石川悌二著『近代作家の基礎的研究』(3)―尾崎紅葉と谷崎
紅葉がもう少し長く生きていれば
今回は尾崎紅葉について書きたいと思います。
何かの本で読んだ記憶があるのですが、紅葉がもう少し長く生きていれば、谷崎は間違いなく硯友社に入っただろうと書かれていました。今回それを確認しようとしたのですが、どうにも見つからず、このように時間が開いてしまいました。この出典は見つけ次第追加します。申し訳ありません。
紅葉は35歳の若さで癌で亡くなってしまい、その時谷崎はまだ9歳でした。
(35歳といえば、芥川もそうでしたね。)
谷崎が硯友社に入ったであろうということは、この本に集められている作家たちに共通するものから窺われます。どういうわけか、皆、芝に縁があり、そして佐幕派と言うにはもう少し複雑で、地縁・血縁・学問・宗教等の繋がりがあると思われることです。硯友社は結社ということですが、そのあたりに結社の意味があるのではないかと常々考えています。『硯友社々則』には、建白書の草案起稿其外、政事向の文章は命に替えても御断申上候と書かれているとのことですが、それだけにさらにその思いを強くします。
紅葉の父
谷崎には『幇間』という作品がありますが、紅葉の父は、明治20年代には通称伊達アトの芝愛宕町四丁目一番地の長屋の一角に住んだようで、谷斎という名で象牙彫を商売にしつつ贔屓客がつき、ついには幇間が本業みたいになったそうです。ただ、最初からそうだったわけでなく、最初の妻である庸夫人とは一緒に船宿をやっていたらしいことがその戒名(舟篙妙岸信女)から窺われると、この『近代作家の基礎的研究』に書かれています。
また、幕末の物故者で院号を諡られているものがあることや、紅葉の祖父の戒名にも院号があること、お墓もかなり大きく「環之内三文字」の家紋が刻まれていることから、かなりな家格だったのではないかと推測しています。
紅葉の家は、元々は春米問屋(精白米を小売に卸す問屋)だったらしいことが「諸問屋名前帳」の記述から書かれていますが、さらに
と書かれています。これは谷崎の父の実家である玉川屋が瞬く間につぶれていったことと通う部分ですね。ちょうど新堀から芝浜に舟遊びをする人を相手に船宿が多くあったということから、商売を船宿に変えたのではないかと著者は推定しています。
通説では、紅葉が継母になじまず、父の生活も乱脈なために、亡母の親元にひきとられたとされているようですが、そうではなかろうと書かれています。紅葉が母方の祖父母荒木家に引き取られた時期は継母が迎えられた時期より前のはずだからとのことです。
紅葉の継母はいったん他家に嫁いだ後離縁復籍し、紅葉の父に嫁いだとされています。このパターン、谷崎周辺には大変多く、それが谷崎作品にも表れますが、なぜなのかと思っていたところ、周囲には足入婚が多かったのではないかと最近考えるようになりました。千代夫人が谷崎に嫁ぐ前や『夢の浮橋』の継母の場合はまた少し違うわけですが(夢の浮橋の継母と千代夫人は非常に似通う部分があります)、千代夫人を佐藤春夫に譲る時には、谷崎家から千代夫人を嫁に出す体でそういう形を目指したのではないかと考えています(高木治江著『谷崎家の思い出』に、それを示す石川のおばあさんの言葉があります)。
紅葉の母方の祖父
祖父の名前は荒木舜庵といい、近江国浅井郡早崎村の平民吉川三左衛門の三男で、後に荒木寿山の養子となって荒木姓およびその医業を継いだそうです。生家は琵琶湖のほとり、姉川の河口に近い寒村と書かれています。
この地域は谷崎作品と大いに通いますよね。また、紅葉の父にも武田氏説があると書かれています。谷崎作品周辺には、武田氏、それも諏訪方の影がチラチラと見えます。さらに荒木姓がこれまた谷崎作品周辺の注目点で、『蘆刈』の頃に特に付き合いの多かった池長孟氏の最初の妻とか、『鍵』に埋め込まれていると考える荒木郁子とか、鷗外の妻とか、何よりも本居宣長の叔母3人とか繋がってくるのです。本居宣長といえば、谷崎の父の長兄の岳父である小中村清矩は安政2年(1855年)、本居内遠に入門。安政4年(1857年)、和歌山藩古学館教授となり、文久2年(1862年)、江戸幕府和学講談所講師となりました。
なお、本居宣長の叔母たちと鷗外の妻についてははっきりしませんが、他は荒木村重の血筋と言われています。
さらに注目すべき記述がありました。紅葉が大学生の頃、この荒木家が神田三崎町に引っ越したというものです。荒木郁子の家は神田三崎町の玉名館という旅館でした。リンク先に登場する滋子さんは荒木郁子の姉で、女優荒木道子の母です。
その頃、紅葉と一緒に硯友社を結成した山田美妙も母と駿河台鈴木町十九番地坊城伯爵邸内長屋に住んでいたということも書かれています。駿河台鈴木町といえば、最後の元老・西園寺公望の晩年の私設秘書として政界の情報収集にあたり、彼の口述回顧をまとめた『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』がある原田熊雄が育った裏猿楽町の家から崖を上ったところが鈴木町なんですね。そこに原田家が貸している家が2軒あったわけですが、そのうちの1軒にケーベルが住んでいました。原田熊雄には後に有島生馬と結婚した信子さんという妹がいますが、この家は原田熊雄と信子さん兄妹も含めて谷崎の『少年』の舞台と考えています。
法科から文科へ
谷崎は『幼少時代』の中で、学費を援助されていた関係で、当初英法科に入り、後に文学科に入ったと書かれていますが、紅葉も最初は法科に入ったのですね(谷斎が望んだ)。谷崎作品のモデルの中の一群には、府立一中→一高→東大という共通コースがあるのですが、紅葉の本名が徳太郎というところもチェックポイントです。谷崎作品のモデル群には、菊原検校(本名徳太郎)とか、永見徳太郎という人物がいます。
妻
紅葉の妻は喜久さんといい、芝浜松町の漢方医、樺島玄周(リンク先の本の中に「樺島玄周先生之伝 / 111丁 (0065.jp2)」があります)の長女です。喜久さんといえば、谷崎の叔父の妻にもこの名の人がいますが(『幼少時代』ではお菊さんと書かれていますが、この本に掲載されている戸籍には喜久と書かれています)、喜久さんのところにつけたリンク先を見ると、紅葉死後も菊池寛や志賀直哉・広津和郎等に助けられたことが書かれています。皆、谷崎や芥川龍之介と交流の深い人達ですね。谷崎と菊池寛、谷崎と芥川龍之介との縁については、ツイログをリンクしますが、これだけの人たちが援助しているのは、もちろん紅葉との縁が第一なのだと思いますが(といっても年齢的に紅葉と直に接した人たちではありませんが)、尾崎家、樺島家との縁もあるのではないかと想像します。
紅葉研究の貴重な資料
この本には戸籍やお墓、紅葉自筆の履歴の写真の他、紅葉関連の地図(関連の家の場所が、一つの地域に集中している)、さらに付録年譜もあり、非常に有用な資料だと思います。
次回は泉鏡花です。
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