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河上利治論③ 祖父河上彦斎
勤皇家 河上彦斎
大君の為にと尽くせまごころを
我が生みの子のいや次つぎに
という歌がある。
誰の歌かご存知だろうか。
これは河上彦斎の残したのものである。
我が子孫は代々君のために尽くせという彦斎の想いが込められている。
言わずもがな大君とは帝をさす。
人斬り彦斎としてよく知られているが、彦斎を一言で表すには勤皇家という表現がよく当てはまる。
後世の作家が、彦斎を幕末四大人斬りのひとりにしてしまったことで現在のイメージにつながっている。
人斬りとして記録に残るものは、佐久間象山の暗殺のみである。
それほどまでに象山の暗殺が我々に与えた影響は大きかったのかもしれない。
彦斎は肥後の国学者、林桜園の門下として尊皇思想を学んだ。
桜園の神道観とは、惟神の道を説くことであった。
神の命を請け奉る方法を記紀における神事の例を引いて示し、かく神の命を請け負った時は、天下よく治まり、敵国を服し、外夷を従えた、と事例を挙げ、古来からの教えを守ろうとした。
また、肥後勤皇党の同士である轟木武兵衛、宮部鼎蔵とも深く交わり自らの思想を深めていった。
彦斎は勤皇党のひとりとして幕末の風雲を駆け抜けた。三条実美ら攘夷派の公卿からの信任も篤く、ある時は京の都で、またある時は長州で高杉晋作と共に活躍した。
では、彦斎の思想とは如何なるものであったのか。
尊皇攘夷の志があったことは言うまでもない。
維新後に述べた彦斎の言がある。
わが同志がかしこくも御親征を仰ぎ、成敗を顧みず、国の総力を尽くして攘夷の大典をあげよというのは、かくすればたとえ一時敗るることがあっても、上下非常の覚悟で一致し、内には綱紀を張り、外には国威を振るうこともでき、ついには外夷も我が国の真姿を見直し、礼を以て来るに至ること必定と思うからに外なり申さぬ。そうなってはじめて開国も可なり。通商も可なり。名正しく言順に、国利国権二つ並び立つ。それを先方の巧妙な弁舌に乗せられ、卑屈にも刀は鞘に納めて当面を糊塗し、智者巧者ぶって外夷と手をにぎるなどは日本男児のすることではござるまい。
討幕後、開国派に転じた桂小五郎(木戸孝允)などに対しての言葉である。
「帝の名の下に攘夷を断行し、たとえ負ける事があっても日本人全員が一丸となり戦えば、国の力を見せることもでき、彼らも礼をもって接して来るだろう。開国はそれからでも遅くない。最初から負けを恐れて開国し夷人にへつらうことは日本男児のすることではない。」
とのことである。
その一方で、単なる排外的な攘夷主義者ではなかったことを示す話もある。
彦斎の論はいわゆる洋夷牽制論のようなものであり、決して鎖国攘夷を行うだけではなかった。
門下の中村六蔵に、今後日本は地政学的にロシアと関係が重要になってくるので、ロシア語が必要になるといい、その習得を勧めたという話がある。
また、蝦夷地を開発し、朝鮮半島や清などの近隣アジア諸国との交易を行い、富国強兵を図りロシアなどの欧米諸国に対抗しようとした。
だが、明治政府は彦斎を攘夷思想に固執した存在とみなし、捕縛する。
広沢真臣暗殺という濡れ衣を着せ、斬首の刑に処した。
その志は子孫に受け継がれる。
一族勤皇の志
ここで冒頭の歌に戻る。
大君の為にと尽くせまごころを
我が生みの子のいや次つぎに
この歌そのままに、勤皇の志は子彦太郎、そして孫である利治氏に受け継がれている。
子の河上彦太郎は、明治のいわゆる壮士と呼ばれる存在であった。
日本国内にあっては、天下国家のために各地を遊説して回り、外にあっては満州や支那に活躍した。
このように政治家などではなく、在野の浪人として活躍することが、この時代の男子の生き方でもあり、彦斎の遺児としての誇りでもあったのではないだろうか。
そして孫の利治氏は、内田良平に師事し民族運動に邁進した。
利治氏は「龍洞雑記」の中で自身の人生をこう述べている。
私の場合は、今日の私の日々の生きる仕振りはそのまま国家に対する貢献、民族に対する献身、天子様に対する尽忠として、この儘なる生き方をこの儘に続けて行けば、それそのままが、父の教えに従い、祖父の遺志に反かざる事となるのでありまして、この事は余り世に類のない実に有難い事であり、幸福な事と思ったのである。
自らの人生そのものが民族運動であり、それが祖父や父の遺志を継ぐことなると述べている。
では、そのような人生に至った経緯は何なのであろうか。
全てを明らかにするのは難しいが、その一端を解き明かすために、利治氏の幼少期を見てみたい。
自身の思想は、自らが経験したことが大きく影響する。それは生まれ育った環境や幼少期の教育も含まれるだろう。
利治氏は幼い頃より和歌に親しみ育った。
彦斎の妻であり利治氏の祖母である天為子は、幼少期の教育に和歌を教授した。
それは彦斎より続く尊皇の志を受け継がせるためでもあった。
和歌と天為子。
このふたつのキーワードが、今後話を進めていく上で重要になってくる。
ここから先は次回の報告内容としたい。
おわりにー今後について
今回は、利治氏の祖父にあたる河上彦斎の思想について見てきた。
彦斎については世間でよく知られている人物ということもあり、今回は生涯全てを見るのではなく、“勤皇家河上彦斎”という点を中心に記述するにとどめた。
今後は利治氏の幼少期の教育、特に祖母天為子との関係について見ていく。
特に、和歌という点について焦点を当てて考えていきたい。
またその後は、祖母天為子、父彦太郎など河上家の人々についても詳しく見ていければと考えている。
河上彦斎の志を受け継いだ者たちの生き方に迫っていきたい。
参考文献
荒木精之『定本 河上彦斎』(新人物往来社 1974)
河上利治「龍洞雑記(十)」(『民族公論』第12巻1号 民族公論社 1962)
河上利治「龍洞雑記(十一)」(『民族公論』第158号 民族公論社 1962)
森川哲郎『武道日本(上)』(プレス東京 1964)
週刊長野記事アーカイブ “11 河上彦斎 〜「逆袈裟の斬り上げ」で斬殺”
http://weekly-nagano.main.jp/2012/07/11-17.html 参照日 2025/02/05