(2) 20世紀的な「知」の終焉―多視点を喪失した〈鄙陋(ひろう)〉の残滓(ざんし)の大衆化―

ア 〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉と〈鄙陋〉の残滓

言語能力〉と〈言語運用能力〉の低下は,各人のものの見方や考え方(思考のチャンネル)における単視点化に近い現象を巻き起こしました。人間が「言語」で思考する(ものを考える)限り,例えば,身の周りに生起する諸現象を捉える視点(思考のチャンネル)は,〈言語能力〉と〈言語運用能力〉が低下すればするほど,偏狭なものになることは論を俟たないところでしょう。デカルトを始祖とした物心二元論を源とする二項対立の思考(=20世紀的な「知」)は〈言語能力〉と〈言語運用能力〉の低下により拍車を掛けられることになったのです。ポストモダンの終焉期を生きる各人が保有する視点は単視点化し,内在化していきました。その典型的な視点は 「自己/他者」=「有能(仮想的有能感(※1))/無能」=「先(優先)/後」とする二項対立関係を土台とした自我中心主義を生んだのです。それによりポストモダンが生産した「小さな価値観」は消滅し,その代わりにカントが「根源的悪」としたエゴイズム( egoism・利己主義)が蔓延(はびこ)り,大衆は我執に塗れた〈鄙陋〉の残滓と化していきました。――それが,現在も,継続しているのです。そして,「現代ブログ言説」はそれを如実に表現しています。(※2)

イ 「思いやり」と温情主義

〈言語能力〉及び〈言語運用能力〉の低下による人間の「感性・情緒」の劣化は,自我中心主義を構造化する契機となるだけではなく,それを持続可能とする活力源ともなりました。ポストモダンの終焉期に訪れた,そうした「他者」よりも「自己」を優位に置く典型的な二項対立の思考性は温情主義(パターナリズム)を促進し,大衆に「似非-思いやり」を強制しました。どちらかに優位性を認める二項対立の思考性が「自/他」関係に投影されるとき,大衆は挙(こぞ)って同情(sympathy)と憐憫(pity)を援助を必要とする側の立場にある者に降り注ぎ/降り注ごうとしたのです。

権力者,支配者が被支配者,従属者からの権利要求あるいは外部からの強制によることなく,いわば自主的に恩恵的諸財を与え,そうすることで被支配者の不満,反抗を曖昧にして階級的対抗関係 (労使関係あるいは地主=小作関係) を隠蔽しようとするイデオロギー,あるいは支配者の政策のことをいう。したがって階級的対抗関係を表面化させようとする動きに対しては強力な弾圧をもってのぞむ。必ずしも日本に特殊なものではないが,第2次世界大戦前の日本では家族主義イデオロギーという形で存在し,大きな役割を果した。

コトバンク:温情主義(読み)おんじょうしゅぎ(英語表記)paternalism,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説,出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
近代の個人主義は,一方では端的な利己主義であるとともに,他方では他者への思いやり(道徳感情,同情,共感,寛容の精神,憐憫,……その類い)をも内包するものである。だが,他者への思いやりというと,なにやら他者に主眼があるように一見思えるが,実は,自己の感情的満足がその尺度になっているのである。つまり,他者への思いやりをもつことが自己の満足となる限りにおいて,その限りにおいて思いやりを重視しようという,自我中心主義のバリエーションにすぎないのである。

長尾達也(2001.8):『小論文を学ぶ―知の構築のために―』,山川出版社,p.124,原文朱書き

ただし,ポストモダンの終焉期に発芽したノーマライゼーションには,同情主義(パターナリズム)に見られる,一方に優位性を据えた二項対立の思考に基づく差別性を払拭した脱中心化の発想が窺えます。

ノーマライゼーション(英語表記)normalization
障害者や高齢者がほかの人々と等しく生きる社会・福祉環境の整備,実現を目指す考え方。1950年代,デンマークの知的障害者収容施設で多くの人権侵害が行なわれていたことに対し,行政官ニルス・エリク・バンク=ミケルセンが提唱した理念で,1959年同国で制定された知的障害者法に盛り込まれたことから欧米諸国に広がった。従来の福祉活動で行なわれてきた,社会的弱者を社会から保護・隔離する傾向を反省し,すべての障害者の日常生活の様式や条件を,通常の社会環境や生活様式に可能なかぎり近づけることを目指す。また障害者が自己を確立し,社会的価値のある役割をつくりだし,それを維持できるよう援助していくことも大切であるとされる。日本では,1981年の国際障害者年をきっかけに認知され始めた。やがて国際社会における福祉の基本理念として定着した。

コトバンク:ノーマライゼーション(英語表記)normalization,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説,出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
〘哲〙 制度や秩序の中心から遠ざかり,逸脱すること。フランスの M =フーコーが現代社会と現代人の行動を特徴づけるために用いた語。

コトバンク:脱中心化(読み)だつちゅうしんか,だつちゅうしんか【脱中心化】,出典 三省堂

つまり,「脱中心化」の場合,対象間は全てそれらの関係性により規定されるのです。換言すれば,「自己」を中心(優位)に置く発想はないわけで,そういう点からしても,ある意味,「脱二項対立」というわけです。

さて,「思いやり」は当塾の基本理念に掲げてあります。当然ながら,この場合の「思いやり」が温情主義(パターナリズム)の陥穽かんせいに陥おちたものでないことについては言を俟ちません。当塾名の「鍛地頭」と「〈言語能力〉・〈言語運用能力〉」及び「感性・情緒」との連関性を鑑みるに及び, 「〈言語能力〉・〈言語運用能力〉」 を「鍛」えることが「地頭」を「鍛」えることであり,それは「感性・情緒」を豊かにするとともに,〈思考力・判断力・表現力〉を磨き,多視点を形成することでもあったのです。まさにこれが「鍛地頭」です。すなわち,多視点でもって,「ありのままの《自己》」を含む了解・到達不能の「ありのままの《他者》」に近接する行為こそが,当塾が求める〈思いやり〉であり,当塾の基本理念である〈思いやり〉は 「〈自己〉―〈(自己を含む)他者〉」関係が前提となった「脱中心化」の思考性の上に成り立っているものなのです。

  令和元年7月26日(金)

                         塾長 小桝 雅典



※1 速水敏彦(2016.10):『他人を見下す若者たち』,講談社[キンドル版]を参照のこと。

※2 次の【関連 当塾の「The パクるな!!」シリーズ】を参照のこと。ただし,本シリーズは完結していないことから,「現代ブログ言説」の十分な〈相対化〉について,(現状では)表現されていない。したがって,今後に譲るところが多い。


【関連 「The パクるな!!」シリーズ】


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