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『小中村清矩日記』(1)

今回は、これまでにもたびたび登場している『小中村清矩日記』について書いてみたいと思います。今回も内容の都合により2回に分けたいと思います。


江戸・東京で活躍した国学者

小中村清矩は谷崎の父の長兄の岳父で、「江戸時代後期から明治時代にかけて江戸・東京で活躍した国学者で、律令から日本史、古典文学、古典籍、有職故実など多岐に渉る分野について、文献に基づいて研究を進めた」(『小中村清矩日記』解説より)人です。東京大学に古典講習科を作る際に招聘され、第一期生には池邊義象(後に小中村清矩の女婿になる)、第二期生には佐佐木信綱がいます。
古典講習科はこの2期しかありません。池邊義象も佐佐木信綱も、小中村清矩の愛弟子なのです。
今いろいろ調べてみたら、明治十六年事件というのがあるのですね。この時は池邊義象もメンバーに入っており、小中村清矩が処分を軽くするよう嘆願しています。

東京の小中村家と八幡の小中村宗家

小中村清矩は、明治18年、長年行き来が絶えていたらしい八幡の宗家を訪ねます。その時の日記を引用します。

(明治18年8月)廿日、八幡なる宗家をたづねんとて、おのれのみ、七条より電車に乗りて出でたつ。山崎より下りて、八幡宮にまうづ、天王山は、其うしろにて、宝寺は、山のなからなれば、たゞちになん見ゆる。川をわたれば、八幡へ壱里に近し。此わたりは、いつも水の患ある所なれば、ことしはことさらなり。男山は、あまたの石段を登りて、七八町行く所なれば、老の足困じたるを、登りはてゝ見わたせば、けしきよし。本社ををがみ、山を下りて、はづれなる小中村尚志を訪ふ。あるじよろこびて、物がたりに時を移せり。小中村といふは、もと紀伊郡羽束志郷にありて、淀に近き所なりしが、今はその名絶えぬ。清水村・古川村などいふあたりや、その跡ならまし。むかし八幡の神領なりしかば、他生座といへる神官七家、そこに住みて本社に仕へたりしを、織田家のころ、神領を収められしかば、ともに八幡へ移りしとか。古文書に、他生、又他姓に作る。八幡に住まずして、あだし所にありしをもて、かくいへりとぞ。始祖は、他姓弥五郎とて、応永のころ、五位に叙爵せし神官にして、それより世々家を継げる系譜を伝へ、徳川家康より、社領の配当を受けたる朱印のしるし書をもてり。おのれが家の始祖は、勘三郎といひて、宝永のころ、此家より、江戸にいでゝ、別に家をなせるものにして、余も其筆のあとを伝へたり。
さていとまを告げとせし時
 とし久におもひわたりし石清水
  おなじながれをけふぞたづぬる
とふところ紙にしるして遺しぬ。

『小中村清矩日記』

本当に景色いいですよね。見ての通り、当時とはかなり違うと思いますが。
この写真は『蘆刈』の文学散歩をしたときに撮影しました。

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宗家との交際が始まったことで、明治20年9月、小中村新太郎という方が専修学校に入るということで小中村清矩が身元引受人になりました。が、その後体調を崩したりしたようで、残念ながら明治22年1月23日の夜11時頃に亡くなり、とりあえず世尊院に葬送したと書かれています。その翌日、女婿になった小中村義象・お栄夫妻に次男が生まれます。清象と名付けられました。

2021-07-04 八幡の宗家を訪ねた年と、新太郎さんが亡くなった月の誤りを修正しました。大変失礼しました。

新太郎さんのお墓は東京に建てられたようです。3月8日にお墓が出来たことが記されています。

そうそう、小中村宗家のスポーツカメラマン、小中村政一様に、2019年1月に小中村家宗家のお墓の場所を教えていただいて、お参りさせていただきましたが、小中村尚志さんのお墓も確かに確認できました。松花堂庭園の交差点を挟んで斜め前にありました。さすがに大きいです。

小中村清矩と谷崎家

さて、小中村清矩と谷崎家の関わりですが、これがまた複雑です。『幼少時代』によると、谷崎の父の幼名は和助ということなのですが、次のような記述があります。

明治21年9月11日の記述に、

〇谷崎久右衛門(和助事)入来。三作面会。依って手紙遣し書類返ス。

『小中村清矩日記』

とあります。三作さんとの面会はその前に一度失敗していますが、どうしても会っての書類受け渡しが必要だったようです。
二代目谷崎久右衛門の相続に関してはいろいろ難しい問題があったようで、そのあれこれについては谷崎潤一郎研究のつぶやきWebのその1(2015年11月5日)二代目谷崎久右衛門襲名関連年表をご覧ください。

『決定版谷崎潤一郎全集』の第25巻には幼少時代のメモがあるのですが、これがまたこんがらがっております。谷崎の叔父である本家が久兵衛になっているのです。弟精ニも、『明治の日本橋・潤一郎の手紙』で二代目久右衛門を伯父と書いていて不思議に思ったことがあります。これは下に掲載した写真の大正名家録の記述と併せても、メモではなく『幼少時代』の記述で正しいと思われるので、このいったん叔父が久右衛門を襲名した後のあれこれで、混乱があったものと思われます。
なお、叔父長谷川清三郎が久右衛門の戸籍の実印部分を毀損した事件の時は、久右衛門が清三郎は実弟と書いています。

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『大正名家録』より

店の当主の名を襲名していくということで考えれば、同じ人の名も変わっていったことが考えられ、それで混乱が生じている可能性もあります。久兵衛伯父が亡くなる前には谷崎活版所は久兵衛伯父の所有になっていたということで、その前には庄七叔父は身を持ち崩していますが、あるいは一時久兵衛になっていたのかもしれません。
さらに(2)でわかったことと併せると、谷崎が『幼少時代』を書くにあたり質問した「分社の主人の名」と「その後の庄七」の答えが出てきます。つまり、活版所支店は庄七さんがやっていたということになります。そして庄七さんを久兵衛と書かれていたのも、そういう時期もあったのかもしれないと理解できます。

つまり、庄七叔父の流れとしては、
庄七→久右衛門→久兵衛→久右衛門
谷崎の父倉五郎は、
倉五郎→久右衛門→久兵衛
久兵衛伯父は、
久兵衛→久右衛門

ただし、谷崎の父の幼名については『小中村清矩日記』の記述からすると和三郎ではないかと思われ、そうすると和助は久兵衛伯父ではないかとも思われるのです。というのは、実之介という、まるで菊池寛の『恩讐の彼方に』登場人物のような名前は、『幼少時代』の物語上の名とも考えられるからです。久兵衛伯父の履歴書が東京公文書館にあることは知っていますが(Twitterで教えていただきました)、せっかく教えていただきながらまだ確認できていないので、近いうちに調べたいと思っています。

ここに、『小中村清矩日記』明治16年7月27日の記事から谷崎の父の幼名ではないかと思われる部分を引用します。

〇江沢来る。近々和三郎殿婚儀之由。

『小中村清矩日記』

江沢というのは江沢藤右衛門のことで、谷崎の父の長兄で、小中村清矩の三女の夫です。

と、ここで、気づきました。
下の谷崎久兵衛についての記事をご覧ください。久兵衛伯父と倉五郎の父親が違います(これまた幼いうちに倉五郎はいったん相生町に養子に出されたことも考えられますが)。

久兵衛伯父は神田旅籠町江澤馬之助の長男
倉五郎は、明治26年に改写された戸籍によると神田相生町二番地江澤秀五郎三男

です。
久兵衛伯父の神田旅籠町は正しく玉川屋(『幼少時代』参照)があった場所と思われますが、倉五郎の神田相生町は今の秋葉原駅あたりですね。
となると、和三郎は藤右衛門の弟であるけれどもたまたま谷崎の両親と同時期に結婚した別人ということも考えられ、やはり倉五郎の幼名は和助で問題ないようです。

となると、和助と三作さんは双子の可能性があります。わざわざ会って書類のやり取りをする必要があったことからしても。双子といえば、藤右衛門伯父の娘にも双子があり、その生まれた時に小中村清矩が命名した際の短歌が細江光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』に掲載されています。

澄みわたる江沢のふち(淵・藤)の二た方に流れて清き生い先や見ん

細江光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』

つまりこの双子は一人は藤右衛門のところに残り、もう一人は岩淵(臼倉家か?)に遣られたと考えられます。

『幼少時代』では、父が一時胃を病み、四万温泉にしばらく行っていたという記述があるのですが、これがどうやら三作さんのことのようで、この方は明治15年からかなり長く胃を病み、父と温泉に行ったり、谷崎の父の長兄と温泉に行ったりしています。また、細江光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』には谷崎の父倉五郎と谷崎の従兄斎二郎さんとの2ショットの記念写真が掲載されているのですが、確かに谷崎の父倉五郎とよく似ているのですが、顔の骨格が少し違うように感じます。斎二郎さんは明治25年に三作さんの養子になっていますので、その時の記念写真ではないかと想像しています。
つまり、谷崎は『幼少時代』の中で、三作さんと叔父庄七さんと父倉五郎をわざと混ぜて書いていると思われます。さらに幼少時代メモでは祖父と谷崎の父を逆にしています。一方、メモに書かれる父と母と乳母との関係は、『幼少時代』で想像していた通りのように思いました。

2022-05-25追記
谷崎精二著『明治の日本橋・潤一郎の手紙』に、二代目久右衛門は、おすみさんと別れて没落してから大阪の堂島に行き、仲買店に番頭として住み込んだらしいと書かれています。本家の邸宅を久兵衛が買い取ったことも。


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