春が嫌いな女の話

この性分である。
春に希望を抱き、期待に胸を膨らませたことがない。

4年間通った大学を卒業した。らしい。
目には見えないウイルスという名の憎まれっ子はあっという間に世に憚り、まさに「大規模イベント」の権化である卒業式は、ごくごくあっさりと中止になった。

この件に関して、ひとつも文句はない。
大学内で働かせて貰っていた身としては、ひとつの物事を決めるにも大変な労力がかかることを私は知っている。春からもちょっとした教育関係の末端というような仕事に就くため、ただただ「大変だったろうなあ。この先も今回みたいなことが起こったら大変なんだろうなあ」という気持ちだけである。 

友達と袴を着て記念写真!というような、学生最後のはしゃぎイベントを逃したことは残念な気もするが、その肝心の友達も数える程度しかいないのだ。
そもそもの話である。
というか、友達がまずいない。
(袴は私を不憫がった両親がレンタルしてくれたため、なんとか写真だけは残してもらえた)

酷く落ち込んだのは、父の方だ。
4年前の入学式以来、東京に遊びに来ていない父は卒業式を今か今かと心待ちにしていた。卒業式が中止になった際のあの落胆ぶりは、目も当てられなかった。
年寄りが落ち込む姿は、酷く心に来るものがある。

私が今酷くセンチメンタルな気分で新幹線に揺られているのは、きっと両親が私が気が付かないうちに、思ったよりも年を取っていたことだろう。

ゆっくり帰省出来るのなんてきっと最後だろうから、と実に2週間近く地元にいた。毎日両親と顔を合わせ犬と戯れる生活の節々で、彼らが年を取ったなと感じる瞬間がままあった。

確かにそれはそうなのだ。
私自身が20際をとうに超え、春から社会人なのだから、まわりもそれ相応に年をとるのである。祖父とはあと何回会えるかな、なんて寂しい話が出てくるのも無理はない。

ただ、当たり前のように私を支えてくれた大人達もいなくなる日が来るのだな、と気が付いてしまったから手に負えない。

朝、階段の下から私を呼ぶ犬の声や、人にぺったりとくっついてお昼寝をする犬のまあるい頭の形を手のひらが覚えるくらいには撫でてしまったから手に負えない。

とにかく、寂しいのだ。
ひとことで言えば寂しいのだ。
(なげえな、と思っているだろうが、要約すると私は今寂しいのだ、ということだけを話している)

寂しさにくわえて、「春から社会人」という事実が私のセンチメンタルに拍車を掛けてくる。きっといじめられる。お局に「お茶も満足に入れられないの!?」なんて見えないところでお茶を掛けられるのだ。コピーはミスをし、電話は満足に取れず、怒られ続ける日々が来るのだ。

思えば、大学生活で最も悩まされたのは人間関係だった。ほとんど全ての諸悪の根源は私であるが、とにかく自分のコミニケーション能力の無さと、人望のなさ、そして性格の悪さを痛感した。こんな人間が社会に出ていいはずがないのだ。早くまともに働いて、立派な人間になって恩返しをしたいという気持ちもあるけれど、こんな人間が出来るはずがないとも思う。

入職日まで、この意味の無いぐるぐるとした気持ちを持ち続けて過ごすのかと思うとぞっとする。というか、いつまで経っても入職の案内は来ない。
どうなってんのマジで。

さらっとこの4年間にさよならを告げて、
心の準備も出来ないまま、もうすぐ新しい春が来る。

春は嫌いだ。





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