想像すること
15歳の頃でしたか、幼い頃から大病をして手術を繰り返してきたわたしは、退院して家に帰る途中の山手線の車内で年配の男性から叱られたのです。
「母親を立たせて、自分が座っているとは何ごとだ!けしからんな、最近の若いものはどうかなっとる!」
「さあ、座っていないで立ちなさい」とまで言われてしまいました。
私は、反射的に立ち上がったのですが、それを母が制し、
母はその初老の男性を一瞥すると下車するまで わたしを座らせたままでした。
母は男性を行為もろとも無視したのです。
私も男性も困ってしまいました。その場の空気が困惑していました。
平日の昼下がり、野生動物の母親が子供を守ろうとするようなそんな雰囲気が周囲を支配したのです。
私は、男性の言葉に傷つき、母親の無視で心がワサワサとざわめいてしまいました。
この場には足りないことが2つありました。
■ 想像する力
と
■ 言葉
です。
15歳前後は難しい時期ですが、普通の環境で育てられたら、
"若いものが座る" のは何か特別な事情があるんじゃなかと"想像"します。
前述の正義感の強い男性に多少の想像力があればこの事態は起こらなかったと思うのです。いつの時代も年配の男性は繊細な部分の配慮に欠ける人は多いようで、最近は「老害」なんて言われています。しかし、この人は良かれと思った行動だと推測されます。この人の中で培われた道徳の部分が垣間見えたわけです。
理想を言えば、男性は「想像力」を働かせて
「ああ、もしかしたら平日のお昼にお嬢さんが座って母親が立っている、これは何か事情があるに違いない。大病でもしたのかな」と
脳の神経が怒りの部分の導線に赴いたとしても、そこで
疑問を持つのも悪いことではないのです。
ここで、二つ目のトラップ。
母に多少の言葉があれば、周囲や私たちの殆どが心を落ち着かせることが出来たと思うのです。
いわゆる、「救い」のような部分だと思います。
母親は「お気遣いありがとうございます。娘は本日退院して帰宅する途中ですの」 的な一言で、全てを救えると思うのです。
この事例は誰も救われなかった出来事 として私の思い出に残りました。
一期一会ですが人間が集団で暮らしている以上なにかが起こります。
摩擦のようなことです。干渉や接触がない限り 平穏無事ですが、それでは磨かれない何かがあるでしょう。
傷つくのなら そこで更にもうワンセッションたたみかけて学んで磨かれることの方がもっといいんじゃないかなあと思うのです。
そのキーワードに「想像力」や「言葉」等(まだあると思いますが)のアイテムが必要で。
それをいつも心に持ちながら行動しようと思うのです。
もうこんなモヤモヤする事が無いように ネットの世界へこの出来事を記録しておきます。