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『葵の女―川田順自敍傳』(2)

川田順に注目したきっかけ

谷崎作品と川田順との関係について興味を持ち始めたきっかけは『夢の浮橋』でした。昭和22年の昭和天皇との会見メンバーが、ことごとく徳冨蘆花著『不如帰』のモデル群と繋がったことや、『夢の浮橋』完成直前に谷崎に贈られ、読んだと思われる『葵の女―川田順自叙伝』について、谷崎自身が『当世鹿もどき』で触れていることから、この「葵の女」について興味を持ったことも大きかったのです。
下記のPDFは、2013年3月に谷崎研究会で発表した時に作ったものに加筆した関係図です。よろしかったらご覧いただいてご活用ください。

もう1つ、やはり『夢の浮橋』を調べていたときに細江光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』を読んでいたところ、谷崎の父にもう一人兄がいたこと、そして、ここで小中村清矩という国学者がいたことを知ったことが、大きな転機となりました。小中村清矩の名は、『葵の女―川田順自敍傳』の中で、根岸の別荘によく来た、父の知人の一人として早々に登場します。さらに『小中村清矩日記』には、川田甕江、小中村清矩、佐々木弘綱との間で『栄花物語』の輪講(主宰は川田甕江の模様)が長年続いたことが記されています。このことは谷崎の初期の作品の題材として影響を与えたのではないかと考えています。
また、輪講の他に汁講というのもあり、こちらは小中村清矩が主宰のようで、テーマは『源氏物語』です。

川田順と文学作品

川田順は、この自叙伝の中で次のように書いています。

「神尾將軍は有島武郎の岳父だ」といふと、やつと正氣づき「それなら知つてる」と寢ぼけまなこをこするだらう。當世では文士のうはさをするに限る。神尾大將といへども、有島の岳父であつたといふことだけで辛うじて歴史に殘る。大山元帥が「浪子」の父であつたごとくに。

川田順はこの自叙伝の中で、姉綾子が金色夜叉の鴫澤宮(鴫澤という名字は、『春琴抄』のてる女の名字であり、「鴫立沢」との関連で要チェック)のモデルだと、各種証言をもとに主張しています。また、綾子さんの友人としてよく来ていた人として、浪子のモデルといわれる信子さんのことも書いています。
小説のモデルは特定の一組だけではなく、参考にする作品や周囲の人物たち等、いろいろ混ぜたうえでオリジナル作品が構成されるものと思われますが、川田順はそれが理解できなかったのかもしれません。いや、十分理解しているけれども、そこに自分の周囲をより強く埋め込むことに熱心だったのかもしれません。たとえば昭和初期に谷崎が作品の関係で川田順に会って帰った後、「川田順は俗物だ」とゲッソリしていたことが高木治江著『谷崎家の思い出』に書かれていたり、渡辺千萬子著『落花流水―谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出』にも、川田順はしきりに谷崎に会いたがったけれども、谷崎が川田順を避けていたことが書かれています。おそらく作品にちょっかいを出されるのが嫌だったのではないかと思われ、その形跡は、複数の作品で見られます。

なお、モデル問題で中断に追い込まれた『鴨東綺譚』については、伊吹和子著『われよりほかに』に中断の際の「著者の言葉」について次のような記述があります。

Y子さんの、めまぐるしい恋愛遍歴や家督争いの賑やかな噂は、『鴨東綺譚』の書かれる何年も前、私がまだ女学生であった頃から、京都中を駆け巡っている感があった。噂を知っている京都の読者にとっては、小説にどこまでそれが書かれているか、または自分の持っている情報と小説の内容が合致するかどうかが、興味の的であったと言っても過言ではない。つまり事実は、この小説で俄かにY子さんの所業が有名になった、というのではなかった。そのため連載第六回の「著者の言葉」は、正直言って今更、という気がし、どこやら白々しい響きがあるように思われたが、それは先生のY子さんへの心遣いがそうだというよりも、何か、入り組んだ裏の事情が、こういう殊更めいた弁解を書かせているというふうに、私には思われたのであった。

伊吹和子著『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』

中断に際しては、Y子さんに恋するH氏という銀行員一人が大いに立ち回ったことが書かれていますが、その結末は、Y子さん自身が書いており、それが『われよりほかに』に引用されています。

が、その後に、伊吹和子さんはさらに続けます。谷崎が疋田奈々子と対照的に描くとした矢筈弓子のモデルとして奥村冨久子さんが定説になっていることに対して。

潺湲亭で『鴨東綺譚』中止の顛末を伺った時、先生は「矢筈弓子」について、「ほんとなら奈々子みたいな女がもう一人出て来るはずだった」と言って、
「京女」っていうと、誰でもみんな、美人で上品で古風だろうと思っているようだが、そんなこたあ、ありませんからね。そりゃまあ、君のように真面目一方でいつも礼儀正しくて、その分面白くもおかしくもなんともない人――と、先生は口を滑らしてしまわれた――がほとんどだが、中には随分お行儀の悪い変り者も沢山いるからね。何も、Yちゃんだけがどうこうっていうんじゃあ、ありゃしない」
と言うと、ちょっと悪戯っ子のような顔をされた。ああ、あの人のことか、それともあの人――と、いくつかの名がすぐに私の頭に浮かんだ。当時の京都では、何人かのいわゆる上流階級の夫人の噂が、Y子さん同様にかなり派手に流れていたのである。

伊吹和子著『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』

谷崎がY子さんに中断の約束をする前に、Y子さんから次のようなことを言われています。

「娘たちがかわいそうだ」

伊吹和子著『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』

谷崎はこの言葉に何かを感じたのではないでしょうか。作品も、真面目な娘の苦しみが表現されているところで中断しています。

ここに「著者の言葉」の画像を載せておきます。

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週刊新潮1(5)(5);1956・3・18より

2022-02-03追記
昭和17年朝日新聞社発行の『定本 川田順歌集』の川田順年譜には、

明治十五年
川田順  一 歳
一月十五日東京三味線堀に生る。宮中顧問官文學博士甕江川田剛の三男、生母は淺草藏前商賣の女本多かね。家系藤原氏にして、那須與市宗隆より出。

『定本 川田順歌集』

と書かれています。

老いらくの恋

『鴨東綺譚』が書かれた時は昭和31年。川田順の「老いらくの恋」はすっかり解決した時期ではありますが、落ち着くまでには曲折がありました。俊子さんはすでに離婚しており問題はなかったはずなのに、川田順は谷崎を始めとした友人達に遺書を送ったうえで、死別した妻の眠るお墓の前で自殺未遂をし、その翌年、ようやく結婚しました。そのあたりは、小説ですが、辻井 喬著『虹の岬』をお読みいただければと思います。

なお、「老いらくの恋」というテーマは、新村出高峰秀子に対する気持ちを素材に準備中だったことが『当世鹿もどき』に書かれています。だから川田順の遺書に接して「しまった」と。

ところが「おいらく」はそれよりずっと前、『初昔』の頃からテーマとして谷崎の中にはあったことが、決定版谷崎潤一郎全集 第25巻の創作ノートからうかがわれます。
そこで調べてみたところ、『初昔』は昭和17年で、「葵の女」国子さんが亡くなった年でした(そういえば、川田順の『鷲』も昭和17年ですね)。川田順の最初の妻が亡くなったのが昭和14年。そう考えると、何かしらのリンクがあったのかもしれません。

徳川慶喜と津山松平家

ここで徳川慶喜津山松平家(谷崎作品との関わりでは越前松平家全体で見たいところですが、ここで出てくるのは津山松平家なので、見出しを修正しました)との関係について、『葵の女』から引用します。

當時江戸城の總裁であつた松平三河守齋民(作州津山藩主)は彰義隊の澁澤成一郎(後に隊から脱退し、維新後は實業家になる)を城中に召して「慶喜公も恭順せられたのだから、粗暴の行動をするなかれ」と戒めたが「解散せよ」とは言わなかつた。明治泰平の世となつて齋民の嗣子(男爵・理學士)と慶喜公の第四女浪子との縁談のあつた時、浪子は泣いてことわつたが「津山公には義理があるから是非承知してくれ」と公が拜むやうにして納得させた。このことは浪子さんの妹の國子さんからボクが直接聽いた話である。

『葵の女―川田順自敍傳』

その後、さらに浪子さんの姉筆子さんの長女(蜂須賀年子さん)が松平康春氏に嫁いでいます(上記関係図参照)。
蜂須賀年子さんの『大名華族』の新聞広告が出た時は川田順は「おどろいた」と書いていますが、これは本を作る際に追記したようです。「葵の女(三)」の最後にこのようなことを書いています。

B女の姪の蜂須賀年子さんも健在だ。大阪時代に稀に逢ひ、近來もときどき逢ふ。「自傳をお書きになつたら」とすすめ度いが、餘計なことかも知れない。

『葵の女―川田順自敍傳』

ところで、渋沢成一郎って、大日本人造肥料取締役で渋沢栄一の従兄なのですね。大日本人造肥料は谷崎の親族に大いに関わりがあります。
そのあたりは釜屋堀公園にある化学肥料創業記念碑がとても参考になります。

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谷崎家関連について詳しくは、谷崎潤一郎研究のつぶやきWeb「萬平氏が相続した屋敷について」をご覧ください。

広がる人脈

その他にも、この本には実にたくさんの人物が顕名匿名問わず埋め込まれています。それらをたどっていくと、谷崎作品周辺人脈の広がりが見えてきます。

この本に書かれていること以外でも、谷崎は佐佐木信綱とは終生交際していたことは知られており、その先には池邊義象(小中村清矩の女婿だった)や徳富蘇峰(池邊義象と徳富蘇峰は同郷)も見え隠れしています。

(1)で登場した竹馬の友、山本義路という人についても調べてみたのですが、住所・生年からしてこの方と思われます。山本帯刀の何代か後ということで三河山本氏と思われ、その中には山本勘助の名も見えますね。
山本勘助の末裔といえば、山本覚馬。そのルートも谷崎作品周辺では非常に興味深いものがあります。
どうやら牧野氏と山本氏は大きなポイントのようですね。
松子夫人が根津夫人だった頃、谷崎が手紙の宛名を根津御寮人としたこと、後には重子夫人(松子夫人の妹)にも御料人(諏訪御料人を意識しているか?)と書いていたことが『谷崎潤一郎の恋文』からわかりますので、そのことも含めて、谷崎作品に埋め込まれている結び玉をこれからもたどっていきたいと考えています。

Twitter等での投稿

川田順の母についてほとんど触れませんでしたが、そのあたりはラブレターズという私の別のサイトの記事もご覧ください。『春琴抄』との関連が見えてきます。Twitterの該当記事もご覧いただけると嬉しいです。


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