エネルギー

文化祭を経て感じるのは、若者のエネルギー量がとてつもないということだ。ただ単に溢れ出るエネルギーをそこに投入する、そういった行事なのだ。純粋無垢な若者のエネルギーは見返りが何かあるわけではない「学校行事」に、ただひたすら打ち込むのだ。自分の居場所を求めているからなのか、自分を誇示したいからなのか、単純に楽しいからなのか。そこには行動の動機づけは必要がなく、単なるエネルギーの矛先なのかもしれない。

「物事の根本はエネルギーである」という言葉を思いついた。自分の中にどれだけエネルギーがあって、溢れ出る活動力・生命力みたいなものが自分を突き動かす。私が筋トレを続けているのもそうで、自分の中でエネルギーが溢れ出てるようにしたい。そんな思いがある。エネルギーがある状態にあると、常に前進しようとする。エネルギーがある状態にあると、困難にも立ち向かえる。自然と手が動き、足が進み、無意識に活動を行っている。そんな状態である

なんとなく自分が知っている凄い人は、身体からエネルギーが溢れてでいるように感じる。自分のなかに留めきれていないというか、納めきれてないというか、とにかく出てしまっている。覇気というかオーラというか、自分のなかに納めきれない何かが放出されているように感じる。それでいて、気づいたら行動していて、気づいたら手を動かしている。止まることを知らない。単純に私がそういう人を尊敬しているから、ということかもしれないが。


最近思うのは、エネルギーは無意識のうちに譲渡されたり他者からもらっていることがある、ということ。「教員は年齢不詳」という業界特有のあるあるが存在しているのだが、おそらくそれは日々若者から放出されるエネルギーを受けているから、のように思う。教員の滅私奉公的な献身的な姿勢や「やりがい」みたいなものは、この生徒から受けるエネルギー由来であるとも感じ取れる。

一方で、強烈な結果を出すチームのリーダーは、とてつもないエネルギーを放っている。リーダーのエネルギーが、組織の人間に伝播し、組織全体を引き上げているようにも思う。何かしらで日本一になったり、突き抜けた成績を残す人間が別の分野でも活躍するのは、どこにエネルギーを放出するかという方向性の問題なのかもしれない。

ともかくエネルギーがとにかく大事なのだが、そのために身体を鍛えること・健康的な生活を行うことは大切である。

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