男運が壊滅的過ぎて縁結びの神社に連れて行かれた女の話②
例えば「好き」が100だとして。
私が80の好きを相手に向けているとして、相手が私に20しか好きがないとしたら。埋まらない60はどこに行くのだろうか。逆も然り。
「お前まだそんな面倒なこと考えてんのか」
縁結び神社までのドライブの車内、ふとこんなことを零した私にパパがばっさりと切り捨てた。私の手には御朱印帳が握りしめられている。先輩達には、めちゃくちゃ気合い入ってるじゃん、と待ち合わせ場所で会った瞬間に笑われた。
「こんな風に考えること自体もしかして普通はあんまりない感じですか?」
「いや実際今まで気持ちの差を感じたこともあったけど、もうそれは仕方のないことだろ」
「ママも?」
「あるよ~でも付き合ってるならそれで十分」
「F原さんは…やっぱりいいや」
「なんでだよ俺にも聞けよ」
「なんかひとつもためにならなそう」
「よく分かってんじゃねえかよ」
ママの「付き合っているならそれで十分」という言葉にこの人は本当に心から好きな人と付き合ってきたんだろうなと、なんとなく感じた。
今まで、別れた理由に共通しているのは「この人は私に興味が無いんだろうなあ」という脱力感にも似た諦念の感であった。私ばかりが好きならまだいいのだ。2人目の彼氏とは好きの質量が明らかに違った。彼の方が私を好きだったのだと、今なら思う。気持ちを同じだけ返せないことが、当時の私にはとても心苦しかった。あの心苦しさを「仕方の無いこと」で割り切れていたのなら、私はもっと自己肯定感の高い女であったはずだし、もっともっと大人であったはずなのだ。
いつも、全てにおいて自信が無いのだ。
愛することにおいては特に。
自己肯定感が低いから人を愛せない!なんて居酒屋で叫んで後輩に爆笑されたこともある。事実、フロムの哲学書にも同じことが書かれていた。
「まあ何はともあれお前はこれから男運を上げに行くんだから」
「…どうしようお参りした後私のインスタが彼氏を匂わせるキラキラインスタグラマーのそれになったら」
「ならねえよ」
昼前に到着した。
夏場は大量の風鈴が境内を彩ることで有名な神社には、既に人がごった返していた。手水舎で手を清めていると、案外カップルが多いことに気付き、無意識にしっぽを喧嘩腰に膨らませる私をF原さんがどうどうと落ち着かせる。もう結ばれてる人間が何しにきてんだよ。
ご縁がありますように、とあまりにもベタな願掛けとして五円玉を投げ入れようとして、十円玉しかないことに気付き、いや倍になるからいいもん、と心の中でひとり言い訳をする。
神様、どうかよろしくお願いします。
このままひとりが平気になるのが怖いのです。
いい加減、そろそろ寂しいので。
なんとかしてください。
御朱印(この時期は頒布形式である)と縁結びお守りを買うと、うだるような暑さに顔を火照らせた巫女さんが心ここに在らず、といった様子で鈴を鳴らしてくれる。本当にご利益があるのだろうか。
鯛の形をした恋おみくじを釣ると、中には花言葉が書かれたおみくじが入っていた。
水仙
花言葉:自己愛
どんなに外見を磨いても自信がなければなかなか最初の一歩が踏み出せないものです。時には自信をつけるためには「うぬぼれ」も必要です。手に入れたいのであれば、時には他人を押しのけてでも掴み取る勇気を持ちましょう。ただし、いつも自分中心では周りの協力は得られません。周りへの気配りを怠ることがないよう注意しましょう。
図星である。
おみくじ自体は末吉だった。
まだ続く。