アジア的?アートスクールへの検討
とある記事を見た感想と、そこから連想して考えたこと。
なるほど、たしかにアートというのは自由などの価値をその時代にあわせた形で実現していくための、「市民」の精神が発露したものかも知れない。
「アートや文化ってのは基本的に心地の良いものじゃないんだよ」というのは、そういう文脈での話という側面が大きいかなと思う。
自由などの絶対的過ぎる究極的な価値を打ち出してしまうことで、具体の問題が無視されたりなかったことにされたりしてしまう部分はたしかにあるわけで、そういう具体の問題にアプローチしていくためにも、心地の悪いアートというのが生み出されていくのだと思う。そしてそういうアート作品って、なかなかに気持ち悪いものも多かったりする。
一方で自分が自分のチームやその周辺で検討しているアートの方向性は、かなり清らかで美しいものを志向していってる部分があって、「こういうのでいいんだっけ?」みたいな議論はチーム内でもちょいちょいやっている。
歴史ある地域でのアート活動になるし、そういう方向性のアートをやっている人がわらわらと集まりやすい。
清らかで美しいものっていうとスピリチュアルや宗教性に向かっていってしまう部分は一般にあると思うのだが、そういうことではない、何かうまく説明できる言葉やフレームワークを探している。まあそんなものなくてもいいんだけど。
たとえば一人のアーティストは「結局は般若心経で説明されているような”空”を伝えたい」みたいな考え方をしていて、一つの参考になるように思った。
禅語や禅画も往々にしてそうかと思うけど、伝えたい価値はほぼ一つで、それが伝わるように手を変え品を変え表現していく。でも伝えたい究極的価値は一つ。「青山元不動白雲自去来」とか「閑坐聴松風」とか、「古池や蛙飛びこむ水の音」とか。仏教の素材ばっかりになっちゃうけど、弥勒菩薩が56億7千万年のあいだ微笑んで待っているような。
その表現にふれることで、いつか脳内の回路が組み変わって気付けるようにする。みたいなアプローチかな〜っていう話をした。
そういうのって、アジア、特に東洋アジア特有の宇宙観に基づいているのかも知れないなーとも思う。そしてそんな発想でアートスクールを考えていくことになりそう。
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