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石川悌二著『近代作家の基礎的研究』(4)―泉鏡花と谷崎

『文壇昔ばなし』での鏡花と谷崎

谷崎と鏡花といえば、鳥鍋のエピソード。『文壇昔ばなし』に登場します。検索してみたら、ちょうどその個所のラジオドラマがYoutubeにアップされていたので、聴いてみてください。

ドラマ化のためにエピソードがつなげられているところもありますので、詳しくはぜひ『文壇昔ばなし』もお読みいただければと思います。

尾崎紅葉と谷崎のところで書いた、尾崎紅葉がもう少し長く生きていれば、谷崎は紅葉門下になっていたというのは、別の何かでも読んだ記憶があるのですが、『文壇昔ばなし』で谷崎自身が書いていました。

『婦系図』に色濃く反映される鏡花と紅葉の関係

今回、泉鏡花と谷崎のお話について書くに際して、泉鏡花著『婦系図』を読んでみました。鏡花と紅葉との関係、鏡花と芸妓桃太郎との関係が反映されているということからです。先生が主悦とお蔦を引き裂くシーンから、紅葉ってこういう人だったのかとちょっと嫌いになったりしましたが(^^; 『文壇昔ばなし』でも、谷崎は、人に「君は紅葉に可愛がられたに違いない」と言われながらも、いや、破門されるか自分からおん出るか、どちらかだったろうと書いていたりします。

紅葉が談判に行った日と、桃太郎が鏡花の家を出ていく前日の紅葉の日記が『近代作家の基礎的研究』に引用されています。

談判に行った日

夜、風葉を招き、相率て鏡花を訪ふ(匿妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く)、彼秘して実を吐かず、怒り帰る、十時風葉来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す、十二時放ち還す。

『近代作家の基礎的研究』

桃太郎が出ていく前日

鏡花来る、相率いて其家に到り、明日家を去るといへる桃太郎に会ひ、小遣十円を遣す。

『近代作家の基礎的研究』

そんなことがありながらの鏡花の忠誠心の強さはすごいです。
これは、鏡花の生い立ちと、紅葉を恩人と思うところからなのかなとも思いましたが、谷崎は『文壇昔ばなし』の中で次のように書いています。

或る時秋声老人が「紅葉なんてそんなに偉い作家ではない」と云ふと、座にあつた鏡花が憤然として秋声を擲りつけたと云ふ話を、その場に居合はせた元の改造社社長山本実彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらゐなことをはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食はされてゐたであらう。鏡花と私では年齢の差異もあるけれども、あゝ云ふ昔気質(かたぎ)の作家はもう二度と出て来ることはあるまい。明治時代には「紅露」と云はれて、紅葉と露伴とが二大作家として拮抗してゐたが、師匠思ひの鏡花は、そんな関係から露伴には妙な敵意を感じてゐたらしい。いつぞや私が露伴の話を持ち出すと、「あの豪傑ぶつた男」とか何とか、言葉は忘れたがそんな意味の語を洩らしてゐたので、鏡花の師匠びいきもこゝに至ってゐたのか、と思つたことがあった。

『文壇昔ばなし』


『婦系図』中での、先生のお嬢さんに対する態度も主君のお姫様に対するようなもので、これが作品全体にわたって大きく作用します。前編は先生に隠れてお蔦と住む家が舞台になり、その関係が主体になっていますが、後半は一転して舞台を静岡に移し、お嬢様を嫁に欲しいと言った人のお嬢様への心持ちに不満を持った主人公の行動が凄い展開で描かれます。まるで、テレビのサスペンス劇場のようです(鉄道も崖も登場しますよ!)。
『近代作家の基礎的研究』には、この小説で尾崎紅葉が酒井という名前で登場する理由が次のように書かれています。

紅葉の住んでいた近くの牛込矢来町一帯が、旧小浜藩酒井氏の下屋敷跡だったことから、「酒井先生」としたのであろう。

『近代作家の基礎的研究』

酒井氏といえば、以前谷崎絡みで酒井美意子著『ある華族の昭和史』を読みましたが、この方は前田氏の生まれですが、母が雅楽頭系酒井家宗家20代当主・酒井忠興の次女で、嫁ぎ先も同じく雅楽頭系酒井家ということで、おや? と思いました。雅楽頭系酒井家は小石川原町に住んでいたそうですが、こちらもまた谷崎が千代夫人と住んでいました。さらに、酒井家の元祖は広親という名前だそうで、そうなると、『細雪』の御牧の父の名が広親だったのを思い浮かべます。酒井家は谷崎作品に色濃く反映されているものと考えます。

また、登場する名代の芝っ児である威勢のいい魚屋のモデルについても書かれています。現在も子孫が神楽坂で「魚徳」という料亭を経営しているそうですが、『近代作家の基礎的研究』が書かれた当時はお孫さんだったそうです。

魚徳について検索してみたところ、てくてく神楽坂というサイトに開店時に鏡花が出した祝辞が掲載されています。このサイト、素晴らしいです。

紅葉の死後、鏡花夫人になった桃太郎についてさらに調べていくと、この方、本名を「すず」といい、鏡花の母と同じなんですね。で、鏡花の死後、鏡花の弟の子である泉名月さんを養女にしており、Wikipediaには1944年(昭和19年) 現在の静岡県熱海市に疎開した時に近所に疎開していた谷崎潤一郎から童話の創作について指導を受けたと書かれています。

『婦系図』等に登場する谷崎作品で目を引く表現

『婦系図』を読んでいたら、「臈(ろう)たけた眉」という表現にぶつかりました。臈たけたといえば、『蘆刈』等で使われています。松子夫人をイメージしますが、『婦系図』では先生のお嬢さんに使っています。

併せて、この機会に谷崎の『瘋癲老人日記』に登場する紅葉の『夏小袖』も読みましたが、ここには「結ぶの神」という表現が登場しました。これは谷崎が『当世鹿もどき』で「芥川龍之介が結ぶの神」と使っています。松子夫人との出会いについて書いています。
『夏小袖』はモリエールの『守銭奴』を翻訳したもので、まるで漫才のようで実に面白かったです。この作品が『瘋癲老人日記』に登場する意味もよくわかりました。

鏡花の生い立ち

『近代作家の基礎的研究』で触れられている鏡花の生い立ちについて触れておきたいと思います。

父の清次は彫金、象嵌細工の工芸師で、この点師紅葉の父谷斎が象牙彫の名人であったのに似ている。母の鈴の家系も芸の血が流れていた。彼女は江戸下谷の生まれで、葛野流の大鼓(おおかわ)の家、中田氏の娘で、宝生能の松本家に養子となって名人とうたわれた松本金太郎は実兄であったが、祖父の中田万三郎は加賀藩前田家の御抱え能役者、父豊喜も鼓(つづみ)を以て藩主に仕え江戸に住んでいたが、維新の変革で金沢に転じ、そして泉清次と鈴との婚姻が成ったものである。しかし鈴は長男鏡太郎(鏡花)の次に明治十三年一月に豊春を生むとまもなく、十五年の十二月二十四日に二十九歳で病死し、兄弟は祖母き(﹅)て(﹅)によって育てられることとなった。この早くして死別した生母への思慕は、その作品「湯島詣」にもこめられているが、鏡花文学の詩情と女性観の源泉となって生涯彼の心奥に沈潜していたようだ。十六歳のころに郷里で尾崎紅葉の「二人比丘尼色懺悔」「夏痩」などを読んで感銘した彼は漠然たる作家修業の志を抱いて、その翌年(二十三年)に出京して紅葉の門を叩こうとしたが、容易に訪れる勇気が出ぬまま東京の彷徨生活一か年の末に金沢に戻り、再び決意を新しくして翌二十四年の秋に上京し、十月十九日横寺町の紅葉の家を訪れて門下生となることを許され、翌日からは玄関番として尾崎家に寄寓した。

父の清次は彫金、象嵌細工の工芸師。『刺青』を思い浮かべます。母方が葛野流の大鼓(おおかわ)の家、中田氏の娘で、宝生能の松本家に養子となって名人とうたわれた松本金太郎は実兄であったが、祖父の中田万三郎は加賀藩前田家の御抱え能役者。酒井美意子さんの雅楽頭系酒井家と通うものを感じます。改めて雅楽頭酒井家について調べてみたら、なんと、谷崎最初の妻、千代夫人の出身地、前橋市のサイトに見つけました
谷崎作品と鏡花といえば、まず浮かぶのは『饒太郎』の主人公、泉饒太郎ですが、初期から晩年まで、鏡花周辺はずーっと埋め込まれているのかもしれません。



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