具現化される贖罪の対象.良心による窒息
SF小説を原作に持ちながら、限りなく内省的で、人間的な作品だったと思う。
「すべてのシーンを地上で成立させるつもりだった」と語るタルコフスキー監督の言う通り、SFの要素は確かに美術的な観点からみれば芸術的とは言い難く、単に機械的で,ハイテクではあった。しかし、その冷徹で無機質な非人間的環境下は、そこで起こる人間的な葛藤や苦悩の輪郭を鏡のように映し出す素晴らしいコントラストとして機能していた。
『惑星ソラリス』1972年 旧ソ連
監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アンドレイ・タルコフスキー
原作:スタニスワフ・レム
総合評価:4.8/5.0
映画は大きく三つのセクションに分かれていて、タルコフスキー作品の中でも特に脈略のはっきりした作品で理解しやすかった。
前半の地球でのシーンでは、主人公クリスの人間性や父親との関係、自然への愛が深く描かれる。
次に惑星ソラリスの宇宙ステーションでのシーンでは、ソラリスの海との意思疎通の難解さと、未知の現象“お客”による混乱と葛藤、さらに故郷(美しい地球)への郷愁が描かれ、
最後の〈故郷〉でのシーンでは、父親との再会と、郷愁からの解放などが描かれる。
相変わらず謎めいたシーンも少なくないが、我々の潜在意識へのアプローチとして効果的に機能していたと感じる。
例えば、冒頭では澄んだ水面に揺らぐ水草が、まるで生きているような滑らかさをしている不思議なほど美しいショットがあるが、のちに映し出されるソラリスの海の蠢きを見たとき、地球の水草と似たような揺らめきをしていることを想起させられる。
クレショフ効果と言って良いのかわからないが、それと近い感覚を覚える。もうひとつ説明を加えるなら、水草とソラリスの海が僕の脳内でデペイズマンを生じさせ、その双方に新たなイメージを抱いてしまい混乱する感覚だ。水草とソラリスの海として知覚しているそれらの映像は、水草でもソラリスの海でもない“何か”を魅せてくる。
潜在意識に浸透してゆくような不思議なシーンの数々を始め、それらのショットの美しさも無視できない。
中でも、近未来的な移動手段の表現として用いられた東京の首都高はユニークで見応えがあった。交錯する高速道路の都市感とトンネルの照明の加速感が、特殊な効果音楽と相まって刺激的で、胸躍る映像となっていた。
以上が簡単な感想であるが、それらとは別に本作で触れておきたいことがふたつあるので、ここに書いておきたいと思う。
ひとつめは、人間の「良心」について。
惑星ソラリスの側にある衛星に辿り着いた主人公のクリスは、不可解な知的生物とみられる“ソラリスの海”によって作り出された妻の存在に困惑し、苦しむ。かつて死別したはずの妻と同じ肉体と思考をもつそれのことを、他の研究者たちは“お客”と呼び、人間ではない存在として非情に接していた。
しかしクリスは、泣いたり,痛みを感じていたり,怯えていたりする彼女に良心を痛め、人間と同様に扱う。
それでもやはり彼女は人間ではなく、死んでもすぐに蘇生したり、宇宙空間に放っても次の日には別の個体として彼女が現れる。“お客様”である彼女は、愛を持って接してくれるクリスの良心に感謝する。
だがクリスは、確かに自身の良心によって苦しんでいた。そして結果的に、多くのものを失う。
本作を観終わったあと、僕はクリスと自身を重ねて考えていた。自惚かもしれないが、僕は良心の強い方だと思っている。それは他人の為でもあるが、同様に自分の為でもある。ある程度実感もしている。だが確かに、苦しんでもいる。どれ程考えても、どうすればいいのかわからない。この苦しみからは逃れられない。
作中、クリスと共に研究をしているスナウトが、「最も幸せなのは気づかない者だ。気づかないことが最も幸福に近い」というような事を言っていた。僕も全く同じ考えを持っているので、その言葉が他者から発せられた事で自分の中により深く浸透していった。
このことに解決策などない。スナウトの言葉を裏返せば、それは“気づいてしまったからには、永遠に苦しむ他ない”のだと思う。僕もこれにはとうの昔に納得している。
作中では、気づいてしまった者たちに対するせめてもの慰めとして、“お客”であるクリスの妻ハリーがこんな事を言っていた。「クリスが私を愛してくれるのは良心からなのかもしれない。けれど、私はそれでも構わない。彼はとても人間的だと思うわ」
ふたつめは、意思疎通のできない“ソラリスの海”に対してX線を放とうと主人公のクリスが提案し、議論になるシーンである。
ここで偏向思想的な発言がクリスからなされる。
「非道徳的でも目的を達成することは出来るだろう。ヒロシマのように。」
作品の内容とは逸脱した評価になるが、僕はこのシーンを削除しなかった日本の検閲を評価したい。他国でも削除しないラインなのかは分からないが、とにかくこのようなシーンは不要でも不適切でもないと思う。
前提として、この台詞が肯定されている訳ではない点と、監督のタルコフスキー自身が愛日家だった点は無視できない。
問題なのは、このように偏向的だったり,差別的だったりする内容を、無思考にも一概に拒絶し,排斥する運動だろう。そんな風に目に見えない処置を施し続けてしまっては、人間は身体的な感覚を忘れ、そして再び同じ過ちを犯してしまうのではないか。
少々過激かもしれないが、僕は問題意識や問題そのものは、皆無であるより、ある程度存在していた方が良いと思っている。
人間は歴史を積み重ねる事で過去を忘れないように記録,記憶してゆくが、やはり理解だけでは不十分で、そこに身体的な感覚が必要なのではないかと思うのだ。
本作のこのシーンは、そういう意味で価値がある。
本作のこの主題は、小説原作者のスタニスワフ・レム によるものというより、監督アンドレイ・タルコフスキーによって焦点を当てられたものらしい。
レムは“地球外生命体との交信不可能性のひとつのパターン”を緻密に創造する外的指向であるのに対し、タルコフスキーは“良心に苦しめられるその所有者である人間の問題”を物質化して表現した、内的指向であった。
どちらも人間にとって、作品にとって重要な指向であるが、映画『惑星ソラリス』はやっぱり良かった。タルコフスキー、好き。
関係ないが、タルコフスキーは、黒澤明に会いたくて東京をロケーションに選んだ節があるという話をどこかで読んだ笑
黒澤明がタルコフスキーを語るインタビューの中では、『惑星ソラリス』で使った宇宙ステーションの構造を、タルコフスキー監督自身が嬉々として説明する姿があったという。だが逆にタルコフスキー自身のインタビューの方では、『惑星ソラリス』は元々地球で完結させたかったらしく、宇宙ステーションなんかを使った表現には芸術的関心をそそられないから不満であった、という類のコメントが残されていて可笑しかった。タルコフスキーの可愛い一面を見たという気がした。