『葵の女―川田順自敍傳』(1)
今回は、川田順著『葵の女―川田順自敍傳』を取り上げたいと思いますが、内容の都合上、2回に分割して書いていきたいと思います。
※2022-09-03
本へのリンクを外に出しました。
図書館送信対応になりましたね。国会図書館に登録してログインし、デジタル資料のサムネイルをクリックすれば、お手元のパソコンで読むことができます。
葵の女とは
葵の女とは、徳川慶喜の娘で、高崎藩最後の藩主大河内輝声の長男である大河内輝耕に嫁いだ女性です。幼少時から後の大正天皇妃候補になっていましたが、「身体丈夫、性質も宜敷、発明」だけど、背が低すぎるということで候補から外れ、大河内輝耕に嫁ぐことになりました(浅見雅男著『皇太子婚約解消事件』)。当時は海外の人との交際も考え、背がある程度ある女性を皇太子妃にしたかったようです。
※2022-09-03
本へのリンクを外に出しました。
『葵の女―川田順自敍傳』では、最初はB女という呼び名で登場します。
出会い
国子さんは、竹柏会という、佐佐木信綱主宰の短歌結社に参加していました。参加している方々は女性が多かったようです。その中で川田順の立ち位置は、いわば佐佐木信綱が監督で川田順がコーチのような感じでしょうか。子供の頃から女性たちの中で育ったこともあり、そりゃあモテたことでしょう。実際、そのモテぶりが本を読む中でもわかります。
A女とB女
そのような中で、川田順の前にA女とB女の2人の女性が現れます。A女は川田順が積極的に好きになった人、B女は既婚者ながら川田順を一生懸命追いかけます。
A女については両想いにはなったようですが、彼女の父(岡山県出身の謹直な老官吏と書かれている)が川田順を認めなかったそうで、なかなか進展しません。そのような中で川田順の住友への就職が決まり、B女は大阪まで追いかけました。ここで川田順の気持ちはB女に固まります。
実際、東京にいる時も、川田順を探してA女の家に押しかけたり、時々牛込の川田家に来て、兄嫁には千姫とあだ名され、川田順の竹馬の友である山本義路(帯刀の何代か後のこの方と思われます)には直接たしなめられています。
千姫は言わずと知れた徳川家康の孫。後に本多氏に嫁いだので、母が本多氏の川田順を追いかけていることからそのように呼んだと思われます。
有馬温泉
川田順が大阪に行った後(大阪を選んだのは、国子さんの危険を避けるためもあったそうです)国子さんがそこに訪ねて行き、しばらく滞在した後、有馬に逗留しました。その時の侍女が、
と悲痛な顔をしたことが書かれています(シマは仮名で、後にクマという名だったことが明かされます)。
この恋愛には、国子さんの兄弟である徳川慶久も同情者の一人だったそうで、自らも侍女の一人との恋愛に悩んでいたそうです。
そんなこともあり、川田順は東京の支店に転勤を申し出ますが、上司は東京に行くのは君の将来のためにならないと却下して、さらに、「危うきに近寄らないがいい」と一言おごそかにつけ加えたそうです。
結婚
3年後、川田順は京都の女性(河原林義雄の次女)と結婚し、A女はサラリーマンの妻となって朝鮮に行き、B女はロンドンの夫のところへ発ちました。
この結婚は、戊辰戦争の傷を残す人たちには大きな意味があったらしいことに最近気づきました。佐幕派と勤王派を象徴的に結び付けており、それが京都での谷崎作品人脈に繋がっていきます(河原林義雄の父安左衛門は、鳥取藩山国隊親兵組を率いた)。
ただ、夫婦仲はあまり良くなかったようです(山国隊は彰義隊と戦っていますので、子供のころに「彰義隊が好きだ」という詩を書き、大人になってからもその心を持ち続けた川田順としては、最初から気に入らなかったのでしょう)。というか、仮面夫婦? それでもビジネスマン川田順としては舅との付き合いはあったと思われます。また、川田順の長兄である鷹氏の子である周雄氏を養嗣子しており、そのあたりは『蓼喰う虫』を思わせます。
復活
川田順と国子さんとの仲は、昭和3年、川田順が47歳の時に国子さんの養嗣子夫婦から手紙が来て復活し、国子さんが亡くなるまで続くことになります。
国子さんの件は、谷崎作品にも影響しているようです。特に『春琴抄』とか。この本には47歳の時の国子さんの写真が掲載されていますが、見た時に「春琴だ!」と思いました。昭和の谷崎作品に有馬温泉が象徴的に登場することも、そのあたりが影響しているのかもしれません。
『椿の花 國子歌集』
上記タイトルの歌集があるのを知りました。国子さんの死後、国子さんの恋を見つめてきた養嗣子の方が出版されたのですね。
よろしければサポートをお願いします。いただいたサポートは資料収集等研究活動に使わせていただきます。